5月6日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

迷路の日。 
5月6日の「5」と「6」で、「迷路(may[5月]ロ[6])」の語呂合せから。迷路は、複雑に入組んだ道を抜けて、目的地、ゴールまで辿り着くことを目指すゲーム、或いはパズルのことである。「迷路」は、英語で「maze(メイズ)」と言うため、特に、紙の上で解くパズルとしてのそれは「迷図(めいず)」という当て字をされることもある。作為的に作られたものを指すことが多いが、山道や繁華街の路地等の実在する入組んだ道を指して、比喩的に「迷路」と言うこともある。部屋や通路が入組んだ建築物は、特に迷宮とも呼ばれる。迷路の解法として知られるのは、右側の壁に手を付いて、ひたすら壁沿いに進むという方法、右手法である。右側の壁の代わりに左側の壁に手を付いても本質的には同じで、この場合は左手法という。壁の切れ目は、迷路の入口と出口にしかないので、右手法を使うと最終的には、入口に戻ってしまうか、出口に到達するかのいずれかになる。最短経路でゴールに辿り着けるとは限らないが、最悪でも、壁の長さ分だけ歩けば終了する。平面的な迷路であれば、右手法を使うと必ず出口に辿り着く。 しかし、迷路のスタート、又はゴールが迷路の中にあったり、或いは迷路が立体的であったりした場合は、右手法の結果、スタート地点に戻ってしまうこともあり得る。また、ゴール以外にダミーの出口があると、そちらに行ってしまうこともあるが、この場合は、ダミーの出口を無視して右手法を続ければ良い。あらゆる迷路を解くことができる解法として、「トレモー・アルゴリズム」が知られている。この解法は、19世紀のフランスの数学者エドゥアール・リュカによって紹介された。この方法は、本質的には「全パターンの経路をしらみ潰し的に試す」というものであるが、チョークで地面に自分が通った跡を残すことで、しらみ潰しを効率的にできる点に特徴がある。この方法では、迷路上の各々の通路は最大2回しか通らない(試しに進んでみる場合と、諦めて戻る場合の2回)。よって、最悪でも、通路の長さの合計値の2倍歩けば、ゴールに辿り着く。なお、紙の上で解く場合は、行き止まりを全て塗潰せば、結果的に正解が浮かび上がる。庭園の生け垣や、農地のトウモロコシやコムギを利用して「コーンメイズ」等と呼ばれる迷路が作られることもある。また、純粋に娯楽施設として、板塀で囲った迷路園も数多く存在する。遊園地のミラーハウスも、このような迷路の1つである。リアル型脱出ゲームとして、各種イベント等でも開催されている。1876(明治9)年、植木屋の川本友吉によって、現在の神奈川県横浜市西区老松町にあった「花屋敷」という遊園地に作られたものが、日本で最初の迷路園である。これをきっかけに、日本各地に迷路園が造られた。1980年代頃には巨大迷路ブームが起こり、各地の娯楽施設に迷路が作られた。これらの多くは、南西太平洋の洋上に位置するニュージーランドのパズル愛好家、スチュワート・ランズボローが手掛けたことから由来する「ランズボロー迷路」と呼ばれるもので、可動式の板塀を利用しており、そのため、定期的に設計を変えて、違うパターンの迷路を提供することができた。立体交差やチェックポイント、緊急避難用のゲート等を設け、幅広い年齢が楽しめる手軽な娯楽として成立した。興業者側の利点として、設置費用や撤去費用の安さ、維持管理の容易さ等が挙げられる。最盛期には、日本各地に100個以上の巨大迷路があったが、結果として一過性のブームに終わり、現在では20ヶ所程度にまで激減した。しかし、残っている施設は、適宜改修やリニューアルが行なわれ、根強い人気を誇っている。近年では、迷路とアスレチックが組合わされたアスレチック迷路や、複層型立体迷路と呼ばれる、複数階建ての建物の内部が迷路になっており、階を上がったり下りたりしながら攻略を目指す迷路施設等のアレンジ巨大迷路も作られている。紙の上で解くペンシルパズル(図示された問題に対して、答えを徐々に書込むことによって、最終的な解答を行なう形式のパズル)としての迷路には、多くのバリエーションがある。一見すると普通の絵画であるが、実は輪郭線に隙間があって、迷路になっているものや、正解のルートを塗潰すことで、絵が浮かび上がるものもある。日本のパズル作家では、前者は吉岡博、後者は相羽高徳、湯沢一之らが雑誌等で数多く発表している。因みに、動物心理学や動物行動学では、記憶や学習行動等の研究において、動物に迷路を通らせる実験を行なうことがあり、このような実験を「迷路実験(迷路学習実験)」と呼ぶ。
