4月4日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1081年 - アレクシオス1世コムネノスが、東ローマ帝国皇帝に即位。コムネノス王朝が始まる。アレクシオス1世コムネノスは、対外政策に力を注ぎ、南イタリアや東ローマ帝国西部の領土奪回を果たしている。また、内政面においては、通貨改革や爵位の再編を行なった他、有力貴族と皇族との間に婚姻関係を結ぶことで関係を強化した上、大土地所有貴族達に、軍事力提供と引換えに徴税権や土地を与えるプロノイア制を導入し、強力な私兵を抱える大土地所有貴族達の協力を得て、軍事力増強を図っている。アレクシオス1世コムネノスにより、没後衰退傾向にあった東ローマ帝国は、約100年の間衰退を食止め、東地中海の強国の座を奪回・維持することに成功する。 
1581年 - 南アメリカで植民地や船を襲って、多大な財宝を奪った後、スペイン船の艦船隊を率いたポルトガルの航海者・探検家、フェルディナンド・マゼランに続く、史上二番目の世界一周を達成した、イングランドの私掠船(戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船で、厳密には海賊ではない)船長、フランシス・ドレークが、当時のイングランドの国庫歳入よりも多かったという程の金銀財宝を献上して、エリザベス女王から叙勲(サーの称号)を受ける。フランシス・ドレークは、アルマダの海戦(スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻において、1588年に英仏海峡で行なわれた諸海戦)では、艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破している。フランシス・ドレークはその功績から、イングランド人には英雄と見做される一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られる。 
1660年 - 清教徒革命: オランダに亡命中の元スコットランド王チャールズ2世が、オランダ南部の主要都市ブレダで、王政復古に向けて「ブレダ宣言」を行なう。 
1721年 - 初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールが、イギリスの初代第一大蔵卿(首相)に就任する。初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは、1701年に政界入りした後、高い討論力で頭角を現し、閣僚職を歴任する。1720年の南海泡沫事件(投機ブームによる株価の急騰と暴落、及び、それに続く混乱)の後処理を指揮し、事件後には政権の最大の有力者となり、1721年に第一大蔵卿(首相)に就任する。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行なったため(責任内閣制)、この時期の初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールを、最初の「イギリス首相」とすることが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、約20年に及ぶ長期安定政権を築いて、イギリスが商業国家として躍進する土台を築く。初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは、支持基盤であった地主達を満足させるために、土地税減税を定期的に実施しており、戦争回避の外交に努めたことも、土地税減税維持の観点が大きくなっている。貿易では、工業製品への輸出関税や工業原料の輸入関税を次々と廃しつつ、国内工業と競合する恐れのある外国製品の輸入は制限する。植民地に対しても、本国の都合を押付けることもあった一方、西インド(南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域の洋上にある群島)植民地に対しては、同地の大農場主が本国に戻って来て庶民院(イギリスの議会を構成する議院の1つで、下院に相当する)議員になることが多かったため、その要求に応じることが多く、こうした地主・産業資本・商業資本等、議会に大きな影響力を持ついずれの有産者にも配慮した経済政策が、初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの政権を安定させることに繋がったと言える。初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは、戦争回避の外交を目指したが、密貿易取締りを強化するスペイン植民地帝国とイギリス商人の対立は深まり続けており、1738年3月、スペイン沿岸警備隊に耳を切落とされたという、イギリス商船船長ロバート・ジェンキンスが議会で証言したことで、野党を中心に議会の反スペイン機運が高まる。野党は、スペインに賠償要求を行なうことを求めたが、初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは、不可避的に戦争になるとして反対する。約1年半程度、与野党の綱引きが続いたが、結局政権側が折れ、1739年10月には、スペインとの間に「ジェンキンスの耳戦争」が勃発する。さらに、その翌年にはオーストリア継承戦争(神聖ローマ皇帝位、及びオーストリア大公国[ハプスブルク帝国]の継承問題を発端に、ヨーロッパの主要国を巻込んだ戦争で、カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した)が勃発し、イギリスはオーストリア女帝マリア・テレジアと結んで、フランスやスペインと対抗することになる。