2月22日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

竹島の日。 
日本海の南西部に位置する無主地、竹島は、1905(明治38)年1月28日の閣議決定で島根県所管とされた。この閣議決定を受け、島根県知事は、同1905(明治38)年2月22日に、竹島が島根県所管であることを告示した(「明治38年2月22日島根県告示第40号」)。竹島の島根県編入100周年を記念し、島根県が「竹島の日を定める条例(平成17年3月25日島根県条例第36号)」によって、2005(平成17)年に制定した。「竹島の日を定める条例」第1条は、「県民、市町村及び県が一体となって、竹島の領土権の早期確立を目指した運動を推進し、竹島問題についての国民世論の啓発を図るため、竹島の日を定める」としている。 竹島は本来、人の住める環境ではなく無人島であったが、1953(昭和28)年以降、韓国が武力行使によって占拠、韓国の武装警察官が多数常駐し、実効支配を継続している。日本は、これに対し「不法占拠」として抗議を続けている。竹島は、日本において幕末以前は「松島」と呼ばれ、現在の鬱陵島(朝鮮半島から約130km東の沖合いに位置する、直径10km程度の火山島)が「竹島」と呼ばれていた。幕末から明治時代中期にかけて、西洋の近代的地図で鬱陵島が「松島」と誤って記載された。日本でもそれに伴ない、鬱陵島を松島としたため、本来の松島(現在の竹島)の日本名がなくなってしまった。 1905(明治38)年、この時まで西洋名で表示されていた現在の竹島を「竹島」とし、竹島とされていた鬱陵島を元の「鬱陵島」に戻した。女島(東島)、男島(西島)と呼ばれる2つの小島と、その周辺の総計37の岩礁からなり、総面積は約平方0.21kmで、東京ドーム5つ分程度の島である。最頂部は男島が海抜168m、女島が海抜98m。周囲は断崖絶壁で、飲料水に乏しく、通常は人の住むことができる環境ではない。第二次世界大戦後、日本の領域は、1952(昭和27)年発効の「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約、昭和27年条約第5号)」により定められたが、ここには大まかな島嶼の記載しかなく、竹島の記載はなかった。韓国大統領の李承晩は、竹島を韓国領であるとし、「サンフランシスコ平和条約」発効直前に、マッカーサー・ライン(連合国軍最高司令官総司令部[GHQ]の文書で決められた日本漁船の活動可能領域)に倣った李承晩ラインを一方的に設定し、竹島を韓国領として韓国側水域に含めた。なお、マッカーサーラインは、「サンフランシスコ条約」発効と共に廃止されている。その後、1965(昭和40)年に締結された「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約、昭和40年条約第25号)」と共に、李承晩ラインは廃止されるが、現在に至るまで韓国は、竹島を韓国領として実効支配している。
忍者の日。
東京都港区白金台に所在し、店舗デザイン、空間デザイン、忍者をテーマとしたレストランのプロデュース等を手掛ける企業、株式会社グラフィクスアンドデザイニングが2015(平成27)年に制定。全国の忍者関連施設や団体と連携を図り、世界規模の忍者イベント等を行なう。日付は、「2」と「22」で「ニン(2)ニン(2)ニン(2)」の語呂合わせから。また、滋賀県甲賀市も、同じく2015(平成27)年に制定している。隣の三重県伊賀市と併せて忍者の里として知られることから、数字の「2」と忍者の「にん」をかけ、日本の各地5ヶ所でイベントが開催される。株式会社グラフィクスアンドデザイニングは、京都市中京区新京極通四条に所在するレストラン「NINJA KYOTO」からの委託を受けて、忍者ショーの運営を行なっている。「NINJA KYOTO」では、和食・フレンチ・イタリアン・中華・寿司などさまざまな食のジャンルを融合し、「忍者」というテーマで鮮やかに表現した創作メニューが数多くある。食事の合間には腕自慢の上級忍者(プロのマジシャン)が席で忍術を披露してくれる。忍者とは、鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え、又は独立して諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺等を仕事としていたとされる、個人、或いは集団の名称である。その名は、日本国内に留まらず、世界的にもよく知られている。領主に仕えずに戦毎に雇われる傭兵のような存在で、戦には足軽として参加し、夜討ち朝駆けといった奇襲撹乱を得意とした。伊賀や甲賀においては、荘園時代から悪党(中世に既存支配体系へ対抗した者・階層)が蔓延り、それが後世に、忍者と呼ばれる伊賀衆甲賀衆になったとされる。第二次世界大戦前は「忍術使い」等の呼称が一般的であったが、第二次世界大戦後は作家・画家の村山知義、漫画家の白土三平、作家・評論家の司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。江戸時代までは統一名称は無く、地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、[スッパ抜き]という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」)「透破(すっぱ、とっぱ)」「突破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」等の呼称がある。伊賀衆甲賀衆の一部は、本能寺の変(明智光秀が謀反を起こし、主君の織田信長を襲撃し自害させた事件)の際に、堺(現在の大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越え(伊賀国[現在の三重県西部]の険しい山道を経て、堺から徳川家康の領国、三河国[現在の愛知県東部]岡崎へ辿り着いたこと)を行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになり、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理等も担当し、同心(江戸市中の行政・司法・警察の任に当たった与力の下にあって、庶務・見回等の警備に就いた江戸幕府の下級役人)として、江戸城下の治安の警護に当たった。その後、明治時代になり、江戸幕府から明治新政府へ政権が移ると、警察、日本陸軍、日本海軍が創設され、忍者もその役目を終えることになった。活躍できる場を失った忍者の後裔達はその後、警察関係(警察官)の職業等、新たな職に就いた。
スニーカーの日。
東京都千代田区麹町に所在し、健康的なライフスタイルの促進を目的とする一般社団法人ウェルネスウェンズデー協会が、2017(平成29)年に制定した。健康に良い履物として定着しているスニーカーを、通勤やウォーキングでもっと履いてもらい、さらに多くの人に、健康になってもらうことが目的。日付は、スニーカーの語源が「スニーク」(忍び寄る)からきているので、「忍者の日」とされる2月22日とした。スニーカーとは、天然皮革や人工皮革、合成繊維等のアッパーとゴム底等で製造された運動靴の一種で、現在ではライフスタイルに広く浸透している。足を覆う上層部を柔らかい皮革や人工素材で覆い、靴底は地面との摩擦を最適に保つためにラバーを使用し、足首や甲を補強するヒモやストラップが装備されているものが殆どである。また、汗を吸収するために、内側がタオル地のものも多い。1893(明治26)年、既にキャンバス地にラバーソールの運動靴は、ボート競技のために発明されていたが、現代の「スニーカー」と呼ばれる形になったのは、1970年代頃以降のことである。