宮古港海戦の日。
岩手県宮古市の市民有志で2011(平成23)年3月に結成され、宮古の知名度の向上、観光の振興等を目指す団体、宮古海戦組が制定。宮古港海戦を通じて、宮古のことを多くの人に知ってもらうことが目的。宮古港海戦は1869(明治2)年5月6日(新暦での日付)、戊辰戦争の終盤、箱館戦争(新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘)の一幕となった海戦である。旧幕府軍が、新政府軍の軍艦を奪い取ろうとした一大作戦で、「日本初の洋式海戦」としてその名を歴史に残している。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦で、当時日本唯一の装甲艦(甲鉄艦)であった『甲鉄』への斬り込みによって、これを奪取するための奇襲作戦を決行したが、失敗に終わった。これは、アボルダージュと呼ばれる、いわゆる接舷攻撃で、敵艦に乗込み、これを奪い取るという、近代以降では世界でも数少ない戦闘事例である。新政府海軍の砲術士官としてこの海戦に参加していた、明治時代の日本海軍の指揮官として、日清戦争、及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引上げたとされる名将、東郷平八郎は、この奇襲の衝撃を、「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、日本海海戦(1905[明治38]年5月27日から翌5月28日にかけて、日露戦争中に行なわれた海戦で、日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊[「バルチック艦隊」]との間で戦われ、日本海軍の連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し、戦力の殆どを失わせたが、日本側の損失は軽微という、海戦史上稀な一方的勝利となった)での采配にも生かしたと言われる。現在、宮古市には東郷平八郎が残した、この海戦に関するメモが石碑となっており、観光地になっている。東郷平八郎は、薩摩国/大隅国薩摩藩藩士として、生麦事件(薩摩藩藩士達が、騎乗のまま行列に乗入れたイギリス人商人達を殺傷した事件)の解決と補償を、艦隊の力を背景に迫るイギリスと、攘夷実行の名目の下に、兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した薩英戦争に従軍した後、戊辰戦争では、木製外輪船の軍艦『春日丸』に三等砲術士官として乗組み、阿波沖海戦や宮古湾海戦で戦う。兵庫沖海戦とも呼ばれる阿波沖海戦は、日本史上初の蒸気機関を装備した、近代軍艦による海戦であった。新政府軍に属した薩摩藩の軍艦『春日丸』は、薩摩藩の運送船『翔凰丸』と共に、兵庫港(現在の神戸港)から鹿児島に帰還する途中、旧幕府軍のオランダ製軍艦『開陽丸』に発見される。当時最新鋭のドイツ製大砲、クルップ砲を含む26門の大砲を装備する『開陽丸』は、『春日丸』と『翔凰丸』を追撃し、敵艦に計25発の砲撃を加え、応戦した『春日丸』は計18発の砲撃を『開陽丸』に向けて放ったが、どちらも大きな損害には至らなかった。『春日丸』は、帰還が目的であったため戦闘を継続せず、『開陽丸』よりも速力が高く、鹿児島へ逃延びた。『翔凰丸』は、機関が故障したため座礁し、拿捕されることを恐れて自焼した。
鎌倉五郎の日。
神奈川県鎌倉市小町に、和菓子の製造販売を行なう「鎌倉五郎」の本店を構える企業、株式会社鎌倉座が制定。ほのかな甘さが上品なさくっとしたせんべいに、抹茶クリーム、小倉クリーム等をそれぞれに挟んだ「鎌倉半月」や、和菓子屋のモンブラン「小波」等の人気商品で有名な「鎌倉五郎」の和菓子を、さらに多くの人に知ってもらうと共に、購入してくれた人に日頃の感謝を伝えることが目的。5月6日の「5」と「6」で、「五郎(ご[5]ろう[6])」と読む語呂合わせから。「鎌倉半月」は、口あたり良くやさしい味わいにするため、せんべいの生地も、それぞれの風味クリームで焼き上げている。「小波」は、風味豊かでほくほく美味しい栗芋きんとんを使用した、栗がたっぷりの和菓子屋ならではのモンブランで、ベースにいもと栗のきんとん、蜜漬け渋皮栗の刻みにクリーム、さらに、上には栗ペーストを重ねている。