1月8日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0645年 - 中国唐朝の仏僧、玄奘三蔵がインド等を巡る、約16年間の旅から帰国する。 玄奘三蔵はこの後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗(万有は識、即ち、心の働きによるものとして、存在するものの相を究明する宗派)の開祖となり、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に、伝奇小説『西遊記』の基ともなる。玄奘三蔵自身は、明確に特定の宗派を立上げた訳ではないが、玄奘三蔵の教えた唯識思想ともたらした経典は、日中の仏教界に大きな影響を与える。法相宗の実質的な創始者は、玄奘三蔵に師事した、中国唐朝の仏教家で、多くの著書を持ち「百本の疏主、百本の論師」と称された、基(一般に窺基と呼ぶ)である。しかし、1269年に編纂された仏教史書『仏祖統紀』等は、玄奘三蔵とナーランダ大学(インド北東部に所在した、世界最古の大学の1つとされる北部インド仏教の最重要拠点)留学時の師である古代インドの僧、戒賢までを含めた3名を法相宗の宗祖としている。晩年に全国を遊行し、各地で土木事業を行なったことでも知られ、日本が中国唐朝に派遣した使節、遣唐使の一員として入唐した法相宗の僧、道昭は、玄奘三蔵に教えを受けている。道昭の弟子とされるのが、行基(僧侶を国家機関と朝廷が定め、仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り、畿内[近畿]を中心に、民衆や豪族等、階層を問わず広く仏法の教えを説き、人々より篤く崇敬された僧侶)である。玄奘三蔵自身の著作である『大唐西域記』により、玄奘三蔵の旅程の詳細を知ることができ、『大唐西域記』は、当時の中央アジア・インド社会の様相を伝える貴重な歴史資料となっている。玄奘三蔵の伝記は、仏教関係の様々な書物に記載されているが、玄奘三蔵が存命した中国唐朝時代のものとしては、『大慈恩寺三蔵法師伝』と『続高僧伝』とがある。虚実が入り乱れる一大伝奇小説『西遊記』は、『大唐西域記』や 『大慈恩寺三蔵法師伝』を踏まえた上で書かれており、玄奘三蔵は三蔵法師の名で登場している。三蔵法師とは、仏教の経蔵(釈迦の説いたとされる教えを纏めたもの)、律蔵(僧侶の規則・道徳・生活様相等を纏めたもの)、論蔵(経蔵や律蔵の注釈、解釈等を集めたもの)の三蔵に精通している僧侶に対して、皇帝から与えられる敬称であり、本来は玄奘三蔵に限ったものではない。しかし、今日では、特筆すべき功績を残した僧侶として、「三蔵法師」と言えば、玄奘三蔵のことを指すことが多くなっている。
1198年 - イタリア中部の裕福な伯爵家出身のインノケンティウス3世が、ローマ教皇(第176代)に選出される。インノケンティウス3世は、教皇権(ローマ教皇がもつ、カトリック教会を管理し、信徒を指導する最高司牧権)全盛期時代の教皇で、西ヨーロッパ諸国の政治に介入したことで有名である。 
1297年 - ジェノヴァ共和国(イタリア北西部にあった海洋国家)の都市貴族フランソワ・グリマルディらが、モナコ要塞(現在のフランス南東部、地中海沿岸地方コート・ダジュールのイタリアとの国境近くに所在)を占拠。現在、世界で2番目に小さい主権国家、モナコ公国が成立する。 
1499年 - フランス王ルイ12世が、ブルターニュ公国(現在のフランス北西部に所在)女公アンヌと再婚。 
1746年 - 第二次ジャコバイト蜂起: チャールズ・エドワード・ステュアート(チャールズ小僭王)が、スコットランド中部(イギリス北部)のスターリングを占領する。 
1790年 - アメリカ合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンが、初の一般教書演説を行なう。一般教書演説とは、アメリカ合衆国において、大統領が連邦議会両院の議員を対象に行なう演説で、国の現状についての大統領の見解を述べ、主要な政治課題を説明するもので、年頭教書ともいう。 
1806年 - イギリス領植民地として、ケープ植民地(現在のアフリカ大陸最南端に位置する南アフリカ共和国の南部、ケープタウンを中心に発展した植民地)が発足する。世界初の株式会社と言われ、アジアでの交易や植民に従事して一大海上帝国を築いたオランダ東インド会社が設立したケープ植民地は、イギリスに征服され、1910年に南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国の前身)が発足するまで、イギリス支配下に留め置かれている。
