3月30日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1282年 - シチリアの晩祷(シチリアの晩鐘)。フランス王族であるアンジュー家のシャルル・ダンジューが支配するシチリア王国(イタリア半島の西南、地中海洋上に位置する地中海最大の島、シチリア島やイタリア半島南部を領土とする王国)で、圧制に対して暴動が発生する。 
1492年 - カスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国、イスパニア王国)のアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が、カトリックへの改宗に係わらず、スペインからユダヤ人(現在の西アジア・中東に位置するパレスチナを原住地とし、唯一の神[ヤハウェ]がユダヤ民族を選んで契約を結び、預言者モーセに教えを啓示したという信仰に基づいて、その教えを生活の中で実践するユダヤ民族の宗教、ユダヤ教を信仰する民族)を追放することを宣言する。 
1796年 - ドイツの数学者・天文学者・物理学者、カール・フリードリヒ・ガウスにより、正十七角形(多角形の1つで、17本の辺と17個の頂点を持つ図形)が定規とコンパスで作図可能なことが発見される。多角形の1つで、17本の辺と17個の頂点を持つ図形、 十七角形は、定規とコンパスによる作図が可能な図形の1つである。定規は、2点を通る直線を引くための道具であり、目盛りが付いていても、長さを測るのには使わないものとし、コンパスは、与えられた中心と半径の円を描くことができる道具である。数学的には、定規とコンパスによる作図で表わせるのは、二次方程式(一般に、移項したり展開して式を整理した時に、「xについての二次式が0に等しい」という形になる方程式)を繰返し解いて得られる範囲の数であることが知られている。つまり、幾つかの二次方程式や一次方程式(未知数の最高次数[対象の個数を表わす値、次数が最も高いもの]が1である方程式)に帰着できる問題は、定規とコンパスのみで作図可能であり、反対に、帰着できない問題は作図不可能である。
1806年 - フランス第一帝政の皇帝、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の兄ジョゼフ・ボナパルトが、ナポリ王国(イタリアが統一される前にイタリア南部にあった国で、「ナポレオン帝国」[皇帝ナポレオン1世が支配する、強力な軍事力を後ろ盾とした軍事独裁政権、フランス第一帝政]の衛星国)国王に即位する。 
1814年 - ナポレオン戦争: 第六次対仏大同盟(フランス帝国による覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟)が、フランスの首都パリへの攻撃を開始する。 
1822年 - アメリカ合衆国が、アメリカ合衆国東南部、フロリダ州の前身であるフロリダ準州を設立。スペインは、北アメリカ大陸南東部の半島、フロリダ半島に1513年に初めて上陸し、1565年から1763年までと、1784年から1821年までの2度の期間に亘ってフロリダを領有する。1763年、スペインはイギリスにフロリダを譲り、その代わりに、北アメリカ大陸南東部とメキシコ北東部に挟まれた湾、メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域であるカリブ海の、大アンティル諸島の洋上に位置するキューバの北西沿岸にある町、ハバナを入手する。イギリスは、13植民地(1776年7月4日にアメリカ合衆国として独立)とのアメリカ独立戦争(1775年から1783年まで)の間もフロリダを維持し続けたが、スペインはその時に、イギリスと積極的に戦っていたフランスと同盟を結んでおり、イギリスの気が逸れている間に、西フロリダの一部を占領する。1783年、アメリカ独立戦争が終わり、イギリスとスペインの間のヴェルサイユ条約(イギリスとスペイン・フランスとの間で結ばれた、アメリカ独立戦争の講和条約)で、フロリダはスペインに返還される。但し、その境界が曖昧なままで、スペインは1767年に拡張された領土を主張したが、アメリカ合衆国は、その北の地方をイギリスから割譲されており、古い境界線である北緯31度線を主張する。その後、1796年に公布された「スペインと合衆国間の講和、制限、航行条約(ピンクニー条約、サン・ロレンソ条約)により、スペインは北緯31度線を境界と認める。19世紀に入ると、アメリカ軍がスペイン領を度々侵すようになり、フロリダに関して、植民者や軍隊を送込むといった領土維持政策を行なうことができない状態で、むしろ重荷となっていたスペインは、フロリダ地域をアメリカ合衆国に割譲し、フロリダ準州が成立することとなる。  
