1月13日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2土曜日 旧暦 12月 3日、友引(丙子)、月齢  1.6  
グレゴリオ暦で年始から13日目、年末まであと353日。
誕生花 カトレア・水仙(白)・喇叭水仙。

咸臨丸出航記念日。
1860(安政7)年1月13日(旧暦)、江戸幕府の軍艦『咸臨丸』が、武蔵国荏原郡品川(現在の東京都品川区付近)沖を出航したことに因む。江戸幕府は、1858(安政5)年に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約、日米修好通商条約の批准(既に全権代表によって署名がなされた、条約に拘束されることを国家が最終的に決定する手続)書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。外国奉行、及び神奈川奉行を兼帯していた新見豊前守正興が正使、同じく外国奉行と神奈川奉行を兼帯していた村垣淡路守範正が副使、監察官の役割をもつ目付には、外国との積極的通商を主張しており、詰警備役として外国人と交渉経験がある小栗上野介忠順が選ばれ、アメリカ海軍の外輪フリゲート艦『ポーハタン号』で太平洋を横断し渡米した。アメリカでの批准書交換を提案したのは、列強との折衝に尽力し、外国奉行等を歴任し、小笠原諸島父島が日本領であることを確認させた水野忠徳、及び、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行等を歴任し、洋式軍隊の整備に尽力した小栗上野介忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された、日米修好通商条約の交渉を行なった岩瀬忠震であったが、安政の大獄で左遷、さらに蟄居をさせられたため、使節には加われなかった。外国奉行としては、村垣淡路守範正が先任であったが、村垣淡路守範正は500石、対して新見豊前守正興は2,000石であったため、新見豊前守正興が正使に、村垣淡路守範正が副使となった。そして、目付には小栗上野介忠順が選ばれている。本来、目付は不正が無いか等を監察するのが任務であるが、非公式ではあるものの、小栗上野介忠順には、通貨の交換比率の交渉という役目があった。これら3名を正規の代表とする使節団77名は、『ポーハタン号』で太平洋を横断し渡米することになる。なお、「目付とはスパイのことで、日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか」という嫌疑を受けた。その際に、「目付とは、古代ローマの高位の政務官職の1つ、監察官(Censor)である」と主張して切抜けたという。この時、『ポーハタン号』の事故等、万が一に備え、軍艦奉行水野忠徳の建議で、正使一行とは別に、護衛を名目に『咸臨丸』を派遣することになり、軍艦奉行並であった木村摂津守喜毅(木村芥舟)を軍艦奉行に昇進させ、『咸臨丸』の司令官を命じた。木村摂津守喜毅は、乗組士官の多くを軍艦操練所(江戸幕府が幕末に、海軍士官の養成のために設置した教育機関)教授の勝安房守義邦(勝安芳、勝海舟)を始めとする長崎海軍伝習所(江戸幕府が海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関)出身者で固めると共に、通訳にアメリカの事情に通じた中濱萬次郎(ジョン万次郎)を選んだ。また、豊前国中津藩藩士の福澤諭吉が、木村摂津守喜毅の従者として乗船している。木村摂津守喜毅は、日本人乗組員の航海技術では太平洋横断に不安ありと考え、技術アドバイザーとして、アメリカ海軍の測量船『フェニモア・クーパー号』の艦長、アメリカ海軍大尉ジョン・ブルックを始めとするアメリカ海軍軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせた。ジョン・ブルックは、大西洋を通る電信用の海底ケーブルである大西洋横断海底ケーブルの敷設に多大な功績があり、また、著名な海軍兵器発明者でもあった。『咸臨丸』が太平洋を横断した際には、技術アドバイザーとして搭乗したが、実質的には、ジョン・ブルックが艦の指揮をとった。使節団一行は品川沖で『ポーハタン号』に乗船、横浜に4日停泊した後、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州サンフランシスコに向け出港した。途中激しい嵐に遭遇し、石炭を使い過ぎたため、補給のために太平洋中央部の洋上に位置するハワイ諸島のホノルルに寄港した。ハワイ滞在中に一行は、ハワイ王国国王カメハメハ4世に拝謁している。