1815年 - 米英戦争: ニューオーリンズの戦い。 
1863年 - 南北戦争: 第2次スプリングフィールドの戦い。 
1872年 - 仙台県が宮城県に改称。 
1875年 - 文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)が、「小学学齢ヲ定ムル事(明治8年1月8日文部省布達第1号)」により、学齢(学校に就学して、教育を受けることが適切とされる年齢)を満6歳から満14歳までと定める。 
1877年 - インディアン部族(現在のアメリカ合衆国北部や中西部に先住する部族)の一支族、パヤブヤ族の戦士であるクレイジー・ホースが、アメリカ合衆国北西部、モンタナ州でアメリカ騎兵隊との最後の戦いに挑む。 
1889年 - アメリカの鉱山技師・統計学者、ハーマン・ホレリスが、タビュレーティングマシン(パンチカードを使用し、数千数万のデータから統計情報を迅速に集計する機械)の特許を取得。作表機とも呼ばれるタビュレーティングマシンは、1890年のアメリカ国勢調査のデータ処理で初めて使用され、その後、コンピュータが普及するまで、データ処理に広く使われている。 
1912年 - アフリカ民族会議(アフリカ大陸最南部に位置する南アフリカ共和国の政党)が成立する。 
1912年 - 国鉄(日本国有鉄道、現在のJR東日本[東日本旅客鉄道])上野駅に、日本初の発車ベルが設置される。発車ベルとは、鉄道駅で乗降中の利用者に、列車が発車することや、その他の合図を、ベル音によって伝えるためのシステムである。電鈴合図、電鈴とも言われる。車掌が、ホームに備付けのスイッチや携帯しているリモコンによって鳴らす。停止ボタンのあるものと、一定時間で自動的に止まるタイプとがある。国鉄を始めとして、電子音が普及する前は、目覚まし時計のように、ジリジリと音が鳴るベルを使っていた時期が長い。JRグループ等、一部ではこれをメロディにしている事業者もある。発車ベルにおいても、上りホーム用と下りホーム用とで音程等が違っていたり、事業者によっても、音色に違いが見られる。鉄道が日本で最初に開業した際には、笛や鐘を使って発車の合図に用いていたが、鉄道利用者数の増加に伴ない、多くの乗客に発車を周知させるには難点が出てきたことから、上野駅に発車ベルが設置され、この発車ベルで列車の発車を周知することになった訳である。 
1918年 - アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説の中で、第一次世界大戦和平と、戦後世界についてのアメリカの中心的主張とした「十四ヶ条の平和原則」を発表する。「十四ヶ条の平和原則」の内、第14条は、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約、ヴェルサイユ条約の第1章「国際連盟憲章」として条文に盛込まれ、国際連盟設立という形で結実する。しかし、殆どの内容は、それまで第一次世界大戦中にイギリスやフランス、イタリア、日本等、主要国が結んだ協定や条約を無効にする内容であったため、第一次世界大戦の後始末をするパリ講和会議では、イギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなる。 
1926年 - アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが、ヒジャーズ王国(アラビア半島に存在した国家で、現在のサウジアラビア王国の一部を構成していた)国王に即位。 
1926年 - バオ・ダイが、阮朝(東南アジアのインドシナ半島東部に位置するベトナムの王朝)最後の皇帝に即位。 
1927年 - 日本水平社が結成される。日本水平社は、京都で結成された日本の部落解放運動(近世初期以降、封建的身分制で最下層に位置付けられた人々を中心に形成され、現在もさまざまな差別を受けている地域、被差別部落の人々が受けている政治的、経済的、社会的、文化的差別を撤廃し、近代的な市民的権利を獲得すると共に、部落を完全解放するための運動)団体であるが、その運動は次第に衰微し、数年後には有名無実化して、1942年1月17日に解散する。