2月15日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

人間国宝。
人間国宝とは、「文化財保護法(昭和25年5月30日法律第214号)」第71条第2項に基づき、文部科学大臣が指定した、重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である。「文化財保護法」において無形文化財とは、演劇、音楽、工芸技術、その他の無形の文化的所産で、日本にとって歴史上、又は芸術上価値の高いものをいう。即ち、無形文化財とは、芸能、工芸技術等の無形の「わざ」そのものを指すが、その「わざ」は、これを高度に体得している個人、又は団体が体現する。そして、日本国政府はこのような「わざ」の内、重要なものを重要無形文化財に指定すると共に、その「わざ」を体現する個人、又は団体を保持者、又は保持団体に認定する。「文化財保護法」の当初施行時である1950(昭和25)年から、無形文化財に関する規定は存在したが、当初は国が保護策を講じなければ「衰亡の虞(おそれ)」のある無形文化財のみが保護の対象とされていた。1954(昭和29)年、「文化財保護法」の第一次改正、「文化財保護法の一部を改正する法律(昭和29年5月29日法律第131号)」によって、重要無形文化財の指定、及び保持者の認定制度が「文化財保護法」に規定された。この改正以前の旧法に基づいて選定されていた80余件の無形文化財、及びその保持者については一旦白紙に戻され、重要無形文化財とその保持者は、新たに指定・認定されることとなった。改正法に基づく最初の重要無形文化財、及び保持者(人間国宝)の指定・認定が行なわれたのは、1955(昭和30)年2月15日である。重要無形文化財の保持者、又は保持団体の認定の方式には、「各個認定」「総合認定」「保持団体認定」の3種がある。「各個認定」は、「重要無形文化財に指定される芸能を高度に体現できる者」「重要無形文化財に指定される工芸技術を高度に体得している者」等が認定される。「総合認定」は、「2人以上の者が一体となって芸能を高度に体現している場合」や「2人以上の者が共通の特色を有する工芸技術を高度に体得している場合」において、「これらの者が構成している団体の構成員」が総合的に認定される。「保持団体認定」は、「芸能または工芸技術の性格上個人的特色が薄く」かつ「当該芸能または工芸技術を保持する者が多数いる場合」において、「これらの者が主たる構成員となっている団体」が認定される。「各個認定」と「総合認定」は、共に「保持者の認定」であるが、「各個認定」は特定個人の認定、「総合認定」は「○○保存会」等の「保持者の団体の構成員」を総合的に認定するものである。「保持団体認定」は、1975(昭和50)年の「文化財保護法」改正、「文化財保護法の一部を改正する法律(昭和50年7月1日法律第49号)」以降に行なわれるようになったもので、社団法人等の団体自体を認定対象とする。以上の内、「人間国宝」と呼ばれるのは、一般的には「各個認定」の場合のみであり、「総合認定」における団体の構成員、及び保持団体認定における当該団体、及びその構成員については、人間国宝とは呼ばないのが通例である。演劇、音楽などの芸能の分野では「各個認定」と「総合認定」が行なわれ、工芸技術の分野では「各個認定」と「保持団体認定」が行なわれている。支援制度としては、日本国政府が、重要無形文化財の保護を目的として、人間国宝(各個認定保持者)に対し、年額200万円の特別助成金を交付している。保持団体に対しては、伝承者養成事業や文化財公開事業に対して、その経費の一部を助成している。日本の伝統芸能を上演する他、伝承者の養成や調査研究も行なっている、東京都千代田区隼町にある国立劇場では、能楽、文楽、歌舞伎等の後継者養成のための研修事業が行なわれている。
兼好忌。
