1月30日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1165年 - 現在の京都市東山区にある仏堂、蓮華王院本堂(三十三間堂)が落慶(神社・寺院等の建物の落成を慶び祝うこと)する。京都市東山区にある天台宗の寺院、南叡山妙法院の境外仏堂であり、妙法院が所有・管理している蓮華王院は、創建当時、五重塔等も建つ本格的な寺院であったが、1249年の火災で焼失する。1266年に本堂のみが再建され、現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も、極彩色で飾られていたという。元は、後白河上皇(第77代天皇、後白河天皇が譲位した時の称号)が自身の離宮内に創建した仏堂である。この地には、元々、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿(天台宗の寺院、法住寺中心としたもので、法住寺は、漫画『サザエさん』の作者として知られる漫画家、長谷川町子の菩提寺でもあり、正門[法住寺門]の提灯には、「サザエさん長谷川町子菩提寺」の札が掲げられている)が所在しており、本尊は千手観音(千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表わしているという)で、蓮華王院という名は、千手観音の別称、蓮華王に由来する。「三十三間堂」の名称は、間面記法(古建築の平面、規模、形式を表現する方法)による表記「三十三間四面」に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、仏教の潮流の1つである大乗仏教の重要な経典の1つ『法華経』等に、観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となる。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということに由来する。強弓を強く射なければ、到底軒下を射通すことができない。それ故、弓術家の名誉となっている。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行なわれる。 
1649年 - 絶対王政(王が絶対的な権力を行使する政治の形態)を強行し、議会と対立したイングランド国王チャールズ1世が、清教徒革命(イングランドの市民革命)で処刑される。 
1661年 - 約2年前に亡くなったイングランド共和国初代護国卿(王権に匹敵する最高統治権を与えられた官職)オリバー・クロムウェルが、国王チャールズ1世を処刑した反逆者として墓を暴かれ、遺体が斬首される。 
1810年 - 常陸国水戸藩第2代藩主徳川光圀が着手した歴史書『大日本史』が、江戸幕府に献上される。『大日本史』は、明治時代に完成した紀伝体(人物を中心にして、その人物の事績を時系列に書いていく方式)の史書で、その編纂事業は、徳川光圀死後も水戸藩の事業として約250年継続し、初代天皇、神武天皇から第100代天皇、後小松天皇まで(厳密には、南北朝が統一された1392年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱っている。『大日本史』の名は、徳川光圀死後の1715年、水戸藩第2代藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。本紀・列伝は、徳川光圀存命中にはほぼ完成しており、幕末以後何度か刊行されている。また、校訂を加えたものが、数次に亘って江戸幕府に献上されている。
1835年 - イギリス出身の塗装工で、失業者であったリチャード・ローレンスが、アメリカ合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの暗殺未遂事件を起こす。初のアメリカ合衆国大統領暗殺未遂事件。 
1856年 - 日蘭和親条約が締結される。日蘭和親条約は、江戸幕府とオランダが締結した和親条約で、1854年に日米和親条約が締結されたことを受けて、江戸幕府はオランダとも新たな関係を規定することになる。「鎖国」体制においては、朝鮮王朝、及び琉球王国との関係は「通信」とされ、貿易が行なわれたのみならず、国交があったが、オランダと中国との関係は「通商」とされ、貿易は行なわれたものの、国交はない状態となっている。1641年にオランダ商館が平戸(長崎県北西部の平戸島と、その周辺区域)から、現在の長崎市の出島へ移されて以降、オランダ人の行動範囲は出島に限定される。この条約の締結の結果として、オランダとの関係は「通商」から「通信」となり、両国間の国交が結ばれることとなり、また、オランダ人の長崎市街への出入りが認められるようになる。
1862年 - アメリカ合衆国海軍初の装甲艦(鉄、又は鋼の装甲を施した軍艦)『モニター』が進水する。 『モニター』が建造される以前の軍艦は、殆どが木造船で、『モニター』は装甲艦同士で行なわれた初の海戦、1862年3月9日のハンプトン・ローズ海戦(アメリカ南北戦争[奴隷制存続を主張するアメリカ合衆国南部諸州の内、11州がアメリカ合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、アメリカ合衆国に留まった北部23州との間で戦争となったもの]中に生起した海戦)で、アメリカ連合国海軍の装甲艦『バージニア』と交戦したことで有名となる。アメリカ合衆国海軍の革新的な設計の装甲艦『モニター』に対し、『バージニア』は、アメリカ合衆国軍艦『メリマック』の焼けた船体を改造したものであったが、この戦いの後、船と海戦の様相は劇的に変化する。敵の砲撃に耐える能力において、装甲艦が木造艦より優れていることが明白に証明され、世界中の国家が、自国の艦隊を先を争って鉄製に変えた契機となった訳である。そして、『モニター』は、その後建造されていくモニター艦(比較的小型で低乾舷[船舶において、水面より上に出ている部分、乾舷が低いもの]の船体に、相対的に大口径の主砲を砲塔式に搭載した艦)の基礎となる。
1877年 - 明治政府の重職を辞して下野していた、西郷隆盛が鹿児島で主宰していた私学校の生徒達が、明治政府に反発し、政府の武器を奪取する(西南戦争の発端)。
1877年 - 1870年に樹立されたフランスの共和政体、フランス第三共和政のフランス共和国第3代大統領パトリス・ド・マクマオンが、政体を王制にするか共和制にするかで深刻な対立が続く中、10月の議会選挙で共和制派が台頭して、以前にも増して軋轢が増えたことから、7年の任期を待たず辞職する。 
1889年 - マイヤーリング事件。オーストリア皇太子ルドルフと愛人マリー・フォン・ヴェッツェラが、現在のオーストリア北東部にあるマイヤーリングの狩猟館のベッドの上で、拳銃で撃たれ、死んでいることが発見される。 
1902年 - 第一次世界大戦の終了後暫くまでの間、日本の外交政策の基盤となった、日本とイギリスとの間の軍事同盟、日英同盟が、イギリスの首都ロンドンで締結される。 
1902年 - ウラジオストク - ハバロフスクの開通により、ロシア国内南部を東西に横断する鉄道で、全長9,297kmと、世界一長い鉄道であるシベリア鉄道がほぼ全通する。なお、全線開通は、1916年10月5日となる。ロシアの国有企業、ロシア鉄道の優等列車『ロシア号』は、国内列車としては世界最長距離の列車で、所要時間は約146時間(6日約2時間)に及ぶ。その途中で、『ロシア号』はシベリア鉄道を経由してユーラシア大陸を横断し、7つのタイムゾーン(ある国、又は広い地域が共通で使う地方時、標準時を使う地域全体)を通過する。