1月7日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

松下ろし、松あがり、松払い、松引き、松送り、松納め(続き)。
一説では、「そぎ」は、江戸幕府初代将軍、徳川家康が始めたもので、徳川家康の生涯唯一の敗北として知られる、武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行なわれた戦い、「三方ヶ原の戦い」(1573[元亀4]年1月25日)の後、対戦相手の武田信玄に対して、次は斬るぞ、という念を込めたことが始まりとされる。門松がある期間のことを松の内といい、伝統的には、元日から1月15日までを指したが、近年では1月7日までとすることも多い。松の内を1月7日までとする場合には、1月6日の夕方や、翌1月7日に片付ける場合が多い。門松を片付けることを、松下ろし、松あがり、松払い、松引き、松送り、松納め、等という。門松を飾った後の穴に、その松の梢を立てる風習もあり、鳥総松(とぶさまつ)や留守居松と呼ばれる。
つめ切りの日(七草爪の日、七種爪の日、菜爪、七日爪)。
新年になって初めて爪を切る日は、昔から「七草爪」といって、この日に決まっていた。草を浸したお湯に爪を浸けて柔らかくしてから切ると、邪気を払うことができ、その年1年間、風邪を引いたり病気になったりしないとされる。また、「七草爪」をやっておけば、1年中、日を選ばずに爪切りをすることができるという。1月7日の日に、風呂に入ってから爪を切る風習が残る地方もある。
千円札の日/千円札発行の日。
1950(昭和25)年1月7日に初めて、B号券(正式名は「日本銀行券B号1000円」)と呼ばれる聖徳太子(第31代天皇、用明天皇の第二皇子で、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った)の肖像画入り千円札が発行された。B号券は、旧式な印刷を前提にしていたため、大量生産に不向きであったこと、1961(昭和36)年から、各地で精巧な偽札が発見されたことから、1963(昭和38)年に同じサイズのC号券(肖像画は、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣伊藤博文)が登場した。額面1,000円の紙幣である千円紙幣は、千円券や千円札ともいう。甲号券と呼ばれる初代の千円紙幣は、1941(昭和16)年に製造が開始されたが、発行後数年間は日本銀行に死蔵されていた。第二次世界大戦終戦直後の1945(昭和20)年8月17日に、他の新紙幣の発行と共に流通が開始されたが、新円切替(新紙幣[新円]の発行と、それに伴なう、従来の紙幣流通の停止等による通貨切替政策)に伴なって、発行から1年も経たず、1946(昭和21)年3月2日限りで失効した。甲号券券は短命な超高額券となり、発行枚数が少なく、かつ、高額券故に殆ど回収されたため、現存数は多くない。1946(昭和21)年に行なわれた、インフレーション(通貨膨張やインフレ等とも呼ばれる、物価が持続的に上昇する経済現象)抑制を目的とした新円切替(新紙幣[新円]の発行と、それに伴なう従来の紙幣流通の停止等に伴なう通貨切替政策)では、新紙幣(A号券)が新たに発行されたが、千円券の発行は見送られた。しかし、その後もインフレーションは進み、当時の最高額面券であった百円紙幣、A百円券の発行量が著しく増大して、より高額面の紙幣が必要になった。また、粗末な作りのA号券の偽造が横行したこともあり、B千円券は、他のB号券に先駆けて1950(昭和25)年に発行された。記番号にアルファベット1桁、又は2桁+数字6桁+アルファベット1桁の形式、即ち「A123456B」や「AB123456C」のような、現在と同じ形式が採用された初の日本の紙幣である。その後、印刷技術の向上により、B千円券の偽造が多発したために新たに発行されたのが、C千円券である。当てた光によって紙の上により明るく(暗い背景の上で反射した光ではより暗く)現れる区別することのできる画像や模様である透かしは、肖像と同じ伊藤博文ではあるが、横顔になっている。B千円券とC千円券は同じサイズであったが、1984(昭和59)年に発行が開始されたD千円券は、長辺が14mm短くなった。後のE千円券も、このD千円券のサイズを踏襲している。各額面のD号券からは肖像に文化人が採用されていて、千円券には、日本を代表する文豪の1人である作家・評論家・英文学者、夏目漱石が選ばれた。2004(平成16)年に発行が開始された現行のE千円券の肖像は、医学研究者としては非常に知名度が高く、「偉人の代表」とも呼べる存在にもなった細菌学者の野口英世である。飲料・たばこ等の自動販売機やバスの両替機等では、千円紙幣は使用可能な唯一の紙幣となっていることが多い。流通している千円紙幣の寿命は、つり銭等のやりとりが多く傷み易いため、平均1年から2年程度とされる。また、千円紙幣だけは、五千円紙幣や一万円紙幣と比べて、紙の厚さが1割程度厚い紙を使用している。2024(令和6)年7月には、新紙幣が発行される予定である。絵柄は、表が医学者・細菌学者の北里柴三郎、裏が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎の手になる「神奈川沖浪裏」(富嶽三十六景より)に変更される。 