しかし、初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは戦争に乗り気でなかったため、戦争指導に主導的役割を果たさず、それが初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの政治指導力の低下を招く。また、戦費の捻出のために土地税増額も余儀なくされ、初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの地主懐柔策は破綻する。その影響で、1741年春の総選挙では与党の議席は減少し、与野党の議席差は約20議席となる。不安定政権となった初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの政権は、議会統制力を失い、1742年2月をもって初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは第一大蔵卿(首相)を退任する。1726年、イギリス旅行に訪れたフランスの哲学者・文学者・歴史家、ヴォルテールは、旅行記『哲学書簡』で、初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール政権下のイギリスを観察し、宗教対立がなく、商業がイギリスの繁栄を築いたと称賛している。その繁栄は、やがて世界の頂点に君臨する大英帝国へと繋がることとなる。
1814年 - フランス第一帝政皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)が、将軍連の反乱により退位させられる。1804年、ナポレオン・ボナパルトは、強力な軍事力を後ろ盾とした軍事独裁政権、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世として君臨するが、その政権存続の絶対条件は戦争に勝ち続けることで、それを周囲のヨーロッパ列強から見れば、フランス帝国の成立は、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の絶対化と権力強化以外の何物でもなく、革命が自国へ及ぶ恐怖に加えて、軍事面での脅威も加わることになる。列強各国は早速対仏大同盟を結成して、帝国への対抗を始め、一方でフランス国内においては、皇帝の誕生によるフランス帝国の出現は、フランス革命によって国王ルイ16世を処刑し、共和制を樹立した過程から完全に逆行しており、国内の親ジャコバン派(急進的な革命の推進を行なった、フランス革命期の政治結社、ジャコバン派の支持者達)の反発を招く。そして、1807年にオーストリア、プロイセン(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした国)、ロシアを屈服させたフランスは絶頂期にあったが、大陸の外では、イギリスが反仏反ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の立場を固持し続けており、これに対抗すべく、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)は、ロシア遠征中にイギリスの経済的孤立を狙い、大陸封鎖令を発動させる。これは、当時既に産業革命が勃興し、資本主義経済の世界的中心地となりつつあったイギリスを、大陸から切離したことを意味しており、イギリスを経済的に孤立に追込むどころか、逆にイギリスという交易相手を喪失した大陸各国の方が経済的に疲弊する、という結果になる。1808年にフランス軍は、スペインとポルトガルへ侵攻する。しかし、イギリスも加担した反フランスのゲリラ戦に悩まされ、フランスはイベリア半島に大軍を常駐しなければならなくなる必要性に迫られる。東側でも動揺が起き始め、ロシアがフランスに対しての抗戦を再開し、プロイセンもこれに続く。1814年のパリ侵攻戦において、連合軍の巧みな欺瞞工作の前に、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)が指揮するフランス軍主力が前線に誘き寄せられ、その隙に少数の部隊で守備するパリへの入城を許してしまう。帝国議会はナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の退位を求め、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)周辺の将軍達も、反逆して退位を勧めたため、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)は抵抗を諦め、退位文書に署名している。  
1840年 - 江戸幕府老中、水野忠邦の抜擢により、勘定奉行の遠山景元が江戸北町奉行に着任。能吏として知られ、江戸幕府の対外政策の第一戦を担った父、遠山景晋と同じく、遠山金四郎が通称であった遠山景元は、テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。 
1841年 - 当時としては高齢の68歳で就任した、アメリカ合衆国第9代大統領ウィリアム・ハリソンが、就任後僅か約1ヶ月で肺炎により死去し、アメリカ合衆国第14代副大統領ジョン・タイラーが昇格し、アメリカ合衆国第10代大統領に就任する。ウィリアム・ハリソンは、在職中に死去した初のアメリカ合衆国大統領であり、また、歴代で在任期間最短(31日)の大統領である。さらに、ジョン・タイラーは、大統領の死に際して、副大統領から昇格した最初の大統領である。