5月1日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0280年 - 中国の三国時代(魏、蜀、呉の三国が成立、中国国内に3名の皇帝が同時に立っていた時代)に、軍閥(地方に割拠する軍事組織)の長であった孫権が長江(中国大陸をほぼ東西に流れる川)流域に建てた王朝(呉の建国としては、222年説と229年説がある)、呉の皇帝孫皓が晋に降伏し、晋(西晋)が、中国全国を統一し、三国時代を終焉させる。 
0305年 - マクシミアヌス(マルクス・アウレリウス・ウァレリウス・マクシミアヌス)とディオクレティアヌス(ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス)がローマ帝国皇帝を退位。マクシミアヌス(マルクス・アウレリウス・ウァレリウス・マクシミアヌス)は、一度退位した後も306年、310年と2度に亘って皇帝に復位している。 
0713年 - 丹後国(現在の京都府北部)、美作国(現在の岡山県東北部)、大隅国(現在の鹿児島県東部・奄美群島)を設置。 
1457年 - 関東管領(室町幕府が設置した鎌倉府[関東を統治するための機関]の長官、鎌倉公方を補佐するために設置した役職)上杉持朝の家宰(筆頭重臣)、太田道灌が武蔵国荏原郡桜田郷(現在の東京都千代田区)に江戸城を築城する。麹町台地の東端に太田道灌が築いた平山城(平野の中にある山、丘陵等に築城された城)である江戸城は、近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里(約15.71km)と、日本最大の面積の城郭になっている。太田道灌は、武将としても学者としても一流、という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った、悲劇の武将としても名高い。 
1557年 - 防長経略: 周防国(現在の山口県東南半分)や長門国(現在の山口県西半分)等を実効支配し、西国随一の戦国大名と謳われた周防大内氏の第32代当主、大内義長が、一地方の在地国人領主から、安芸国(現在の広島県西部)の戦国大名になっていた毛利元就に攻められて自害し、周防大内氏が滅亡する。 
1575年 - 中央ヨーロッパに位置する現在のポーランド一帯を支配していた王国、ポーランド王国と、北ヨーロッパに位置する、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中で最も南の国、リトアニアを中心とした地域を支配した国家であるリトアニア大公国との複合君主制国家、ポーランド・リトアニア共和国の王位相続人アンナが、トランシルヴァニア公(東ヨーロッパに位置する現在のルーマニア領トランシルヴァニア地方[ルーマニア中部・北西部に所在]を中心とする地域を領有したトランシルヴァニア公国の君主)ステファン・バートリと結婚し、2人揃って共同統治王に即位する。 
1615年 - 大坂夏の陣: 徳川家康が、九男である徳川義直の婚儀のためとして駿府(現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域で、隠居した後の徳川家康が居住していた)を出発する。 
1707年 - イングランドとスコットランドが合邦し、グレート・ブリテン連合王国が成立する。グレート・ブリテン連合王国は、北大西洋に位置する島で、ヨーロッパ大陸からみると、ドーバー海峡を挟んで北西の方向に当たり、ヨーロッパ地域の一部であるグレートブリテン島全体を支配した、歴史上最初の国家となる。また、イングランとスコットランドの両国によるこの合同は、現代まで続く連合王国(イギリス)の基盤となっている。  
1776年 - ドイツの実践哲学者、アダム・ヴァイスハウプトが、秘密結社『イルミナティ』を設立。『イルミナティ』とは、ラテン語で「光に照らされたもの」を意味するが、後に宗教的な活動から「啓蒙、開化」をも意味するようになる。近世以降、この名前で呼ばれた秘密結社が数多くある。 
1786年 - 古典派音楽の代表であるオーストリアの作曲家・演奏家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲のオペラ『フィガロの結婚』が、現在のオーストリアの首都ウィーンで初演。『フィガロの結婚』は、封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式を巡る事件を通じて、貴族を痛烈に批判しており、度々上演禁止に遭っている。 
1837年 - 大塩平八郎の乱: 大坂町奉行所の元与力、大塩平八郎(中斎)が自害する。 
1840年 - イギリス郵政省が、世界初の郵便切手『ペニー・ブラック』を発行。『ペニー・ブラック』は、同月6日から使用が開始された2種類の切手の内の1ペニー(イギリスの下位通貨単位)切手を指す。なお、同時に発行された2ペンス(ペニーの複数形)切手は青色であったことから、『2ペンス・ブルー』と呼ばれている。刷色は黒色で、図案にはヴィクトリア女王の横顔が印刷されている。 
1851年 - 世界で最初の国際博覧会、第1回万国博覧会(水晶宮博覧会)が、イギリスの首都ロンドン中心部のハイドパークで開幕。10月15日まで。博覧会の会場となった建物は、水晶宮(クリスタル・パレス)の名で大成功を得る。水晶宮(クリスタル・パレス)は、イギリスの造園家・建築家・政治家、ジョセフ・パクストンが設計した、鉄骨とガラスで作られた巨大な建物であり、プレハブ建築物の先駆とも言われる。第1回万国博覧会(水晶宮博覧会)終了後、水晶宮(クリスタル・パレス)はロンドン南方のペンジ地区シデナムに移転されるが、その後の火災により焼失している。  
1861年 - スコットランド出身の武器商人、トーマス・ブレーク・グラバーが長崎にグラバー商会を設立。グラバー商会は当初、生糸や茶の輸出を中心として扱ったが、八月十八日の政変(1863年に勃発した、陸奥国会津藩・薩摩国/大隅国薩摩藩を中心とした公武合体派が、長門国/周防国長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件)後の政治的混乱に着目して討幕派を支援し、武器や弾薬を販売する。明治維新後も明治政府との関係を深めたが、1870年には武器が売れなくなったことや、諸藩からの資金回収が滞ったこと等で、グラバー商会は破産する。ただ、トーマス・ブレーク・グラバー自身は、長崎県西彼杵郡高島町(現在は。長崎市の一部となっている)にある高島炭鉱(後に、官営になる)の実質的経営者として日本に留まっている。1885年以後は、は三菱財閥(造船業・鉱業・金融・鉄道・貿易等の幅広い分野に進出した巨大企業集団)の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリー(日本で初めて、大衆向けにビールを醸造・販売した企業)の再建参画を、三菱財閥の創業者で初代総帥、岩崎弥太郎に勧め、後の麒麟麦酒(日本のビール事業の草分け的企業で、酒類の販売高は、業界でトップとなっている)の基礎を築いている。 
1862年 - ロンドン万国博覧会が開幕。11月1日まで。ロンドン万国博覧会は、イギリスの首都ロンドンで開催された国際博覧会で、開幕式に日本から文久遣欧使節(江戸幕府が最初の使節団としてヨーロッパへ派遣したもの)一行が出席する。駐日イギリス公使であったラザフォード・オールコック自身が収集した日本の美術品等が展示される。成功裡に終わった1回目のロンドン万国博覧会 (1851年)より規模は拡大したが、入場者はあまり増えず、収支は芳しくなかったという。 
1873年 - ウィーン万国博覧会が開幕。ウィーン万国博覧会は、オーストリア=ハンガリー帝国(現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系、ハプスブルク家の君主が統治した、中東ヨーロッパの多民族[国家連合に近い]連邦国家)の首都ウィーン中心部にあるプラーター公園で開催された国際博覧会である。10月31日まで。35ヶ国が参加し、会期中、約726万名が来場する。日本政府が初めて公式に参加し、日本館が建設される。会期中には、国際貿易や特許等に関する国際会議も多数開催された他、ヨーロッパ列強各国の首脳や皇族・王族も訪れ、首脳会談も行なわれる。