4月10日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2水曜日 旧暦  3月 2日、仏滅(甲辰)、月齢  1.4 
グレゴリオ暦で年始から101日目、年末まであと265日。
誕生花 パンジー・アスター・ツルニチニチソウ・イチジク。

婦人参政記念日。
1946(昭和21)年4月10日、第二次世界大戦後初の総選挙で、初めて婦人参政権が行使された。日本の婦人参政権運動(婦人運動)の中では、国政参加の権利、衆議院議員の選挙・被選挙権、そして、地方政治参加の権利、地方議会議員の選挙・被選挙権(公民権)、さらに、政党結社加入の権利(結社権)の3つを合わせて、「婦選三案」、或いは「婦選三権」と呼ばれてきた。日本で普通選挙が実現したのは、1925(大正14)年であった。しかし、フランス革命当時の欧米と同じように、男性のみの参政権が明文化された。日本の婦人運動は、戦争の激化による中断はあるものの、明治末年からの歴史を有し、女性の中には、政治的権利を希求する意識が醸成されていた。明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権を求める気運が徐々に高まってくる。社会主義者・思想家・歴史家・作家の堺利彦、ジャーナリスト・思想家・社会主義者・無政府主義者の幸徳秋水らの「平民社」(非戦論を中核として結成された社会主義結社)による「治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)」(労働運動を取締る法律)改正請願運動を嚆矢(ものごとの始まり)として、思想家・評論家・作家・フェミニストの平塚らいてうによる文学的思想啓蒙運動団体(女流文学者、フェミニストの団体)「青鞜社」結成を経て、平塚らいてうと婦人運動家・政治家の市川房枝や奥むめおらによる日本初の婦人団体「新婦人協会」(1919[大正8]年発足)や、社会運動家・婦人参政権運動家のガントレット恒子、女性解放運動家の久布白落実らによる婦人団体「日本婦人参政権協会」(1921[大正10]年発足、後に日本基督教婦人参政権協会)が婦人参政権運動(婦人運動)を展開する。続いて、各団体の大同団結が図られ、「婦人参政同盟(日本婦人協会、1923[大正12]年発足)」、「婦人参政権獲得期成同盟会(1924[大正3]年発足、後に婦選獲得同盟と改称)」が結成され、さらに運動を推進した。これらの運動は、第二次世界大戦前の日本において、女性の集会の自由を阻んでいた「治安警察法」第5条2項の改正(1922[大正11]年)や、女性が弁護士になることを可能とする、「弁護士法(明治26年3月4日法律第7号)」の全部改正での「弁護士法(昭和8年5月1日法律第53号)」による婦人弁護士制度制定(1933[昭和8]年)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面で幾つかの重要な成果を挙げた。1931(昭和6)年には、婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、貴族院(帝国議会の上院)の反対で廃案に追い込まれた。第二次世界大戦後の1945(昭和20)年10月10日、幣原喜重郎内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされた。また、翌10月11日、幣原喜重郎内閣に対してなされた、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官ダグラス・マッカーサーによる五大改革の指令には、「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていた。また、第二次世界大戦終戦後10日目の1945(昭和20)年8月25日には、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、「衆議院議員選挙法(明治33年3月29日法律第73号)」の改正や「治安警察法」廃止等を求めた5項目の決議を、政府、及び主要政党に提出する。同年11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動を再開している。1945(昭和20)年11月21日には、まず、勅令により「治安警察法」が廃止され、女性の結社権が認められる。次に、同年12月17日の改正「衆議院議員選挙法(普通選挙法、昭和20年12月17日法律第42号)」公布により、女性の国政参加が認められる(地方参政権は、翌年の1946[昭和21]年9月27日の地方制度改正により実現)。1946(昭和21)年4月10日の第二次世界大戦後初の衆議院選挙の結果、89名の立候補者の中から、日本初の女性議員39名が誕生する。しかし、次の1947(昭和22)年に行なわれた第23回衆議院議員総選挙では15名に激減し、2005(平成17)年の第44回衆議院議員総選挙まで、39名を超えることはできなかった。1960(昭和35)年7月19日には、日本初の女性大臣が誕生している。岸内閣の後を受けて第1次池田内閣が発足し、中山マサ衆議院議員が第35代厚生大臣(現在の厚生労働省の前身の1つ、厚生省の長たる国務大臣)として入閣した。在任期間は約5ヶ月と短かいものであったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。中山マサは、第二次世界大戦後の1947(昭和22)年、第23回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、以後当選8回を数える。中山太郎(元衆議院議員で外務大臣等を歴任)は中山マサの長男、中山正暉(元衆議院議員で郵政大臣[中央省庁再編後は、総務大臣がこの職掌を引継いでいる]等を歴任)は四男。中山泰秀(現衆議院議員、元外務副大臣、元外務委員会委員長)は孫に当たる。1878(明治11)年の区会議員選挙で、「戸主(家の統率者としての身分を持つ者)として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい」と、楠瀬喜多という婦人が高知県に対して抗議した。しかし、県には受入れてもらえず、楠瀬喜多は内務省(現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身)に訴えた。そして、1880(明治13)年9月20日、3ヶ月に亘る運動の末に県令(県の長官)が折れ、日本で初めて(女戸主に限定されていたが)女性参政権が認められた。この当時、世界で女性参政権を認められていた地域は、アメリカのワイオミング準州(現在のアメリカ合衆国西部、ワイオミング州)やイギリス領サウスオーストラリア(現在のオーストラリア中南部)、ピトケアン諸島(南太平洋上に浮かぶ絶海の孤島で、イギリスの海外領土)といったごく一部であったので、この動きは、女性参政権を実現したものとしては、世界で数例目となった。しかし、4年後の1884(明治17)年、日本政府は「区町村会法(明治13年4月8日太政官布告第18号)」を改訂し、規則制定権を区町村会(府県の下に設置された郡区町村の公選議員による、公共に関する事件、及びその経費の支出や徴収方法の議定権を付与された会)から取上げたため、町村会議員選挙から女性は排除された。世界の各文明における女性の政治的地位は、男性に劣後することが殆どで、女性が政治に参与することは、世襲や血縁による場合を除いて稀であった。20世紀になり、人間の自由・平等性に基づいて、女性の社会進出が必然の帰結となると、女性の政治参与が次第に見られるようになった。20世紀後期になると、欧米諸国では、女性政治家の存在は極めて自然のこととなった。欧米諸国の中には、女性の進出を担保するため、クオータ制(役職の一定割合を女性に割当てる制度)を採用している国もある。フランスでは、国会議員を男女同数にする仕組みになっている。平等権を基礎とする民主主義社会では、女性政治家を特別視する必要はなく、男女に関わらず、政治家としての能力・実績が問われるべきであろうが、政治の世界において、男性優位の風土を持つ傾向が強い国程、男性政治家でないことが注目されることになる。