1月18日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0350年 - ローマ皇帝コンスタンス1世の配下の将軍であったマグネンティウス(フラウィウス・マグヌス・マグネンティウス)が、ローマ皇帝コンスタンス1世を殺害し、自ら帝位に就く。しかし、マグネンティウス(フラウィウス・マグヌス・マグネンティウス)は、コンスタンス1世の共同皇帝コンスタンティウス2世と対立し、351年にコンスタンティウス軍と戦って敗れ、イタリアへ敗走した後、353年には、現在のフランス南東部に位置するリヨンで自殺する。 
1020年 - 平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人、藤原頼通が関白に就任する。藤原道長の長男、藤原頼通は、関白を約50年の長きに亘って務め、父藤原道長と共に、藤原氏の全盛時代を築いている。
1486年 - ランカスター家のイングランド王ヘンリー7世がヨーク家のエリザベスと結婚し、薔薇戦争で対立していたランカスター家とヨーク家を統一する。 
1586年 - 天正地震(天正の大地震)。被害地域の記録が、日本海側の若狭湾から太平洋側の三河湾に及ぶ、歴史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はない。ただ、この地震は、複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。飛騨国の帰雲城(現在の岐阜県大野郡白川村に所在した城で、城主ら一族は全て死に絶えてしまう)が埋没、美濃国の大垣城(現在の岐阜県大垣市に所在した城)が全壊焼失、織田信長の次男、織田信雄の居城であった尾張国の長島城(現在の三重県桑名市長島町に所在した城)は天守が倒壊、現在の京都市南区九条町に所在する東寺の講堂が破損する等、日本中部で被害は甚大なものとなる。
1615年 - 大坂冬の陣(徳川家康が豊臣氏を大坂城[現在の大阪市中央区大阪城に所在した城]に攻めた戦い)で、一旦の和議が成立する。豊臣家は、旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし、戦争準備に着手する。兵糧の買入れを行なうと共に、大坂にあった、徳川家を始めとする諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収する。豊臣秀吉の遺した莫大な金銀を用い、浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ、豊臣恩顧大名の筆頭格の1人、福島正則が、蔵屋敷の兵糧を接収することを黙認するに止まっている。集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万となるが、江戸幕府方の動員した兵力は約20万に達する。豊臣方が籠城した大坂城を、徳川方は完全に包囲するも、徳川方は、豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、真冬の陣でもあったため、豊臣方との和平交渉を開始し、豊臣方も兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓、陣屋等に撃込まれた砲弾等で、将兵に疲れが溜まったことから、和議の成立に至る。和平成立後、徳川方は兵を引くが、再戦準備を行ない、豊臣方に浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方も、武具の用意に着手し、埋められた堀を掘返す等、対決姿勢を露わとする。大坂夏の陣では、豊臣方の戦力が約7万8,000に減少したことから、豊臣方は大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦で、徳川方との決戦を挑むことが決定される。迎撃態勢を構築した豊臣方であるが、兵力に勝る徳川方は、大坂周辺各地で豊臣方の軍勢を撃破する。その中で、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて、迎撃体制を布いた豊臣方の軍勢、真田信繁(真田幸村)、毛利勝永、木村重成らは、徳川方の大軍を相手に激戦を繰広げ、真田信繁(真田幸村)勢は、徳川方の主将、徳川家康の本陣に狙いを定め、突撃を繰返す。徳川家康本陣は混乱状態に陥り、徳川家康自身も切腹を口走ったとされるが、数で勝る徳川方に押返され、豊臣方は総崩れし、壊滅するに至る。本丸、掘返した堀以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術は最早なく、大坂城は灰燼に帰し、落城する。戦後、大坂城には摂津国大坂藩10万石の藩主として、徳川家康の外孫に当たる松平忠明が移り、街の復興に当たる。復興が一段落すると、松平忠明は大和国郡山藩に加増移封され、以降大坂は、将軍家直轄となる。江戸幕府は、大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の1つとしている。 
1654年 - 東ヨーロッパに位置するウクライナで、ポーランドと戦うためのペラヤースラウ会議が行なわれ、この結果、ウクライナはロシアの保護下に入る。 
1701年 - フリードリヒ1世が初代「プロイセンの王」(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけての地域を領土とした地域の君主の称号)に即位。 
1778年 - イギリスの海軍軍人で海洋探検家のジェームズ・クックが、ヨーロッパ人で初めて、太平洋の中央部の洋上に位置するハワイ諸島に到達。 
1871年 - フランスの首都パリ近郊にあるヴェルサイユ宮殿で、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立する。その後、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家、ドイツ帝国は、ヨーロッパの覇権を目指して邁進することになる。フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いた、フランスとプロイセン王国の間で行なわれた戦争、普仏戦争で、野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用したプロイセン王国が圧勝し、フランス第二帝政皇帝ナポレオン3世が降伏し、フランスは東部のドイツ系住民居住地域であるアルザス=ロレーヌ地方3県を失い(1919年まで、ドイツ帝国直轄領エルザス=ロートリンゲン州)、50億フランの賠償金の支払いを義務付けられる。フランスの外交的孤立化が進み、フランスのドイツへの怨恨は大きくなり、第一次世界大戦の遠因ともなっている。ドイツ帝国の成立により、ナポレオン戦争(1803年5月18日から1815年11月20日にかけて、ヨーロッパ大陸全域を舞台にして断続的に発生した各戦争の総称で、いずれの戦争においてもフランス皇帝ナポレオン1世がその中心にいたことから、この様に名付けられた)後のウィーン会議(フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として開催された)で決められた「パワー・バランス」は終わりを告げる。ドイツは、世界最強の常備陸軍を備えたヨーロッパ大陸の主要強国として急速に台頭し、脅威と見做され、敵視されるようになる。当時の世界では、大英帝国(イギリス)が世界最強の地位を保っていたが、19世紀後半の大英帝国(イギリス)は、ヨーロッパ大陸の問題にはあまり関わらなかったため、ドイツはヨーロッパ大陸において大きな影響力をふるうことができ、その影響力がヨーロッパ大陸から海外へと拡大し、大英帝国(イギリス)の国益に抵触し始めたことも、第一次世界大戦の一因となっている。  
1911年 - 第122代天皇、明治天皇の暗殺を計画したとして、大逆罪(天皇、皇后、皇太子等に危害を加えることをその内容とした犯罪類型)の容疑で多くの社会主義者、無政府主義者が逮捕・処刑された事件、幸徳事件(大逆事件)で、ジャーナリスト・思想家の幸徳秋水ら24名に死刑、2名に有期刑の判決が下される。 
1915年 - 日本が対華21ヶ条要求を発する。対華21ヶ条要求は、日本が山東省(現在の中国東部に所在)の利権等、ドイツ権益の継承を中華民国政府に要求したものである。 
1919年 - パリ講和会議が始まる。パリ講和会議は、第一次世界大戦における連合国(フランス、イギリス、ロシア、イタリア、日本、アメリカ、ルーマニア等)が、中央同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国[現在のトルコ共和国の前身]、ブルガリア)の講和条件等について討議した会議で、世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた、新たな国際体制構築についても討議されている。最重要問題については、「五大国」(イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリア)の全権で構成された十人委員会で行なわれることになる。なお、「五大国」の中で、フランスから船で約30日掛かる遠距離となる日本のみが、現職の首脳ではなく元首相を派遣している。この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ、第一次世界大戦は終戦することになる。また、講和会議の結果、成立した国際連盟や国際労働機関の設立、国際河川制度の確立等の国際協力の動きは、現代にも大きな影響を与えている。