3月12日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

だがしの日。
岡山県瀬戸内市長船町東須恵に事務局を置く、全国の駄菓子メーカー等で結成された任意団体「DAGASHIで世界を笑顔にする会」が、2015(平成27)年に制定。日本の精神、文化が凝縮された駄菓子業界の活性化と、「DAGASI」を世界平和のキーワードとして、世界中の人々に知ってもらうことが目的。日付は、和歌山県海南市下津町橘本に所在し、菓子の神様、菓祖として知られる田道間守公(日本最古の歴史書『古事記』や、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』に伝わる古代日本の人物)を祀る、橘本神社の前山和範宮司の提唱により、田道間守公の命日とされる3月12日に。「駄菓子の日」ではなく、「だがしの日」であるのは、子ども達にも分かり易く、との大人の配慮である。この日には、「DAGASHIで世界を笑顔にする会」の主催により、ゲームをして駄菓子が貰えるイベント等が開催されている。日本では、縄文時代において栗の実を粉状にしたものを固めて焼いたと見られる、独自のクッキーが食べられていた。 また、古代の日本では、果実や木の実等を総称して「くだもの」と呼んでいた。漢字が伝来し「くだもの」に「菓子」、或いは「果子」の字が充てられるようになった。そして、奈良時代から平安時代にかけて、中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐菓子と呼ばれるようになる。果実とは全く異なる加工された食品ではあるが、嗜好品としては果実同様であるとして、「くだもの」と分類されたのではないか、とも考えられている。なお、加工食品としての菓子が伝来して以降、果物については、「水菓子」と呼んで区別するようになった。続いて、室町時代から安土桃山時代にかけて、茶道の隆盛に伴ない、点心としての菓子が求められ始めた。中国では、肉類を用いて作られている羊羹や饅頭がもたらされたが、日本では仏教の影響下、肉類ではなく、小豆や豆類等の植物性の素材に置換えて作られるようになり、これが後に、和菓子の方向性を決定したとも考えられている。一方、室町時代末から鎖国令までの間、世界は大航海時代の中にあり、南蛮菓子の輸入時代ともなっていた。カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラ等、日本独自の製法が工夫され、和菓子として発展した菓子もある。茶道と共に発達した点心は、京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで、工芸的趣向を凝らしたものになり、京菓子として隆盛を極めた。しかし、江戸時代も後期になると、京菓子に対抗して、江戸文化により育まれた上菓子が隆盛を見せる。また、白砂糖は、上菓子のみに用いるといった制限を逆手に取り、駄菓子と言われる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展した。明治維新により鎖国令が解かれると、海外からドロップ、キャンディ、チョコレート、ビスケット等が輸入されるようになり、日本の菓子は、革命とも言える大転機を迎えることになった。大航海時代時代からの経済発展により、完成の域に達したフランス菓子等が伝えられる一方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法まで一気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見ることとなった。駄菓子とは、茶席や贈答にも使われる高級菓子に対し、主に子ども向けに製造販売される、安価な菓子のことである。元は、江戸時代に雑穀や水飴等を材料に使って作り上げ、庶民の間食として食べられていたことと、安さもあり、一文菓子と呼ばれていた。現在、駄菓子として売られているものは、明治時代からの流れを受け、第二次世界大戦後に発達したものが殆どで、その種類も豊富である。パッケージに、児童に人気のスポーツ選手やアニメキャラクターを使用する、物によってはクジ引きができ、当りが出ればおまけが貰える等、顧客の子供達を飽きさせない工夫がなされている。流通経路として、昭和期には駄菓子屋が全国の街角に見られ一時代を築いたが、社会事情の変化で現在は少なくなり、近年は、コンビニエンスストアや大型ショッピングセンター、スーパーマーケット等に販売の中心が移っている。
スイーツの日。 
東京都目黒区自由が丘に本社を置く、スイーツと、スイーツを取巻くライフスタイルを提案するWebマガジンを発行する企業、株式会社スーパースイーツが、スイーツの魅力をより多くの人に広めるために、2008(平成20)年に制定。日付は、3月12日の「3」と「12」で、「ス(3、three)イ(1)ーツ(2、two)」の語呂合せから。スイーツとは、甘い食べ物、或いは、お菓子等のことである。概ね、食事の後に口直しとして食べるものをデザート、おやつや単に甘い食べ物として捉えるのがスイーツ、と言える。1990(平成2)年、雑誌の影響で、北イタリア生まれのチーズケーキの一種、ティラミスが爆発的な人気を得て以来、洋菓子業界では、有名菓子店やパティシエ(菓子職人)が創作し、マスコミ等が広める、といった流行の波が見られる。 
