1月12日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0475年 - バシリスクスが東ローマ皇帝(対立皇帝)に即位。対立皇帝とは、継承争いや政治上の対立のため、君臨している君主に対して、「自分こそが正当な君主」と宣言する皇帝のことである。当時の東ローマ帝国は、アナトリア半島(アジア大陸最西部で、西アジアの一部をなす地域であり、現在はトルコ共和国のアジア部分となり、小アジアとも呼ばれる)イサウリア地方(現在のトルコ共和国南部に所在)の少数民族イサウリア人の族長から、東ローマ帝国皇帝レオ2世の後見役となり、レオ2世が夭折したため、自ら即位したゼノンの治世下にあったが、反乱によってゼノンは、バシリスクスに帝位を追われる。しかし、ゼノンは約1年後、小アジアから軍勢を率いて首都コンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国西部に所在するイスタンブール)へ攻寄せ、帝位を奪回することに成功している。 
1528年 - スウェーデン王グスタフ1世が戴冠(国王が即位の後、公式に王冠・帝冠を聖職者等から受け、王位への就任を宣明する儀式を行なうこと)。 
1865年 - 功山寺挙兵。周防国/長門国長州藩藩士、高杉晋作ら長州正義派(尊皇攘夷を志向し、主に軍備軍制改革等の藩政改革を主張した藩内派閥)の長州藩諸隊(長州藩の攘夷方針に従い、兵力増強のために長州藩士のみならず、長州藩士以外の武士・庶民を兵員として編成された混成部隊)が功山寺(現在の山口県下関市長府に所在する曹洞宗の寺で、長府毛利家の菩提寺)で挙兵する。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を、元治の内乱と称する。過激な尊王攘夷論を背景に、幕府と鋭く対立していた長州藩は、1864年に勃発した禁門の変(前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、陸奥国会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰広げた事件)と下関戦争(長州藩が、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4ヶ国連合艦隊と戦った事件)での完敗と、幕府による第一次長州征討を経て、それまで失脚していた、長州正義派の藩制指導に反発する長州藩の重役、椋梨藤太に率いられた俗論派(保守佐幕派)に藩の実権が渡ったが、高杉晋作は功山寺で潜居していた三条実美ら五卿(八月十八日の政変で京都から追放された7名の公家の内の5名)に決起表明する。その後、争いが激化し、武力衝突にまで発展する。最終的に長州正義派が勝利し、俗論派(保守佐幕派)は排撃されている。一連の元治の内乱は、内戦に至ったとは言え、幕府との戦争は回避し、同時期に発生した、筑波山(関東地方東部、現在の茨城県つくば市北端にある山)で、常陸国水戸藩藩士で水戸藩過激派(尊皇攘夷派、天狗党)の首領格、藤田小四郎ら62名が蜂起した天狗党の乱(幕府軍によって鎮圧される)と比較しても、被害は少ないものとなる。
1872年 - ヨハンネス4世がエチオピア帝国(アフリカ東部に所在し、アフリカ最古の独立国となっている)皇帝に即位。 
1874年 - 征韓論(武力をもって朝鮮を開国しようとする主張)に端を発した政変、明治六年政変で下野し、後に「庶民派」の政治家として、国民から圧倒的な支持を受けた板垣退助らが、天賦人権論(全て人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利をもつという思想)に基づき、基本的人権を保護し、民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳う「愛国公党」を結成。「愛国公党」は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早過ぎた、という感は否めず、自然消滅を迎えることとなる。 
1875年 - 当時は3歳であった光緒帝が、中国清朝の皇帝に即位。光緒帝の伯母に当たり、中国清朝末期の権力者となっていた西太后が実権を掌握する。 
1895年 - イギリスで「ナショナル・トラスト」が発足。「ナショナル・トラスト(正式名称:歴史的名所や自然的景勝地のためのナショナル・トラスト)」は、歴史的建築物の保護を目的として設立されたボランティア団体で、現在も、イギリス政府の公的機関と協力して活動を進めている。 
