2月23日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0990年 - 有力な公卿(司法・行政・立法を司る最高国家機関、太政官の最高幹部として国政を担う職位)、藤原道隆の娘である藤原定子が第66代天皇、一条天皇に入内(皇后・中宮・女御になる人が、儀礼を整えて正式に内裏に入ること)する。 
1455年 - ドイツ出身の金属加工職人で印刷業者、ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷(活字を組合わせて作った版である活版で印刷すること)技術を用いて印刷した、世界初の印刷聖書『グーテンベルク聖書』の印刷が開始される。『グーテンベルク聖書』は、当時最も広く流通していたラテン語(ギリシャ語と並んで西欧の古典語で、古代ローマ帝国の公用語であり、中世から近代の初めに至るまで、カトリック教会を中心とする全ヨーロッパの知識層の、言わば共通の文語として用いられた)聖書『ヴルガータ』(ラテン語の「共通訳」の意の略で、カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のこと)をテキストとしている。この『グーテンベルク聖書』は、美麗で技術的にも高品質と賞賛され、日本では、1987年に、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)にある出版関係商社の丸善(大手書店・出版社でもあり、現在は世界最大規模の総合印刷会社、大日本印刷の子会社となっている)が購入したものを、慶應義塾大学が保存している。印刷に改良を加えた活版印刷技術の発明者と言われ、広く知られているヨハネス・グーテンベルクであるが、ヨハネス・グーテンベルクの古い記録は、裁判記録以外殆どなく、活版印刷技術の真の発明者は誰か、という論争が古くから行なわれてきたが、ヨハネス・グーテンベルクとする説が最も有力である。ヨハネス・グーテンベルクは、1445年までに活版印刷技術を考案し、その機器の実用化に成功して、自ら印刷業・印刷物出版業を創設したと言われる。金属活字を使った印刷術を発明したことで印刷革命が始まり、それが一般に、中世で最も重要なできごとの1つとされている。ヨハネス・グーテンベルクは、活字量産方法の発明、油性インクの採用、当時使われていた農耕用スクリュープレスのような木製印刷機の採用等、様々な面で印刷に貢献している。真の画期的発明と言えるのは、それらを組合わせて実用的システムとしたことであり、それによって本の大量生産を可能にし、印刷業者にとっても読者にとっても、経済的に成立つようにした訳である。 
1660年 - 「バルト帝国」(近世ヨーロッパの、北ヨーロッパに位置するバルト海、及びその沿岸を支配した国家、スウェーデン王国が繁栄した大国時代の日本での呼称)の絶頂を極めた武威の君主、カール10世グスタフがデンマークへの侵攻作戦中に突然熱病に冒され、そのまま陣中で38歳という若さで死去する。父、カール10世グスタフの死によって、唯一の子であったカール11世が、スウェーデン王に即位する。カール11世は4歳と幼いため、摂政制が敷かれている。1672年、17歳となったカール11世は戴冠(国王や皇帝が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位・皇位への就任を宣明する儀式を行なうこと)し、親政を開始する。そして、身分制議会の勢力を抑えて主権を国王に集中し、スウェーデンを絶対君主制へと移行させている(カール朝絶対主義と呼ばれる)。 
1623年 - アンボイナ事件。アンボイナ島(アンボン島)は、東南アジア南部に位置するインドネシアの東部、モルッカ諸島南方のセラム島の南西に位置する小島で、クローブ等の香料を産することで知られる。ヨーロッパで珍重されたこれらの香料を求めて、アンボイナ島への進出を図る国が相次いでいたが、この夜にイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害する。これにより、イギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダがアンボイナ島の権益を独占。イギリスは東南アジアから撤退し、インドへ矛先を向けることとなる。しかし、かつて同量の金と交換されたこともあった程の高級品、香料の価格は次第に下落してしまい、それに伴ない、オランダの世界的地位も下がり始める。対して、新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させている。 
