2月27日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4火曜日 旧暦  1月18日、赤口(辛酉)、月齢 17.2
グレゴリオ暦で年始から58日目、年末まであと308日。
誕生花 マドンナリリー・オオアマナ・オーニソガラム・クモマグザ。

新選組の日。
1862(文久2)年、出羽国庄内藩の郷士、清河八郎の提案で、事件が頻発している京都の警護に当る為に、浪士(主家を離れた武士)が江戸で集められた。この「浪士組」が「新選組」の前身となった。「浪士組」は、清河八郎と共に翌1863(文久3)年の2月8日に江戸を出発、2月23日に京都の壬生村(現在の京都市中京区壬生)に到着した。しかし、京都に着いた途端、清河八郎が勤王勢力と通じ、「浪士組」を天皇配下の兵力にしようと画策していたことが発覚する。幕臣(旗本)の松平忠敏や山岡鉄太郎(山岡鉄舟、後に江戸無血開城等にも係わり、侍従[天皇に側近奉仕する文官]として、第122代天皇、明治天皇に仕える)等、浪士取締役の協議の結果、清河八郎の計画を阻止するために「浪士組」209名は、浪士取締役に引連れられて江戸に戻ることとなった。これに対し、天然理心流剣術道場である試衛館の近藤勇や土方歳三、常陸国水戸藩浪士の芹沢鴨ら24名はそのまま京都に残留し、「壬生浪士組」となり、京都守護職であった陸奥国会津藩藩主の松平容保の配下に入った。なお、清河八郎は江戸に戻った後、「浪士組」を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため、命を狙われていた。1863(文久3)年4月13日、幕府の刺客で、「小太刀日本一」と称され、幕府講武所(江戸幕府が設置した武芸訓練機関)の剣術師範を務めたと伝えられる幕臣(旗本)の佐々木只三郎、神奈川奉行支配調役の窪田泉太郎等、6名によって麻布赤羽橋(現在の東京都港区麻布十番に所在する麻布十番商店街付近)で首を討たれた。清河八郎の死後、幕府は「浪士組」を「新徴組」と改名して再組織したが、規律の乱れた行動がみられたため、江戸市中警護、海防警備の命令を受け、規律を取戻すと、出羽国庄内藩預かりとした。「新徴組」は、後の1868(慶応4)年、放火・掠奪・暴行等を繰返して旧幕府側を挑発する薩摩国/大隅国薩摩藩に対して、江戸薩摩藩邸の焼討事件を引起こしたが、これが戊辰戦争の発端になっている。「壬生浪士組」の任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧等であった。「新選組」となる以前の壬生浪士達は、身なりの貧しさから、「みぼろ(壬生浪 = みぶろ・みぶろう)」と一部の京都の人達に揶揄されていた。また、「壬生の狼」とも呼ばれた。同年8月に勃発した八月十八日の政変(陸奥国会津藩や薩摩藩を中心とした公武合体派が、長門国/周防国長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件)の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命した。その後、約4年間に亘り、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行なった。新撰組の日は、壬生浪士組を会津藩預りとするとする建白書の提出された、1863(文久3)年2月27日の他に、会津藩預りが正式決定した3月13日等がある。明治時代には、新選組と敵対していた薩長(薩摩国/大隅国薩摩藩と長門国/周防国長州藩)出身者が政治の実権を握っていたこと、及び、皇国史観(日本の歴史が天皇を中心に形成されてきたことに着目し、「日本民族」の統合の中心を「万世一系の皇室」に求める思想)の影響により、賊軍となった新選組を否定する風潮が強かった。この為、史学的な研究も遅れた。大正時代に作家の大佛次郎が著した時代小説シリーズ『鞍馬天狗』でも、新選組は悪役として描かれている。但し、講談の影響で庶民からは一定の人気があり、『鞍馬天狗』の中でも近藤勇だけは、他の隊士と違って人格者の豪傑として描かれていた。1928(昭和3)年に作家の子母澤寛による長編時代小説『新選組始末記』が刊行されると、新選組は再評価され始めた。『新選組始末記』は新選組を題材にした作品で、関係者への取材等を取纏めていることから、新選組に関する代表的な資料とも捉えられており、その後の幕末を題材にした創作作品に影響を与えた。1933(昭和8)年、警視庁に創設された特別警備隊(現在の警視庁機動隊)は、「昭和の新選組」の通称で親しまれた。第二次世界大戦中には陸軍で編成された飛行第47戦隊(初代隊長 下山登中佐、第2代隊長 奥田暢少佐)と、海軍で編成された第三四三海軍航空隊戦闘三〇一飛行隊(隊長 菅野直大尉)も「新選組」と呼称されている。第二次世界大戦後は、映画やテレビドラマで新選組が主役に扱われることも多くなり、各隊士にもスポットが当てられるようになった。昭和40年代に放送された、歴史小説に新風を送った作家、司馬遼太郎の同名の短編小説集を原作とした連続テレビドラマ『新選組血風録』や、司馬遼太郎の同名の長編歴史小説を原作とした連続テレビドラマ『燃えよ剣』(新選組副長土方歳三の生涯を描いたもの)は、新選組ブームを起こした。近年では、新選組をモチーフにしたアニメやゲームも数多く生まれており、幅広い世代から愛好されている。新選組は、京都で活動している不逞(身勝手に振舞ったり、道義に外れた行ないをする者)浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備等、警察活動を任務としていた。数々のフィクション作品の影響により、浪士を斬りまくった「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った。激闘で有名な池田屋事件(京都三条木屋町[三条小橋]の旅館、池田屋に潜伏していた、長門国/周防国長州藩や土佐国土佐藩等の尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した事件)においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、土方歳三隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている。1864(元治元)年9月に第二次の隊士募集を行ない、更に近藤勇が江戸へ帰郷した際に、幕末江戸三大道場の筆頭に数えられた北辰一刀流剣術の名手で、常陸国水戸藩藩士の家来、伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺(現在の京都市下京区にある仏教寺院)へ本拠を移転する。その後、江戸幕府が長州藩の処分をするために、長州藩領のある周防国、長門国へ向け征討の兵を出した事件、長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組から八番組、及び小荷駄雑具)に改組し、「軍中法度」も制定した。しかし、新選組に長州征伐への出動の命令はなかった。1867(慶応3)年3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違い等から御陵衛士を結成して脱退する。同年6月、新選組は幕臣に取立てられるが、同年11月には御陵衛士を襲撃し、伊東甲子太郎らを暗殺する(油小路事件)。新選組では参謀兼文学師範に任じられ、容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東甲子太郎に対する人望は高かったと伝わる。しかし、伊東甲子太郎と新選組は、攘夷(外国人を実力行使で排斥しようという思想)という点で結ばれていたが、新選組は佐幕(幕府支持)派で、勤王(倒幕)を説こうとする方針を巡り、密かに矛盾が生じていた。伊東甲子太郎は、近藤勇に呼ばれて接待を受けた後、酔わされて帰途に着いた時に、新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された。酒に酔わせた上での暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東甲子太郎の剣技を警戒したためと思料される。