2月11日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

わんこそば記念日(続き)。
出雲そばの中では、三段の丸い漆器にそばを盛って出す割子(わりご)そばが、最も有名な形である。これは、江戸時代に松江の趣味人達が、そばを野外で食べるために、弁当箱として用いられた形式が基となっている。出雲地方では、昔から重箱のことを割子(割盒とも)と呼んでおり、当時の割子は、正方形や長方形、ひし形等、さまざまな形であったが、1907(明治40)年頃に、当時の松江警察署長の発議により、ヒノキを用いた底の厚みのある丸形の漆器に変わった(当時の食品衛生は警察の管轄で、警察署長の発議は、割子が四角形であると四隅が洗いにくく、衛生的見地から問題があるとみたから、と言われる)。出雲そばは、他の地方の蕎麦に比べて、ダシ汁の掛け方が違う。他地方では、蕎麦をダシ汁の中に入れる場合が多いが、出雲そばの場合、ダシ汁自体を器に入れて食べるため、ダシ汁を入れる容器の口が狭くなっている。それに薬味をかける場合が多く、おろし大根は定番である。 三段重ねの場合、まず一番上の割子にダシ汁を全部入れてそばを食し、食べ終わったら、残ったダシ汁を二段目にかけて食す、というふうに、ダシ汁を使い回しながら、上から順に食べてゆく。釜や鍋から、茹でたそばを水洗いせず直接器に入れて、茹で汁であるそば湯をかけ、つゆや薬味を使って食べる、「釜揚げ」と呼ばれる食べ方も好まれている。同じ麺類としては、山梨県富士吉田市界隈で食べられている吉田のうどんに、茹でた麺に茹で汁をかける「湯もり」という似た食べ方がある。富士山北麓は、冷涼な気候と、溶岩に由来する土壌故に、稲作が困難であった。そのため、山麓地域では「水掛麦」(厳寒期に畑の畝間に水を流すことで、麦の凍結を防ぐ栽培方法)による麦作が行なわれ、伝統的に、小麦を中心とした粉食料理が日常食とされていた。江戸末期から昭和にかけての基幹産業は、女性が携わる養蚕や機織であった。一方、耕作地に恵まれない土地柄だけに、男性は他所の土地に行商に出て、生活の糧を得ていた。男性達は、養蚕や機織で忙しい女性に代わって炊事を受持ち、機織りを止めずに食べられる昼食としてうどんを打った。さらに、ハレの飽食感を演出する必要性があり、男性の強い力で地粉をこねて、コシ、硬さ、太さに特徴を持つ、吉田のうどんが育まれたと言われている。
出雲そばの日。
島根県出雲市の出雲そば商組合と、島根県松江市の松江そば組合が共同で結成した「出雲そばの日記念日登録実行委員会」が制定。日付は、信濃国松本藩主であった松平直政が、出雲国松江藩への国替えを、徳川幕府第3代将軍の徳川家光から命じられた、1638(寛永15)年2月11日(旧暦)に因んで。この国替えの際、松平直政が松本からそば職人を伴なって来たことから、出雲松江地方にそばが伝わったとされ、今の出雲そばに繋がっている。出雲そばの歴史、食べ方、美味しさを全国にPRして、出雲そばの振興を図ると共に、出雲地方への交流人口の増加と、各店舗へのさらなる集客が目的。古くから親しまれている郷土料理の出雲そばは、2022(令和4)年3月に文化庁(文化に関する施策の推進、国際文化交流の振興、博物館による社会教育の振興、宗教に関する行政事務を所管する、文部科学省の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織])より「伝統の100年フード」に認定された。出雲そばの製法の特色として、蕎麦粉を作る時に蕎麦の実を皮ごと石臼で挽くため、蕎麦の色は濃く黒く見え、香りが強いことが挙げられる。食べ方にも特色があり、「もり」や「かけ」といった定番の食べ方よりも、丸い漆器を重ねる「割子そば」や「釜揚げそば」といった、独特の食べ方が広まっている。また、もみじおろしや辛味大根の大根おろしを薬味とすることも特徴である。
初午いなりの日。