日本三大随筆の1つとされる『徒然草』の作者として知られる、官人・遁世者・歌人・随筆家、兼好法師(吉田兼好として知られる)の1350(正平5)年の忌日。但し、忌日については諸説あり、確定していない。兼好法師の本名は卜部兼好。通説では、卜部氏は古代より、卜占(ぼくぜん)と呼ばれる占いによる吉凶判断を司り、神祇官(朝廷の祭祀を司る官庁の長)を出す神職の家柄であり、卜部兼好の父、卜部兼顕も吉田神社(現在の京都市左京区吉田神楽岡町に所在)の神職であった。卜部氏の嫡流は、後の時代に吉田家、平野家等に分かれ、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。30歳前後に出家(世俗を離れ、仏門に入ること)し、修学院(現在の京都市左京区修学院に所在した寺院)や比叡山横川(現在の滋賀県大津市坂本本町に所在する比叡山延暦寺の横川中堂)等に籠り、仏道修行に励む傍ら、和歌に精進した様子等が自著から窺われるが、余り明確ではない。その後、現在の大阪市阿倍野区にある寺院で、「天下茶屋の聖天さん」の通称がある正圓寺付近に移り住み、清貧自適な暮らしを営んでいたとも伝えられる。正圓寺境内東側に「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。公卿・歌人の二条為世に和歌を学び、二条為世門下の和歌四天王の1人にも数えられる。散文(小説や評論のように、5・7・5等の韻律や句法に捉われずに書かれた文章)で思索や見聞したできごとを記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、当時の社会風潮等を知るための貴重な史料ともなっている。ただ、中年期の法師兼好が著したことになるが、若い時代に書いた文章も含まれているという説もある。なお、兼好法師が書いたとする明確な証拠はないともされる。作品の名にも採られる書出しの「つれづれ(徒然)」は「やるべき事がなくて、手持ち無沙汰なさま」を意味する。「つれづれなり」と「よしなしごと」や、「書き付く」は、先行する文学にも用いられている組合せであり、作品、及び自己を卑下する謙遜の辞である。執筆後約百年間は注目されなかったようで、同時代の史料に『徒然草』への言及は伝わらないが、室町時代中期、臨済宗の歌僧で、室町時代最大の歌人とされる正徹が書写し、「無常観の文学」という観点から『徒然草』に共感を寄せた。江戸時代になると版本(木版で印刷された本)が刊行され、注釈書も書かれていく。『徒然草』に記された教訓は、町人等にも親しみ易く、身近な古典として愛読され、江戸期の文化に多大な影響を及ぼした。こうして『徒然草』は古典となり、文学上の位置が確定した。  
利玄忌。
歌人、木下利玄の1925(大正14)年の忌日。木下利玄(きのした りげん)は、1886(明治19)年1月1日に、現在の岡山県岡山市北区に生まれる。本名は利玄(としはる)。東京帝国大学(現在の東京大学の前身)国文科を卒業。東京帝国大学在学中は、多くの歌人を育成し、皇族へも和歌を指導した歌人・国文学者、佐佐木信綱に師事して短歌を学び、佐佐木信綱が主宰する短歌結社、竹柏会門下の逸材と呼ばれる。同級であった、作家・詩人・劇作家・画家の武者小路実篤や、「文学の神様」と呼ばれ、多くの日本人作家に影響を与えた作家、志賀直哉らと、文芸雑誌『白樺』を創刊。白樺派(『白樺』を中心にして起こった文芸思潮で、大正デモクラシー[1910年代から1920年代にかけての期間に起こった、政治・社会・文化の各方面における民主主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称]等、自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した)の代表的歌人の1人となる。木下利玄は肺結核のため、39歳で死去するが、その短歌は、没後に高い評価を受けるに至った。木下利玄の短歌は、口語的な発想・俗語の駆使・四四調の破調等を特徴とし、利玄調と呼ばれた。   
孟宗忌。
作家、徳永直の1958(昭和33)年の忌日。「孟宗忌」という名称は、初期の短編小説『最初の記憶』に登場する、孟宗竹を削って箸にする人々の描写に因む。徳永直(とくなが すなお)は、1899(明治32)年1月20日に、現在の熊本県熊本市西区に生まれる。小学校卒業前から、印刷工や文選工等、職を転々とする。1922(大正11)年、在野の経済学者で、社会主義者・社会運動家・思想家・評論家、山川均を頼って上京し、労働組合運動に参加。総合印刷会社、共同印刷において発生した大規模な労働争議、共同印刷争議に敗れるが、この時の体験を基に、長編小説『太陽のない街』を文芸雑誌『戦旗』に連載し、プロレタリア作家としての地位を確立する。第二次世界大戦中は、長編小説『光をかかぐる人々』で地味な抵抗を示し、第二次世界大戦後は、旧プロレタリア文学運動に関わっていた作家を中心とした、新日本文学会の結成に参加している。