1898年 - 伊藤博文が第7代内閣総理大臣に就任し、第3次伊藤内閣が発足。 
1911年 - 新潟県中頸城郡高田町(現在の新潟県上越市)にある陸軍第13師団歩兵第58連隊の青年将校に、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍から交換将校として来日していたテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が、高田連隊の営庭や高田の金谷山等で日本で初めてスキーを指導する。 
1914年 - 桜島大正大噴火。桜島で大噴火が始まる。その後約1ヶ月間に亘って頻繁に爆発が繰返され、多量の溶岩が流出して、桜島は大隅半島と陸続きになる。一連の噴火によって、死者58名、負傷者112名、焼失家屋2,268棟等の被害となる。
1914年 - 桜島地震。鹿児島県中央部、薩摩半島と桜島に挟まれた鹿児島湾を震源として火山性地震が発生。規模はマグニチュード(M)7.1、最大震度は震度6(烈震)。死者29名、負傷者111名、住宅の全壊120棟、半壊195棟等の被害となる。桜島地震は、桜島大正大噴火の最中に起きた地震であり、噴火開始から約8.5時間後に発生している。通常の火山性地震はマグニチュード(M)6以下であるが、この地震は例外的に規模が大きい。単純な火山性地震ではなく、マグマの侵入によって地殻の強度が低下し、元々蓄えられていたひずみが解放されたため、これだけの大地震になったとされる。
1915年 - アメリカ合衆国西部、コロラド州の北部、ロッキー山脈内に位置するロッキーマウンテン国立公園が設置される。ロッキーマウンテン国立公園は、壮大な山々の眺め、様々な野生動物、森林からツンドラまでの幅広い自然を楽しむことができる。 
1928年 - 大相撲実況ラジオ放送が開始される。放送時間内に終了させる為、仕切りに制限時間が設けられる。 
1930年 - 青森県八戸市で、第1回日本スケート選手権大会が開催される。
1935年 - 境町大火。鳥取県西伯郡境町(現在の鳥取県境港市)で、境町の海運・行政・商業の中心地として繁栄した臨港問屋街、栄町の飲食店から出火。折からの季節風に煽られ、町内全域に火災が広がってしまう。町内の約3分の1が焼失し、罹災者は約2,000名、焼失家屋数は419戸となる。
1937年 - 北海道積丹郡入舸村(現在の北海道積丹郡積丹町の北部)沖合で、石炭運搬船『愛国丸』(4,293トン)が暴風雪のため座礁し、沈没する。7名が救助されたが、5名が死亡し、28名が行方不明となる。
1945年 - 第二次世界大戦: ソビエト連邦軍が、ドイツ戦線を突破しポーランドに進撃する。 
1946年 - 第1回国際連合総会で、国際連合安全保障理事会(国連安保理)が成立。国際連合安全保障理事会(国連安保理)は、実質的に国際連合の中で最も大きな権限を持っており、事実上の最高意思決定機関である。国際連合主要機関の中で、法的に国際連合加盟国を拘束する権限がある数少ない機関でもある。その目的や権限は、国際連合憲章に定められていて、世界の平和と安全の維持に対して重大な責任を持つことが規定されている。 
1946年 - 中国に亡命していた日本共産党幹部の野坂参三が、約16年振りに帰国する。 
1950年 - アメリカ合衆国国務長官ディーン・アチソンが、アメリカの防衛ラインをフィリピン・沖縄・日本・アリューシャン列島とすることを表明(アチソンライン)。 
1954年 - アメリカ合衆国国務長官ジョン・フォスター・ダレスが、共産圏に対する大量報復戦略(ニュールック戦略)を表明。 
1962年 - 年頭に行なわれる宮中での「歌会始の儀」(和歌[短歌]を披露し合う「歌会」)が、初めてテレビ中継される。 
1964年 - ザンジバル革命。ザンジバル王国の王政が崩壊し、ザンジバル人民共和国(現在はタンザニア連合共和国[中央アフリカ東部の共和制国家]の一部)が樹立される。
1970年 - ビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)が終結。ビアフラ戦争は、アフリカ西部に位置するナイジェリアのイボ族を主体とした東部州が、ビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争である。ビアフラ共和国が包囲され、食料や物資の供給が遮断されたため、飢餓が国際的な問題となる。