1月9日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0672年 - 大友皇子(第39代天皇、弘文天皇)が天皇に即位(大友皇子即位説)。大友皇子即位説は、江戸時代から唱えられた学説で、日本史学で長く続く論争点である。671年、第38代天皇、天智天皇の死後に朝廷を主宰した大友皇子は、翌672年の壬申の乱(皇位継承を巡って皇族、豪族がそれぞれ2派に分れて争った、古代日本最大の内乱)で、大海人皇子(後の第40代天皇、天武天皇)に敗れて亡くなったが、この間に大友皇子が即位式を行なって即位し、天皇になったのか、それとも、行なわない内に亡くなったのかが争点である。大友皇子が実際に、天皇としての行為を行なっていたことに、異議を唱える者は少ない。大友皇子は、明治に入った1870年に諡号(死後に生前の徳行を称えて追贈する称号)を贈られ、弘文天皇と呼ばれたため、弘文天皇即位説とも呼ばれる。 
1127年 - 靖康の変: 金(現在の中国東北部発祥の、満州民族である女真族の王朝)の軍勢によって首府開封(現在の中国中東部に所在)が陥落。北宋(中国の王朝)が滅亡し、皇帝欽宗と太上皇(退位した存命の皇帝に送られる尊号)徽宗は金に連行される。 
1260年 - 皇室の系統が、持明院統(第89代天皇、後深草天皇から第100代天皇、後小松天皇に至る系統)と大覚寺統(第88代天皇、後嵯峨天皇の子である第90代天皇、亀山天皇の子孫)に分裂する。1333年、大覚寺統の傍流から出た第96代天皇、後醍醐天皇による建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統に統一されたかに見えたが、新政は約2年半にして崩壊する。吉野(現在の奈良県南部に所在)に逃れた後醍醐天皇に代えて、室町幕府初代将軍足利尊氏は、持明院統(北朝)の北朝第2代天皇、光明天皇を擁立する。後醍醐天皇は自己の正統性を主張し(南朝)、南北朝時代となる。後に、後小松天皇の代に、南朝の第99代天皇、後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位し、南北朝の合一が図られた明徳の和約によって、皇統は持明院統に統一されることとなる。しかし、その系統は、次の第101代天皇、称光天皇の代に断絶し、同じ持明院統に属する伏見宮から皇位継承者が迎えられ(伏見宮第3代貞成親王の第1王子彦仁王、後の第102代天皇、後花園天皇)、現在の皇室へと続いている。 
1431年 - フランス西部に位置するルーアンで、神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、後に捕虜となり、イングランドへ引渡されたジャンヌ・ダルクの異端審問(中世以降のカトリック教会において、正統信仰に反する教えを持つ[異端]という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム)裁判が始まる。 
1788年 - コネチカット植民地がアメリカ合衆国憲法に批准し、アメリカ合衆国5番目の州、コネチカット州となる。 
1806年 - イギリスの軍人史上最大の英雄とされ、世界三大提督の筆頭に挙げられることが多い、イギリス海軍提督ホレーショ・ネルソンの、イギリスにおいては、国王とイギリス王室の構成員以外では初となる国葬(国家に功労のあった者の死去に際し、国家の儀式として、国費をもって行なわれる葬儀)が行なわれる。イギリスでは、国葬を賜る対象となる者は、基本的に国王と英国王室の構成員に限られるが、例外として、国家に特段の功労があった者が国葬とされる。 
1822年 - ポトルガル王太子ペドロが、父王ジョアン6世の命に反し、ブラジル摂政としてブラジルに残ることを決める。 
1861年 - 南北戦争: ミシシッピ州がアメリカ合衆国を脱退。 
1863年 - 南北戦争: アーカンソー・ポストの戦いが始まる。 
1878年 - 統一イタリアの象徴として国民から敬愛された、イタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の長男、ウンベルト1世が、イタリア王国第2代国王に即位する。 
