4月9日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

天皇皇后両陛下ご訪問の日。
南太平洋西部の洋上にある島国、パラオ共和国ペリリュー州の記念日。2015(平成27)年4月9日、当時の第125代天皇、天皇明仁(現在の上皇明仁)、皇后美智子(現在の上皇后美智子)両陛下が、慰霊のためペリリュー島を訪問することを機に、州の祝日として法律で制定された。当時の天皇皇后両陛下は、2015(平成27)年4月8日から翌4月9日にかけてのパラオ共和国訪問に際し、島の南端に日本国政府が1985(昭和60)年に設置した慰霊碑、「西太平洋戦没者の碑」を訪問された。パラオ共和国ペリリュー州に属しており、同州の住民の多くがこの島に居住しており、州の中心でもあるペリリュー島では第二次世界大戦対米英戦時、激しい戦闘が行なわれ、島内で決戦を行なった日米両軍の遺構が多く残っている。多数の戦車や水陸両用トラクター(ランディング・ヴィークル・トラック、LVT)、零式艦上戦闘機(零戦)等の航空機、破壊された停泊中の艦船や上陸用舟艇、兵士の持っていた水筒、ヘルメット等が島内に点在している他、現地民間人等の戦没者墓苑がある。今日の島の植生は、主に戦闘によって焼失した後に再生したものであり、戦争の傷跡を癒している。島への交通としては、船や航空機があり、チャーターでの利用の他、船は週に2度程度の頻度で、定期便が出ている。飛行場としては、第二次世界大戦対米英戦当時から存在する、日本軍が整備したペリリュー飛行場が利用されている。港は北部に存在するが、水深が浅いために、寄港できるのは小型の舟に限られており、日本は港湾の整備のために、無償資金協力を行なっている。第二次世界大戦時には北に隣接するガドブス島とは橋で結ばれていたが、戦闘で失われ現在はない。ペリリュー島には、1934(昭和9)年に、天照大神を祭神とする南興神社(ペリリュー神社)が建立され、現地の日本人住民は、島の繁栄を祈願してきた。1944(昭和19)年、ペリリュー島で日米による激しい戦闘(ペリリューの戦い)が行なわれ、第二次世界大戦後、1953(昭和28)年から2003(平成15)年までに、約7,600名の遺骨が収集された。日本の遺族会等の各団体により、慰霊碑が建立された。特に、1970(昭和45)年には、佐藤栄作首相(当時)とペリリュー島酋長の間で、慰霊碑の建設と、その後の供養に関して覚書を交わし、日本政府から1万ドルが交付され、1972(昭和47)年に、島の墓苑に慰霊塔「みたま」(納骨堂併設)が建設された。 
予祝の日。
セミナーや会員制の講演会等を企画、運営する、人間力大學の予祝プロジェクトが制定。「予祝」とは、先に祝う前祝いのことで、春の花見は、満開の桜を見て、秋の豊作をイメージして皆で祝う意味が込められているという。日本古来からあった、この前祝いの伝統文化「予祝」を広めることが目的。日付は、4月9日の「4」と「9」で、「予祝(よ[4]しゅく[9])」と読む語呂合わせから。2014(平成26)年8月に創設された人間力大學は、仕事・家庭の基礎になる人格・精神面を高めるための学びの場で、講演会には年間5,000名以上の人が参加している。「予祝」の行事は、予め期待する結果を模擬的に表現すると、その通りの結果が得られる、という俗信に基づいて行なわれる。1月15日の「小正月」に行なわれる行事が多く、庭で田植のまねをする「庭田植(にわたうえ)」、繭の豊収を祈って作られる「繭玉(まゆだま)」、豊熟した粟や稗に見立てて作られる「粟穂稗穂(あわぼひえぼ)」、田畑を荒らす害鳥を追払う「鳥追(とりおい)」等があり、地方色豊かなものが多い。
丸亀市×サン・セバスティアン市「チャコリの日」。