1842年 - アメリカの医師・薬学者、クロウフォード・ロングが、初めてジエチルエーテル(特徴的な甘い臭気を持つ、無色透明の液体である有機化合物の一種)による麻酔を用いて手術を行なう。 
1856年 - パリ条約が調印され、フランス、オスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)、及びイギリスを中心とした同盟軍、さらに、サルデーニャ(現在のイタリアとフランスに跨る地域を領土とした国)と、ロシアが、クリミア半島(ヨーロッパとアジアの間にある内海、黒海の北岸にある半島)等を舞台として行なった、近代史上稀にみる大規模な戦争、クリミア戦争が終結する。この戦争により、後進性が露呈したロシアでは、抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも、急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセン(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした国)がヨーロッパ社会に影響力を持つようになる。
1858年 - アメリカの画家、ハイマン・リップマンが、消しゴムをニカワ(動物の皮膚や骨、腱等の結合組織の主成分であるコラーゲンに熱を加え、抽出したものの中で、接着剤等として利用する精製度の低いもの)で鉛筆に固定させる「消しゴム付き鉛筆」を発明する。 
1863年 - デンマーク王子ヴィルヘルム・ゲオルクがギリシャ王に選出され、ゲオルギオス1世として即位。 
1867年 - アラスカ購入。アメリカ合衆国国務長官ウィリアム・スワードにより、アラスカを720万ドル(1エーカー[約4,047平方m]当たり2セント)で、ロシア帝国からアメリカ合衆国に売渡す契約が締結される。当時は「スワードの愚行」等と呼ばれ、良い評価は受けなかったが、1896年にはアラスカで金鉱が発見される等、資源の宝庫であることが判明した他、軍事上においても、アラスカの位置がベーリング海峡や北極海を挟んでロシアと直接国境を接することから、特に、第二次世界大戦後の世界を二分した、西側諸国のアメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造、東西冷戦期には、極めて重要な役割を果たす等、ウィリアム・スワードのアラスカ購入に関する評価は高いものに変わる。1741年、デンマーク生まれのロシア帝国の航海士・探検家、ヴィトゥス・ベーリングがロシア帝国皇帝の要求を受け、初めてアメリカ大陸に上陸し、1784年、ロシア帝国はカムチャツカ半島からアリューシャン列島に沿い、アメリカ大陸へ進出し、現在のアメリカ合衆国最北端、アラスカ州南部の太平洋側に位置するコディアック島に拠点を形成する。1799年には、ロシア帝国は、ロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言する。1821年、正式にアラスカを領有したロシア帝国は、1824年には、アメリカ合衆国と国境を画定する。しかし、1867年にロシア帝国は、クリミア戦争に敗れてから、財政的に困窮した上に、毛皮獣の枯渇が進み、アラスカの植民地経営が行き詰まるようになる。そのため、ロシア帝国は、アラスカを売却することにしたが、クリミア戦争でも敵対したイギリスに売却することを避け、ロシア帝国はアラスカを、アメリカへ売却することになる。現在のアラスカ州では、アラスカ購入に関して2つの記念日が設けられている。1つは10月18日で、領土移譲式が執り行なわれ、アラスカが名実共にアメリカ領になった1867年10月18日に基づく。もう1つは、その約半年前、ロシアとアメリカ購入の条約調印に臨んだ国務長官を記念するスワード・デーである。日付は、条約調印が行なわれた1867年3月30日に因み、3月の最終月曜日に制定されている。一方、アラスカを放棄したロシア帝国は、毛皮の代わりに綿織物の材料となる綿花に注目する。そのため、ロシア帝国は、関心をアラスカから中央アジアに向け、その結果、ロシア帝国は、東トルキスタン(東アジアと中央アジアが交わる、中華人民共和国が新疆新疆ウイグル自治区と命名した地域)への支配を強めつつあった中国(清朝)と、中央アジアで衝突を起こすことになる。