日本人初の正式な太平洋横断航海であったが、『咸臨丸』も嵐に遭遇し、中濱萬次郎以外の船員は大半が船酔いに悩まされ、技術アドバイザーとして乗船していたアメリカ海軍大尉のジョン・ブルック他、アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった。『ポーハタン号』の到着により、『咸臨丸』の任務は完了したが、損傷が酷く修理の必要があった。この修理のためサンフランシスコに留まる間、『咸臨丸』の乗員らは、現地の人々との交流も行なっている。福澤諭吉は写真館に出掛け、アメリカ人の少女と一緒に写真に写っている。また、福澤諭吉と中濱萬次郎は、アメリカの教育者で辞書編纂者、ノア・ウェブスターの英中辞典を買い求めているが、これは、英和辞典を作成するためのものであった。『咸臨丸』は、アメリカ合衆国の首都ワシントンへ向う正使一行と別れ、1860(安政7)年旧暦閏3月19日にサンフランシスコを出発、ホノルルを経て、旧暦5月5日に、江戸湾(近世、概ね江戸後期の東京湾を指す明治時代以降の造語)の入り口に位置することから、湾に出入りする船が必ず寄港する要衝となっていた浦賀(現在の神奈川県横須賀市東部に所在)へと帰還した。なお、帰路もアメリカ人乗員を雇っての航海であった。1855(安政2)年にオランダ南西部のキンデルダイクで起工され、1857(安政4)年に完成して日本へ送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となった『咸臨丸』は、木造でバーク式(最後尾のマストに縦帆が、他のマストには横帆がある形式)の3本マストを備えた蒸気船(排水量620t、全長48.8m、全幅8.74m)である。旧名(オランダ語名)は『Japan(ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号とも)』。「咸臨」とは、古代中国の占筮(細い竹を使用する占い)の書『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である(スクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため、水線上に引上げる構造になっていた)。幕府の練習艦として用いられていたが、1866(慶応2)年には疲弊が激しくなり、故障が頻発していた蒸気機関を撤去して帆船となる。さらに、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた『咸臨丸』は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となった。1871(明治4)年、津軽海峡に面したサラキ岬(更木岬、現在の北海道上磯郡木古内町に所在)沖で暴風雨により遭難して沈没する。このサラキ岬には、『咸臨丸』終焉記念碑や『咸臨丸』のモニュメントが建てられている。『咸臨丸』の派米任務は、往復83日間、合計約10,775海里 (約19,955km)の大航海を、1人の死者もなく成功させたことで、幕府海軍に大きな自信を与えた。しかし、一方で、往路でのアメリカ人乗員による助力は過小評価され、航海・運用の技量不足という重大な問題点が見過ごされたことは、蝦夷共和国(1868[明治元]年から1869[明治2]年にかけての戊辰戦争末期に、蝦夷地[現在の北海道]を支配した江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称で、箱館政権とも称される)時代に艦隊主力を海難で喪失する遠因となる等、大きな禍根を残すこととなった。香川県坂出市の瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島の島、与島にかつて存在した観光型商業施設「瀬戸大橋京阪フィッシャーマンズ・ワーフ」に、『咸臨丸』と同名の観光船が就航していた。これは、地元の塩飽諸島から35名の水夫が『咸臨丸』に乗組んだ歴史的背景に因むものである(この内、与島からは4名)。瀬戸大橋(鉄道道路併用橋としては世界最長で、人工衛星写真でも確認できる、岡山県倉敷市と香川県坂出市とを結ぶ10の橋の総称)の開通した1988(昭和63)年から、2008(平成20)年まで就航していたが、採算性の悪化や各部の劣化によって運行停止となった。なお、1860(安政7)年、江戸幕府が派遣した使節団が、『咸臨丸』による太平洋横断航海を終えてアメリカ合衆国西部、カリフォルニア州サンフランシスコに到着した日は、同1860(安政7)年の旧暦2月26日で、その日は「咸臨丸の日」となっている。