スペインのサン・セバスティアン市と姉妹都市提携をしている、香川県中西部に位置する市、丸亀市が制定。日付は、両市が姉妹都市提携の調印をした1991(平成3)年4月9日から。サン・セバスティアン市のあるバスク地方で作られる白ワインの「チャコリ」を、「美食の街」を目指す丸亀市でも普及させ、国際交流の機運の醸成を図ることが目的。「チャコリ」は、柑橘の爽やかな香りとフレッシュな酸味、ほんのりとした苦味が特徴的な超微発泡酒である。「エスカンシア」と呼ばれるスタイルで、高い位置からグラスに注ぎ入れると、泡が弾けると共に香りが立ち、口当たりが良くなることで酸味も和らぐ。サン・セバスティアン市は、スペイン北部にある街で、人口は約18万、丸亀市とほぼ同じ温暖な気候である。美しい海岸に恵まれたヨーロッパ有数のリゾート地である他、街中には多くのバル(イタリアやスペイン等の南ヨーロッパで、軽食喫茶店、酒場[バー]のことを指す)が連なり、人口当たりのミシュランの星の数が世界一の美食の街である。そんなサン・セバスティアン市には、世界中からグルメ達が集まって来る。両市は、姉妹都市として中学生派遣等による交流を行ない、友好の歴史を綴っている。また、丸亀市では、「丸亀バルフェスティバル」や個々の飲食店による、チャコリを含むワインに関するイベントが開催される等、市民団体等による国際交流が行なわれている。
吉里吉里忌。
作家・劇作家・放送作家、井上ひさしの2010(平成22)年の忌日。「吉里吉里忌(きりきりき)」という名は、代表作となる長編小説『吉里吉里人』に因む。没後5年に当たる2015(平成27)年より、生まれ故郷、山形県東置賜郡川西町の図書館と劇場からなる「川西町フレンドリープラザ」において、縁あるゲストを迎えて、「吉里吉里忌」が開催されている。1934(昭和9)年11月17日、ノーベル文学賞の候補ともされた作家、井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として、山形県東置賜郡小松町(現在の山形県東置賜郡川西町)に生まれる。本名は廈(ひさし)。上智大学文学部仏語科を卒業しているが、大学在学中に浅草フランス座(現在の東京都台東区浅草公園六区に所在する演芸場、浅草フランス座演芸場東洋館で、かつては長い間、ストリップ劇場として営業していた)で働きながら、戯曲や放送台本等を書き始める。大学卒業後は、放送作家として活躍。1964(昭和39)年に始まった、NHK総合テレビの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の台本を、放送作家・児童文学者の山元護久と共に手掛け、国民的人気番組となる。戯曲『日本人のへそ』(1969[昭和44]年)が新しい喜劇として高く評価され、本格的に劇作に取組む。『表裏源内蛙合戦』(1970[昭和45]年)や『道元の冒険』(1971[昭和46]年、岸田国士戯曲賞、芸術選奨文部大臣新人賞)で、劇作家としての地位を確立する。小説では、中編小説『手鎖心中』(1971[昭和46]年)で第67回直木三十五賞(直木賞)、長編小説『吉里吉里人』(1981[昭和56]年)で日本SF大賞、読売文学賞を受賞。作品は、巧みな構成と豊かな言語センスを特徴とし、幅広い読者層を得る。 
1983(昭和58)年に劇団こまつ座を旗揚げし、『頭痛肩こり樋口一葉』(1984[昭和59]年)等、力作を次々と上演する。戦争の真実を問う東京裁判(極東国際軍事裁判)三部作『夢の裂け目』(2001[平成13]年)、『夢の泪』(2003[平成15]年)、『夢の痂(かさぶた)』(2006[平成18]年)が、日本で最初のオペラ専用の歌劇場である『新国立劇場』(東京都渋谷区本町に所在)で上演される。日本ペンクラブ会長、日本劇作家協会理事等を歴任。菊池寛賞(1999[平成11]年)、日本芸術院賞・恩賜賞(2009[平成21]年)等を受賞。文化功労者(2004[平成16]年)、日本芸術院会員(2009[平成21]年)。75歳で死去。井上ひさしは、「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」を創作のモットーとしており、文体は軽妙であり、言語感覚に鋭い。自他共に認める、大変な遅筆で有名で、自ら「遅筆堂」という戯号を用いる程で、特に、戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした、「パズル事件」は有名となっている。休演や初日延期の事態になった場合の損失には、私財を投じて補塡したという。