消救車の日。 
消防機能と救急機能を併せ持つ世界初の消救車。2005(平成17)年1月7日に、その第1号車が千葉県松戸市消防局六実消防署に配備されたことから、開発した株式会社モリタホールディングスが制定した日。消救車(正式名称は消防救急自動車)は、消防車の出動頻度に比べて、よく駆出される救急車の運用効率化を図り、消火と救急の両方の機能を持つ車を配備することを目指して作られた車である。毎分2,400リットルの放水能力を持つポンプと、車体中央部に救急用スペースを備え、CD-1規格と呼ばれる普通消防ポンプ車と普通救急車の機能を両立する。ポンプ室を車両の前方配置したことにより、救急スペースを広く確保できる。2台買うよりは若干安いが、両方の機能を持つ車両は法令上も想定外であったこともあり、効率的に運用できるかどうかはこれからの課題である。2007(平成19)年4月には、京都市消防局北消防署中川消防出張所に全国第2号として消救車が導入されたが、消防車部分は京都市消防局特注モデルのため、小型動力ポンプしか搭載していない。また、救急車部分でも防振ベッドや生体情報モニター等を備えるが、高規格救急車と比べると設備は劣るため、救急車としては準高規格救急車と同レベルと言える。普段は消防車として使い、緊急時には救急車として使うことのできる多目的車として考案された、消救車の試作車は、2002(平成14)年7月に登場したが、この時点では「法的に消防車として扱うのか、それとも救急車として扱うのか」という、根本の部分が決まっていなかった。メーカーと総務省消防庁、警察庁、国土交通省が法的な扱いについて検討を重ねたが、結果として車両登録上では、「消防車」として扱うことが正式に決定された。また、救急スペースが限られることから、総務省消防庁の基準としても「消防車」として扱われる。名称については、「消防救急車」と呼ばれることになった。大阪市中央区道修町に本社を置く株式会社モリタは、消防車両等の緊急自動車・特種用途自動車を架装・販売する企業で、消防自動車の日本国内トップシェア企業であり、株式会社モリタホールディングスはその持株会社となる。消防車の年間需要の約5割超を生産し、多くの消防本部等に納入されている。はしご付消防自動車の規格地上高は、日本唯一の最高位(54m級)を誇る。株式会社モリタのグループ企業として、消火器・消火設備を製造する企業のモリタ宮田工業株式会社がある。モリタ宮田工業株式会社は消火器業界の大手で、鉄砲鍛冶から自転車製造へ変遷した日本最古の自転車メーカーが発祥である宮田工業を208(平成20)年に子会社としたが、自転車関連事業は、株式会社ミヤタサイクルとして分社され、2012(平成24)年に事業をグループ外へ全面譲渡した。 
夕霧忌。
大坂の遊女、夕霧の1678(延宝6)年の忌日(旧暦)。夕霧は島原(嶋原とも書く、現在の京都市下京区に位置する花街[遊廓])で置屋(芸者や遊女を抱えている家)「扇屋」の太夫(遊女、芸妓の最高位の位階)となり、後に「扇屋」が大坂の新町(現在の大阪市西区新町に所在した、大坂で唯一江戸幕府公認であった花街[遊廓])に移転したため、新町の太夫となる。ここから大坂の太夫は生まれる。姿が美しく、また、芸事に秀でた名妓であったとされ、若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。「夕霧忌」は、俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺(大阪市天王寺区下寺町に所在)、京都の清涼寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町に所在)が有名であるが、他に徳島や和歌山にもある。死後、夕霧とその愛人、藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃や歌舞伎等の作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」、又は単に「夕霧」と総称された。