3月27日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

水なすの日。 
3月27日の「3」と「27」で、「水なす(み[3]ず[2]な[7]す)」と読む語呂合わせから、大阪市淀川区西中島に事務局を置く、中小企業を組合員とする事業協同組合、大阪府漬物事業協同組合が制定した。この時期から夏に向けて、本格的な出荷が始まることも由来の1つとされる。大正時代に、大阪市内の業者により大阪漬物業組合が設立されたことに始まり、第二次世界大戦中、戦後の統制社会の後、1951(昭和26)年に、大阪府下の生産者が主体となって大阪漬物組合が結成された。1955(昭和30)年9月には小売業界も参加し、組織も拡大されて大阪漬物協会に改組した。任意団体から法人改組の必要性が生じるようになり、1970(昭和45)年4月、大阪府漬物協同組合が生産者の団体として発足し、1977(昭和52)年には、全国の生流一本化の動きに合せ、府下流通業者と相図って生販一体の現組織になり、現在の「大阪府漬物事業協同組合」の組織が形成された。「水なす」は、大阪府の南部で多く栽培され、みずみずしく柔らかいのが特徴とされる。その歯ごたえや香りを活かした「水なす漬」は、素材・製法共に「大阪」に拘り、大阪府内の製造所で製造されたものとして、大阪府が品質や安全性について審査の上、認証した商品である大阪府Eマーク食品の第1号に認定されている。ナスは本来、灰汁が強く生食には向かない野菜であるが、「水なす」は灰汁が少なく、水分を多量に含んでおり、ほのかな甘みもあって、生食が可能である。生食が可能なナスは全国的にも珍しい。日本各地で栽培されているが、大阪府の泉州地域(大阪府南西部)で特に盛んに栽培されており、泉州特産品として日本全国で有名である。本格的に栽培が軌道に乗ったのは、ナスの栽培技術が発展した江戸時代初期と考えられている。当時は、ほぼ地産地消の野菜として、農作業の合間に食べるものであった。「水なす」の主な栽培地である大阪府泉佐野市や大阪府貝塚市の地質は、水はけがよく、農業用水を確保するために溜池が散在しているものの、海が近いため、地下水にも塩分が混じる。加えて温暖な気候のため、蒸発していく水分を保持するために、「水なす」は大量の水分をため込むように産地に適応したと考えられている。「水なす」は、畑の隅に植えられ、農作業中の熱中症防止の目的で生食された他、浅漬けを市場に出ない安価な小エビと和えた「じゃここうこ」等に調理して食べた。この「じゃここうこ」は、郷土料理の保存の目的で、泉南地域(泉州地域南部)の給食センターが小学校給食のメニューに取入れている。運送技術が進んだ昭和初期に、販路拡大のためにデパートに並んだが、熟しても緑の斑が残り、非常に傷が付き易く、漬物にすると褐色に代わるという性質から、見た目が悪く敬遠された。現在広く流通しているのは、第二次世界大戦後開発された、本来の「水なす」よりやや細長く、全体が紫になる「絹茄子」と呼ばれる系統のものである。外見を良くする品種改良だけではなく、早期出荷を目的に「水なす」をハウス栽培を行なったり、果実に接触する葉を除去する等、1個1個傷が付かないように育てており、高価である。概ね100年以上前から大阪府内で栽培されていることや、品種の来歴が明らかであり、それが大阪府内に由来すること等を基準とした「なにわの伝統野菜」第1号の称号を授与されたこともあり、産地以外では高級野菜のイメージが強いが、産地では、「なす」と言えば「水なす」のことであり、普通に栽培されている。

ドキュメントの自由の日(Document Freedom Day)。
3月最終水曜日。ドキュメント(document)の自由に関するアウェアネス(思考に気付き、意識を向けること)を推進する目的で設定されている記念日。オープンドキュメント形式(OpenDocument Format)やオープン標準(Open Standard)の重要性について認知を広める、としている。オープンドキュメント形式(OpenDocument Format)は、基本的な構文規則を共通とすることで、任意の用途向けの言語に拡張することが容易となったマークアップ言語(視覚表現や文章構造等を記述するための形式言語)、拡張可能なマーク付け言語(XML)をベースとしたドキュメントのファイルフォーマットで、オープン標準(Open Standard)は、様々な製品やサービス間での相互運用や、データ交換を可能とするための標準全般を指し、インターネットを含む多くのコンピュータネットワークにおいて、標準的に利用されている通信プロトコル(通信に関する規格)のセット、インターネット・プロトコル・スイート(TCP/IP)や、ハイパーテキスト(複数の文書を相互に関連付け、結び付ける仕組み)を記述するためのマークアップ言語の1つであるハイパーテキスト マークアップ ランゲージ(HTML)、オープンドキュメント形式(OpenDocument Format)もこれに当たる。 
絵本週間。