1778年 - アメリカ独立戦争: フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンが大陸軍(アメリカ独立戦争中にイギリス軍に対抗するために作られた、アメリカ13植民地の統一された命令系統を持つ軍隊)に参加。フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンは、プロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部)の陸軍士官であり、アメリカ独立戦争ではジョージ・ワシントン将軍に仕える。大陸軍に軍隊の訓練と統制の基本を教えたことで、その功績を知られている。 
1836年 - テキサス独立戦争: アラモの戦いが始まる。 
1848年 - 1848年のフランス革命(フランス二月革命): 政府の禁令を無視して強行された選挙改革宴会(選挙権の拡大や、労働者・農民の諸権利を要求する政治集会であるが、名目上、宴会ということにして実施していたもの)で、怒る群衆とこれに対峙する軍とが衝突し、2名の死者が出たことを受け、国王ルイ・フィリップは、首相のフランソワ・ギゾーを罷免して事態の沈静化を図る。
1852年 - ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーがイギリスの第33代首相に就任し、第1次ダービー内閣が発足。 
1886年 - アメリカの化学者、チャールズ・マーティン・ホールがアルミニウムの電気分解法(ホール・エルー法)を発明。ホール・エルー法は、唯一実用化されているアルミニウムの製錬方法で、フランスの化学者、ポール・エルーも、同時期にアルミニウムの製造に成功しており、2人の業績を讃えてホール・エルー法と呼ばれている。チャールズ・マーティン・ホールとポール・エルーは、偶然にも生没年が一緒であるが、血縁関係等はなく、面識もない。ポール・エルーは、後にアメリカの工場に招かれ、幾つかの企業に技術顧問として雇われたが、地中海でヨットに乗っている最中に亡くなっている。チャールズ・マーティン・ホールは、資本家の出資を得てアルミニウムの製造会社をを発足させ、製法の改良により、アルミニウムの製造コストを低下させることに尽力する。さらに、会社の努力により、当初は殆どなかったアルミニウムの需要が次第に広まり、チャールズ・マーティン・ホールは、1911年には、アメリカの化学工業界では最高の名誉である賞、パーキンメダルを受賞する。 
1903年 -  南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域洋上の大アンティル諸島に位置するキューバが、アメリカ合衆国にグァンタナモアメリカ海軍基地(グァンタナモ収容所)の永久租借を承認する。1898年の米西戦争(アメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争)でアメリカ軍が占領し、アメリカ合衆国の援助でスペインから独立したキューバ新政府は、1903年2月23日、グァンタナモ基地の永久租借を認める。国家主権はキューバにあり、アメリカ合衆国は「租借料」として毎年金貨2,000枚(今日の価格で約4,000米ドル)を支払っていたが、キューバの陸軍軍人・革命家・政治家フィデル・カストロや、アルゼンチン生まれのキューバの革命家チェ・ゲバラらが中心となって、アメリカ合衆国の影響が強かったフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒するに至った武装解放闘争、キューバ革命によって成立したフィデル・カストロ政権は、アメリカ合衆国の基地租借を非合法と非難しており、租借料は1度受取った以外は、受取りを拒否している。アメリカ合衆国とキューバの双方が、基地周辺を地雷原としており(アメリカ合衆国側は1996年に撤去)、周囲が地雷だらけで脱走が不可能な上、マスメディアにも実態が見えない海外基地、更には、キューバ国内でもアメリカ合衆国内でもない、国内法でも国際法でもない軍法のみが適用される治外法権区域ということで、20世紀後半から、キューバや、大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置するハイチの難民を、不法入国者として収容している。 
1904年 - 日本と大韓帝国(韓国)との間で締結された条約、日韓議定書が締結される。日韓議定書には、日本による、韓国施政忠告権や臨検収用権等、日本側に有利な条項もあるが、反面、日本政府は、韓国皇室、韓国の独立、及び領土を確実に保障し、片務的防衛義務を負う等としており、一方的に日本に有利なものとはなっていない。 
1905年 - アメリカ合衆国中西部、イリノイ州シカゴで、弁護士ポール・ハリスらが、後にロータリークラブとなる相互扶助クラブの最初の会合を開く。