1879年 - 大蔵省(現在の財務省と、内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁]で、金融に関する制度の企画立案、金融機関の検査、監督、監視を担当する中央行政機関、金融庁の一部の前身)商務局を設置。1881年には内務省(地方行政・警察・土木・衛生等の国内行政を担っていた中央官庁で、現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身に当たる)駅逓局、山林局、勧農局、博物局と大蔵省商務局とが統合され、農商務省(1925年に農林省[現在の農林水産省の前身の1つ]と商工省[現在の経済産業省の前身の1つ]に分割)となる。 
1885年 - 日本と李氏朝鮮の間で、漢城条約が締結される。1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家、李氏朝鮮では、1880年代前半、中国清朝の庇護の下での開化政策という路線が採られたが、1882年には、李氏朝鮮の政権と日本に対する、大規模な朝鮮人兵士の反乱、壬午軍乱(壬午事変)が発生し、反乱軍鎮圧に成功した中国清朝により、李氏朝鮮は従属の度を強化される。1884年12月4日には、独立党(急進開化派)によるクーデター、甲申政変(甲申事変)が発生。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し、新政権を樹立したが、中国清朝軍の介入によって3日で失敗する。混乱の中、中国清朝軍兵や朝鮮人暴徒らは、日本人家屋の略奪や日本人集団への襲撃や暴行等を行なう。甲申政変(甲申事変)後、日本政府は朝鮮政府との間に漢城条約を、中国清朝との間に天津条約を締結する。クーデタの挫折によって、日本の朝鮮における立場は、以前よりむしろ一層悪化し、日本国内では、中国への派兵に向けた動きも出る。しかし、当時の日本の軍事力・経済力では、中国清朝との全面対決は回避すべき無理難題で、問題の解決は、全権大使として朝鮮に派遣された外務卿、井上馨の手に委ねられる。井上馨は、日本政府のクーデタへの関与を否定した上で、日朝両国関係の速やかな修復が何よりも肝要であるとして、双方の主張の食違いを全て棚上げにし、「朝鮮国内で日本人が害されたこと」、及び「日本公使館が焼失したこと」という明白な事実のみを対象に、交渉を妥結することを提案し、朝鮮側の同意を得る。中国清朝が日朝交渉を監視し、干渉しようとする場面もあったが、日朝両国は中国清朝の容喙(横から口出しをすること)を拒み、朝鮮国王の謝罪、日本人死傷者への補償金、日本公使館再建費用の負担等を定めた漢城条約が締結される。その後、政府最高の実力者である伊藤博文が特命全権大使となって、中国清朝との交渉が行なわれ、1885年4月18日には、日清両国が朝鮮から即時に撤退を開始し、4ヶ月以内に撤兵を完了すること等を内容とする、天津条約が締結されている。
1891年 - 内村鑑三不敬事件。第一高等中学校(日本の近代国家建設のため、必要な人材の育成を目的として創設された教育機関で、現在の東京大学教養学部、及び、千葉大学医学部、同薬学部の前身)講師の内村鑑三が、政府の教育方針を示す文書となっていた「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」への拝礼を、キリスト教徒の立場から拒否したため免職となる。 
1916年 - 第一次世界大戦: ガリポリの戦い。陸・海・空三軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては、世界初と言えるガリポリの戦いでは、連合軍は同盟国側のオスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)軍を軽んじ、短期決戦を想定して挑んだが、オスマン帝国軍の予想外の頑強な抵抗に遭い、多大な損害を出して撤退し、作戦は失敗に終わっている。最後となったイギリス軍部隊が1月9日、ヘレス岬(トルコのヨーロッパ側の東トラキア地方に位置するガリポリ半島の一部分)からの離脱を終了する。 
1918年 - 三俣の大雪崩: 新潟県南魚沼郡三俣村(現在の新潟県南魚沼郡湯沢町)で大規模な雪崩が発生。集落の裏山に積もっていた雪が、幅約400mに亘って大規模に崩れる。三俣村の集落は、群馬県から三国峠を越えて新潟県に至る、三国街道(現在の国道17号線)沿いの宿場町として発展してきたが、この雪崩によって、集落の民家約30棟が巻込まれ、死者は155名を数え、記録に残るものでは日本最悪の雪崩災害となる。