デンマークの代表的な童話作家・詩人、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの誕生日、1805(文化2)年4月2日に因んで制定された「国際子どもの本の日」である、4月2日の前後2週間、3月27日から4月9日まで。1977(昭和52)年に結成された、全国学校図書館協議会の他、保育園、幼稚園等の6団体で構成される絵本週間推進協議会が制定した。子どもの豊かな情操を育む上で欠くことのできない、文化財としての絵本文化の発展と、教育の場や家庭に一層「絵本読書」が定着することを願って設けられた。第1回は1977(昭和52)年12月1日から12月14日まで。以後毎年12月に開催され、1999(平成11)年の第22回からは、「国際子どもの本の日」である4月2日を含んだ前後2週間に変更された。なお、全国学校図書館協議会は、1950(昭和25)年2月、「学校図書館が民主的な思考と、自主的な意思と、高度な文化とを創造するため教育活動において重要な役割と任務をもっている」(創立時の宣言)との思いで、全国の有志教員によって結成された。その後は、任意団体として活動していた全国学校図書館協議会を発展的に改組して、その目的、事業を引継ぎ、1998(平成10)年9月に社団法人全国学校図書館協議会が設立され、2012(平成24)年4月1日に公益社団法人に移行した。公益社団法人全国学校図書館協議会は、各都道府県の学校図書館研究団体と協力して、学校図書館の充実発展と、青少年読書の振興を図るため、様々な活動を行なっている。貧しい家に生まれたハンス・クリスチャン・アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。1835(天保6)年に最初の長編小説『即興詩人』を出版する。『即興詩人』は、イタリア各地を舞台としたロマンチックな恋愛小説で、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版され、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの出世作となったが、現在は、森鴎外(陸軍軍医でもあった明治・大正期の文豪)訳を得た日本以外で顧みる者は殆どいない。同1835(天保6)年に『童話集』を発表するが、当初はむしろ不評であったという。ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、死去するまでの間に多くの童話を発表し続けた。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話作品は、グリム兄弟(19世紀にドイツで活躍した言語学者・文献学者・民話収集家・文学者の兄弟で、日本では、『グリム童話』の編集者として知られる)のような民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。初期の作品では、主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくなく、若き日のハンス・クリスチャン・アンデルセンが、死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを、童話という媒体を通して訴え続けていたことが推察できる。しかし、この傾向は、晩年になってようやく緩められるようになり、死以外にも幸せになる術があることを作中に書き出していくようになる。大学を卒業しなかったハンス・クリスチャン・アンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。グリム兄弟を始め、ヴィクトル・ユーゴー(フランスの詩人・作家)、オノレ・ド・バルザック(19世紀のフランスを代表する作家)、チャールズ・ディケンズ(イギリス帝国の絶頂期とされるヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの作家)等、旅先で多くの作家や学者、芸術家と交友を深めたが、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは生涯独身(未婚)であった。
赤彦忌。
明治時代から大正時代にかけてのアララギ派(俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆等、多方面に亘って創作活動を行ない、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の1人であり、俳句分類や、江戸俳諧中興の祖と言われる俳人、与謝蕪村等を研究し、俳句の世界に大きく貢献した、正岡子規の短歌論を信奉し『アララギ』に拠った歌人達)の歌人、島木赤彦の1926(大正15)年の忌日。島木赤彦は、正岡子規の写生論を承継し、「歌道小見」において独自の写生論を展開しているが、それを元に、島木赤彦の歌論の全体を集約してみれば、短歌における写生とは、概念的な言葉をもって事象を表現するのではなく、具体的な事象と接触しつつ、その対象に相応しい表現を「鍛錬」により「一心の集中」をもって「一点の単純所に澄み入る」ことによって達成できるもの、とする。また、島木赤彦は、童謡、俳句、小唄、小曲、今様等を作り、さらに、小説物語、散文、紀行文、新聞掲載エッセイ等、多数の作品を著している。 
京都表千家利休忌。
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人で茶人、千利休(千宗易)の祥月命日は旧暦2月28日であるが、新暦に換算すると3月か4月になる。千利休を祖とする千家の家督を継いだ千家流茶道の本家、表千家家元では、1ヶ月送りにして、新暦3月27日に利休忌の行事が催されている。利休忌は、千利休の流れを汲む門弟達が一堂に集まって、千利休の画像等を掛け、先ず茶湯(ちゃとう)をして、千利休に茶を供え、一同で薄茶を頂き、千利休の遺徳を偲ぶ行事とされる。千利休(千宗易)は、わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称される。また、今井宗久、津田宗及と共に、茶湯の天下三宗匠とも称されている。広く知られた「利休」の名は、1585(天正13)年の禁中茶会(皇居での茶会)に当たって、町人の身分では参内できないために、第106代天皇、正親町天皇から与えられた居士号(尊称)である。「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生の殆どは「宗易」として送っている。