東京都港区南青山に事務局を置く一般社団法人全日本いなり寿司協会が、2017(平成29)年に制定。初午は、運気が高まる日とされ、稲荷神社の使い、キツネの好物とされる油揚げを使った「いなり寿司」を食べると福を招くという。このいなり寿司(稲荷寿司)のことを「初午いなり」と呼び、それを知ってもらうことが目的。初午は毎年、変動することから、日付は、初午となる日に近い、国民の祝日の「建国記念の日」と同じ2月11日とした。初午は、2月の最初の午の日であり、旧暦で1年の内、最初の(つまり1月の)午の日も初午には違いないが、通常は、稲荷社の祭の日である2月の初午をいう。初午祭に初午詣(福詣)する参詣者が訪れ、これを雑節1つとすることがある。旧暦で行なうこともあり、その場合は、新暦の3月となることもある。稲荷社の本社である、京都市伏見区深草に所在する伏見稲荷神社の主神(主として祀られる祭神)で、穀物の神である宇迦御霊神が伊奈利山(京都盆地の東側に所在する東山連峰の南端、深草山の北にある稲荷山)へ降りた日が、和銅4年2月11日(711年3月4日。2月9日[3月2日]説もある)であったとされ、この日が初午であったことから、全国で稲荷社を祀っている。また、この日を、蚕や牛、馬の祭日とする風習もある。江戸時代には、この日に子どもが寺子屋(寺院で手習師匠が、町人の子弟に読み書き・計算等を教えた学問施設)へ入門した。本来は、旧暦2月の最初の午の日であるが、現在では、新暦2月の最初の午の日とされている。そのため、元々は春先の行事であったものが、冬の一番寒い時期の行事となってしまった。また、今では2月最初の午の日とされるが、古来は、立春以降の最初の午の日に行なわれていた。初午は、その年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結び付いたものである。4月初めの巳の日の菜の花祭りの夜と、初午のいずれかに雨が降らないと火に祟られる、初午の早い年は火事が多い等の俗信もあり、初午の日に、消防団員が各家庭を回って火の用心を呼掛け、火の用心のお札を配る習慣がある地方もある他、「初午いなり」といい、稲荷寿司を供える風習もある。いなり寿司(稲荷寿司)とは、甘辛く煮た油揚げの中に、酢飯を詰めた寿司の一種で、「稲荷」「寿司」のどちらか又は両方を平仮名で表記されることもあり、「お稲荷さん」「お稲荷」「いなり」等とも呼ばれる。名古屋が発祥の地の1つと考えられている他、円福山豊川閣妙厳寺(日本三大稲荷の1つとされる、豊川稲荷の通称で知られる寺院で、神社ではないものの、境内の参道には鳥居が立っている)がある愛知県豊川市が稲荷寿司の発祥地を謳う等、各地で特徴的な稲荷寿司が名物として取上げられている。袋状に開いた油揚げを、甘く、或いは甘辛く煮付け、寿司飯をそのまま、或いはニンジンやシイタケ等の具材を煮込んで混ぜた寿司飯を詰める、一種の印籠寿司である。稲荷神社の稲荷神は、商売繁盛と共に豊作の神様であり、米を使用した俵型の稲荷寿司に繋がる。一般的には、米俵を模した俵型(円筒に近い直方体)に仕上げる。味がしっかり油揚げに染み込むようにひっくり返して煮込み、ひっくり返したまま中身を詰めるもの、油揚げの表面を炙ったもの、三角油揚げを用いて三角形に仕上げるもの等、、地域によって異なる。いわゆる高級な寿司屋ではあまり見られないが、回転寿司を含む庶民的な店や、テイクアウト専門の寿司屋では、人気の安価な食べ物である。商店街等にある総菜店やスーパーマーケット、コンビニエンスストアでも定番商品となっており、家庭で作る等、行楽の弁当等にも良く登場する。東京では、伝統的には揚げを色濃く煮染めて使用するが、色の薄い揚げの場合もある。西日本では、酢飯のみで作ることは稀で、通常は椎茸や人参、ゴマ等の具材が入る(五目稲荷ともいう)。東日本の俵型に対し、油揚げを対角線に切った三角形に作ることも特徴である。地域によっては「揚寿司(あげずし)」、また、年配者には「しのだ寿司」(「信太鮨」「志乃田寿司」「信田寿司」)と呼ばれることもある。稲荷寿司と巻き寿司を組合わせた折詰めは、助六寿司と呼ばれる。江戸の古典歌舞伎を代表する演目の1つとされる、歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」の主人公、助六の愛人の名が揚巻であることから、油揚げと巻き寿司の洒落から名付けられている。