4月16日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0073年 - マサダ要塞(イスラエル東部、死海西岸近くにある岩山の上の要塞)に籠城したユダヤ人(ヤハウェ[アッラー]を唯一神として奉じる信仰、ヤハウェ信仰を起源とするユダヤ教を信仰する人々)が集団自決し、ローマ帝国とユダヤ属州(現在の西アジア・中東に位置するパレスチナとイスラエルに当たる地区に設置されていたローマ帝国の属州)に住むユダヤ人との間で行なわれた戦争、ユダヤ戦争が終結する。 
1346年 - セルビア王国(現在の南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置するセルビアを中心とした中世の王国)国王ウロシュ4世が皇帝に即位し、セルビア帝国が成立する。セルビア帝国は、約3年後に最盛期を迎えるが、ウロシュ4世の死後は急速に衰退し、1371年には解体されている。 
1521年 - ドイツ人神学教授のマルティン・ルターが、神聖ローマ皇帝カール5世臨席のヴォルムス帝国議会(神聖ローマ帝国の帝国議会)に出席。ローマ・カトリック教会の贖宥状(カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書)を批判する。 
1746年 - ジャコバイト蜂起: カロデンの戦い。スコットランドでジャコバイト(名誉革命の反革命勢力の通称)が最後の組織的抵抗をするが、ブリテン軍に完敗。カンバーランド公が多数のジャコバイトを虐殺する。 
1763年 - ジョージ・グレンヴィルがイギリス(グレートブリテン王国)の第8代首相に就任。 
1780年 - ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学設立。ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学は、ドイツ西部の都市、ミュンスターにあるドイツで最も大きな総合大学の1つで、通称はミュンスター大学であり、大学の名称にその名を残しているのは、ミュンスター城をその居城としていた皇帝ヴィルヘルム2世である。 
1797年 - スピットヘッドの反乱が発生。イギリスの海軍軍人、初代ブリッドポート子爵アレグザンダー・フッド提督率いる海峡艦隊(イギリス海峡を防衛するために設置されていたイギリス海軍の艦隊)の16隻の軍艦の水兵が、軍艦の生活環境と給与の低さに抗議し、その改善を求める。同様な不満に基づく小規模な事件はその年、他の場所でも発生する。その年は、フランスの革命政府との戦争(革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争)の最中であり、反乱はイギリスにとって極めて深刻な事件となる。イギリスの支配階級は、反乱が拡大することにより、フランス革命のような、より広範囲の蜂起の引き金になるかも知れない、という強い懸念を持つに至る。5月15日まで続いたスピットヘッドの反乱は、選ばれた代表によって率いられ、海軍本部と交渉を試みる。反逆者となった水兵達は、自らの艦に乗組んだまま(大部分は、士官らも一緒に)通常の勤務を続けており、数隻を輸送船団の護衛任務、又はパトロール任務に割くことを認め、また、フランス艦がイギリス近海に現われた時は、反乱を中断して直ちに出動すると約束する。しかし、不信のため、特に、反逆者への恩赦に関する不信によって、交渉は決裂する。そして、数名の嫌われ者の士官を陸上に送り返すという事件も発生する。この状況が一旦落着いた後、輝かしい戦歴を誇り、高齢となってなお、海峡艦隊の名目的な指揮官であり続けた名将、初代ハウ伯爵リチャード・ハウが交渉の仲介に乗出し、全ての乗組員の恩赦と、嫌われ者の士官数名の配置替え、それに「パーサーズ・ポンド」(主計長が、肉の1ポンドに付き2オンス[つまり、8分の1]を自分のものにしてよいとする習慣)の廃止と昇給を約束し、事件は終息する。 
1799年 - フランス革命戦争・エジプト・シリア戦役: タボル山の戦い。 
1853年 - インド中西部のボンベイ(現在のムンバイ)と、その郊外のターナ(現在のターネー)間約33.6kmを結ぶ、アジア初の鉄道が開業する。 
1856年 - 江戸幕府が、江戸駒場(現在の東京都世田谷区池尻に所在)で初めて洋式の兵士訓練を行なう。 
