1月27日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

船穂スイートピー記念日。 
品質の良さから花束やフラワーアレンジメントに多く使われ、全国有数の出荷量を誇る、岡山県倉敷市船穂町のスイートピーをもっと広くアピールしようと、岡山県倉敷市に所在する、農業者(農民、又は農業を営む法人)によって組織された協同組合である全国農業協同組合中央会(JA全中)が組織する農協グループ(総合農協)、岡山西農業協同組合(JA岡山西)の「JA岡山西船穂町花き部会」が制定。日付は、品質・量共に安定して、本格的なシーズンを迎える1月と、1月27日の「1」と「27」で、「良い船穂(い[1]いふ[2]な[7]お)」と読む語呂合わせから。なお、2020(令和2)年4月1日、岡山西農業協同組合(JA岡山西)を含む岡山県内の8農業協同組合(農協)が合併し、岡山県倉敷市玉島八島に本店を置く農業協同組合(農協)、晴れの国岡山農業協同組合(JA晴れの国岡山)が発足した。マメ科レンリソウ属の植物であるスイートピーは、和名では、ジャコウエンドウ(麝香豌豆)やカオリエンドウ(香豌豆)、ジャコウレンリソウ(麝香連理草)等と呼ばれている。日本では主に観賞用として栽培されるが、有毒植物でもあり、多食すればヒトの場合、神経性ラチリスムと呼ばれる痙性麻痺を引起こし、歩行等に影響が出るという。17世紀末に発見されて以降、イギリスで園芸植物として発展した。本格的に改良、交配が進むのは、19世紀後半に至ってからであった。スイートピーを題材とした歌に『赤いスイートピー』があり、スイートピーの日本国内での認知度を高めた。1982(昭和57)年1月にリリースされた、1980年代を代表するアイドル歌手で、「日本の雑誌に最も頻繁に登場した著名人」とされている松田聖子の8枚目のシングル『赤いスイートピー』は、松田聖子の代表曲となり、世代を超えた名曲ともなっている。この歌について、「この歌が世に出た1982[昭和57]年1月当時に、赤色の花をつけるスイートピーは存在していなかった」と語られることがあり、記事もあるが、これは「真紅のスイートピーは21世紀初頭に品種改良で生み出されるまで存在していなかった」ということであり、実際には、「赤色系の色合いの花をつけるスイートピー」自体は、1800(寛政12)年に既に存在している。なお、全国の花の生産者、生花店、園芸店等で構成する任意団体、「日本スイートピーの会」が2017(平成29)年に制定した「スイートピーの日」は、この時期が1年でいちばん香りが豊かできれいに輝くことと、花弁が左右対称で3種類の花びら(旗弁、翼弁、舟弁)からなり、それぞれ1枚、2枚、1枚あることから、{121}の1月21日とされている。
實朝忌(実朝忌)。
鎌倉幕府第3代将軍で、歌人でもある源實朝(源実朝)の、1219(承久元)年の忌日(旧暦)。この日には、源実朝の墓と伝わる五輪塔がある鎌倉の寿福寺(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院)で、歌人達による追悼会が催される。鎌倉幕府を開いた源頼朝の四男(源頼朝の子としては第6子で四男、源頼朝の正室である北条政子の子としては第4子で次男)として生まれ、源頼朝の嫡男で、兄の源頼家が追放されると、12歳で征夷大将軍に就く。政治は当初、将軍を助け政務を統轄した、執権を務める北条氏等が主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く、武士として初めて右大臣(左大臣がない場合の朝廷での事実上の最高位)に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮(現在の神奈川県鎌倉市に所在)で、源頼家の子で、僧侶の公暁に暗殺された。これにより、鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。公暁は、源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に、鎌倉幕府の有力御家人である三浦義村に討取られた。なお、公暁は、源実朝の猶子(兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度)であったため、義理の父親を殺害したことになる。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集(天皇や上皇の命により編纂された歌集)に入集し、公家で日本の代表的な歌人とされる、藤原定家の撰による『小倉百人一首』にも選ばれている。家集(個人、又は一家の和歌を纏めて収めた歌集)として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では、鎌倉右大臣とされている。 
雨情忌。
詩人で童謡・民謡作詞家、野口雨情の1945(昭和20)年の忌日。野口雨情は、多くの名作を残し、詩人・童謡作家・歌人の北原白秋、詩人・作詞家・仏文学者の西條八十と共に、童謡界の三大詩人と謳われた。代表作は童謡『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』等、多数ある。他に、歌曲『波浮の港』『船頭小唄』等。茨城県多賀郡磯原町(現在の茨城県北茨城市)に生まれた野口雨情は、上京した後に詩作を始める。さらに北海道に渡って新聞記者となり、北海道小樽で創刊されたばかりの新聞『小樽日報』に勤めていた時には、同僚に、今なお日本で最も親しまれている歌人・詩人の1人とされる石川啄木がおり、交友を結んだ。野口雨情は北海道で6つの新聞社を転々とした後、1909(明治42)年に一旦は帰郷するも、すぐまた上京してしまう。1919(大正8)年以降、資産家の斎藤佐次郎により創刊された児童雑誌『金の船』より童謡を次々と発表。童謡作曲家・民謡研究家の藤井清水や、多くの傑作と言われる童謡・流行歌・新民謡等を残した作曲家の中山晋平、童謡作曲家の本居長世と組んで多くの名作を残した。他方、童謡と共に盛んとなった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935(昭和10)年には日本民謡協会を再興し、理事長に就任している。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作した。また、同じ1935(昭和10)年の1月、仏教音楽協会も設立され、野口雨情は評議員に推薦される。仏教音楽の研究に加え、新仏教音楽の創作や発表、普及にも力を尽くした。
モーツァルト生誕記念日。
1756(宝暦6)年1月27日、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがオーストリア中北部のザルツブルクに生まれた。主に、現在のオーストリアを活動拠点としたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、古典派を代表する作曲家であり、オーストリアの作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと並んで、ウィーン古典派三大巨匠の1人である。なお、古典派音楽とは、クラシック音楽の歴史において、1730年代から1810年代まで続いた時期の芸術音楽の総称である。古典派音楽の始まりは、バロック音楽(速度や強弱、音色等に対比があり、劇的な感情の表出を特徴とした音楽)の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽(人間の感情や個性を重視している音楽)の勃興と並行している。従って、古典派音楽の盛期は、バロック音楽とロマン派音楽の間に位置している。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作品総数は、断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルに亘り、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲等)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタ等)のどちらにも多数の作品が残されている。作品を識別するには、オーストリアの音楽学者・作曲家・植物学者・鉱物学者・教育者、ルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した、作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。幼い頃から非凡な才能を示し、「神童」と呼ばれていたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの肖像画や銅像は、いずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており、子どもの姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。有力なのは、「21歳の時に罹った天然痘(非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる感染症)の痕が幾つもあり、丸鼻で近眼」というものである。体躯に関しても「小男である」や「肥満が著しかった」という説がある。左耳は奇形で、外側の渦巻きと耳たぶが欠けていた。この形の耳は、「モーツァルト耳」と呼ばれている。