咲顔(えがお)の日。 
咲顔と書いて「えがお」。これは、日本の民俗学研究にあって、その初期に大きな影響を与えた農商務官僚(農商務省[現在の農林水産省と経済産業省の前身]の官僚)から、日本民俗学の確立に貢献した民俗学者となった柳田國男が、「笑む」を「咲む」と書いたことに始まる。東京都港区高輪に本社を置き、誰もが心からほころぶような咲顔の人になることを願い、咲顔を広める活動を行なっている、研修業務や経営コンサルタント業務を手掛ける企業、株式会社喜田寛総合研究所代表の喜田寛が制定。日付は、喜田寛の誕生日、1945(昭和20)年3月12日から。「笑む(咲む)」は、「にこにこする」「笑い顔になる」「花が咲き始める」「蕾がほころびる」「果実が熟して裂け開く」の意味がある。「微笑む」ことを表わす「笑む」という言葉を、比喩的に蕾が開く様子と重ね合せて、「咲む」という言葉が誕生した、とされている。 
マルサン豆乳の日。
愛知県岡崎市仁木町字荒下に本社を置く、大豆を主原料とする豆乳や味噌等の食品の製造・販売を手掛ける企業、マルサンアイ株式会社が制定。日付は、3月12日を「マルサン豆乳(03[マルサン]12[トウニュウ])」と読む語呂合わせから、この日を記念日としたもの。自社の基幹事業である豆乳についての知識を深めてもらうと共に、「マルサン豆乳」シリーズのPRが目的。良質な植物性たんぱく質やミネラル等がバランス良く含まれている豆乳を、普段の食生活に取入れることで、健康づくりに役立ててほしい、という願いも込められている。1952(昭和27)年3月に創業したマルサンアイ株式会社は、コーポレートメッセージとして「大地のおいしさから、新しい幸せを。」を掲げる。元々は味噌メーカーであったが、1980年代には豆乳飲料を発売して、落語家の桂文珍をCMに起用し、「お豆のお乳(ちち) からだにえ~よ~」というフレーズと共に、会社の知名度を全国に広げた。現在でも、豆乳飲料では大手にして、名古屋証券取引所メイン市場単独上場銘柄である。マルサンアイ株式会社の豆乳の商品としては、「調製豆乳」や「国産大豆の調製豆乳」「有機豆乳無調整」「豆乳飲料 麦芽コーヒー カロリー50%オフ」「豆乳飲料 バナナ カロリー50%オフ」「豆乳飲料 抹茶」「豆乳飲料 ピスタチオ」「豆乳飲料 あんバター味」等があり、豊富なラインナップとなっている。また、マルサンアイ株式会社のWebサイトには、豆乳を使用した料理レシピが掲載されている。豆乳はどんな料理にもよく合い、手軽に栄養価のアップが期待できる。スープからデザートまで数多くのレシピが紹介されている。
聖グレゴリウスの祝日。
カトリック教会のローマ司教にして、全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇の、ローマ・カトリック教会内の最高司牧権である教皇権を確立し、典礼書(儀礼の様式を示す文書)や聖歌(キリスト教において用いられる宗教歌)を纏めた、中世初期を代表する教皇、グレゴリウス1世(第64代ローマ教皇)の命日(604[推古天皇12]年)。ローマ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽である『グレゴリオ聖歌』の名は、グレゴリウス1世に由来しており、伝承では、グレゴリウス1世自身が多くの聖歌を作曲したとされている。
菜の花忌。
昭和前期の教師で詩人、伊東静雄の1953(昭和28)年の忌日。季節の花に因み、菜の花忌と呼ばれる。3月最終日曜日に、出身地の長崎県諌早市にある諌早公園で、追悼行事が行なわれる。これとは別に、作家で評論家、司馬遼太郎の忌日、2月12日も、司馬遼太郎が好きであった花に因んで「菜の花忌」と呼ばれている。日本古典文学や、オーストリアの詩人・作家、ライナー・マリア・リルケへの造詣の深さに由来する、浪漫的、かつ日本的な叙事詩に耽美を加えた作風は、少年期の三島由紀夫(第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の1人)にも多大な影響を与えたとされる。1935(昭和10)年、第一詩集で、代表作となる『わがひとに与ふる哀歌』を発行。近代詩の新しい地平を拓き、「日本近代詩の父」と称される詩人、萩原朔太郎から「日本にまだ1人、詩人が残っていた」と賞賛を受け、一気に名声を高める。1940(昭和15)年に第二詩集『夏花』、1943(昭和18)年に第三詩集『春のいそぎ』、1947(昭和22)年に第四詩集『反響』を刊行。肺結核により46歳で死去したが、伊東静雄の業績を記念し、1990(平成2)年に長崎県諫早市の伊東静雄顕彰委員会により、優れた現代詩を賞する「伊東静雄賞」が創設された。