1871年 - 日本の大日本帝国憲法にも影響を与えたとされる統一ドイツ国家の基本法、ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)が公布される。 
1872年 - 薩摩国/大隅国薩摩藩、長門国/周防国長州藩、土佐国土佐藩の藩兵1万名による天皇護衛の御親兵を、近衛兵と改称する。1871年、正式に発足した御親兵は、薩摩藩から歩兵4大隊と砲隊4隊、長州藩から歩兵3大隊、土佐藩から歩兵2大隊と騎兵2小隊、砲兵2隊が献兵され、公称兵力は10,000とされたが、実質兵力は約8,000、若しくは、それ以下と言われている。御親兵は、明治政府がそれまでの藩を廃止し、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革、廃藩置県と並び、名実共に近代日本最初の国軍として機能することになる。その後、国家が国民に兵役に服する義務を課す徴兵制度を定めた「徴兵告諭(徴兵令、明治5年11月28日太政官布告第379号)」の施行により、その役目を新軍隊に譲って、本来の業務である皇居警護に専念することになり、近衛兵と改称される。そして、1891年には、陸軍の近衛師団となっている。一般師団とは異なり、最精鋭、かつ最古参の部隊(軍隊)として、天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」の責を果たし、また、元首等の高位者の威儀整飾に任ずる儀仗部隊として、「鳳輦供奉」の任にも当たった近衛師団は、「禁闕守護」の任から、衛戍地(陸軍軍隊が永久に1つの地に配備駐屯することを衛戍[えいじゅ]と称し、その土地を衛戍地と称した)は東京府東京市(現在の東京都区部[東京23区]に相当する)であったものの、他の一般師団と異なり、連隊区といった特定地域からの徴兵によるものではなく、日本全国から選抜された兵士によって充足されており、近衛兵になることは大変な名誉とされる。近衛師団は、陸軍大臣(大日本帝国陸軍の軍政機関[軍隊に関する事務を統括する行政組織]、陸軍省を担当した国務大臣)管轄の下、平時は隷下の各中隊が、輪番制で天皇や宮城の警護等に当たり、戦時には野戦師団の1つとして出征し、戦闘に参加している。師団編制となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵(兵站[戦争において、作戦を行なう部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動で、兵站には、物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持等が含まれる]業務を専門として監督・管理をする兵科)等の特科部隊が統合されている。その後、近衛師団は、第二次世界大戦終結による大日本帝国陸軍の解散まで、各戦争・事変・紛争に従軍し、出征中の近衛師団に代わって、天皇、及び宮城の警護に当たった近衛師団は、留守近衛師団とされる。第二次世界大戦対米英戦での近衛師団は、開戦初期の南方戦線で活躍し、マレー作戦やシンガポールの戦いに参加する。1943年6月1日、オランダ領東インド(概ね、現在の東南アジア南部に位置するインドネシアの版図に相当する)スマトラ島メダン方面で作戦中の近衛師団は、近衛第2師団(2GD)に改称され、東京にあった留守近衛師団を基幹として近衛第1師団(1GD)が、更に1944年7月18日には、留守近衛第2師団を基幹として、近衛第3師団(3GD)が編成される。第二次世界大戦終戦時の近衛第3師団は、千葉県成東(千葉県山武郡成東町、現在千葉県の山武市)にあって、連合国軍の関東上陸作戦(本土決戦・決号作戦)に備えている。近衛第2師団と近衛第3師団がそれぞれ作戦地に赴任していたため、本来の近衛兵としての任務は、近衛第1師団が担当する予定であったという。近衛師団司令部庁舎は現在、東京都千代田区北の丸公園内にある、東京国立近代美術館工芸館となっている。 
1877年 - 約9ヶ月の札幌滞在の後、札幌農学校(現在の北海道大学の前身)教頭のウィリアム・スミス・クラークが、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉を残して帰国の途に付く。