1月2日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0366年 - アレマン人(アレマンネ人、アラマンニ人等とも呼ばれる、ドイツ南西部のライン川上流地域を原住地とするゲルマン人[インド=ヨーロッパ語族の1つ、ゲルマン語を話す諸民族]の部族連合)が、ライン川(主にドイツ国内を南北に流れる川)を渡り、ガリア(現在のフランス・ベルギー・スイス、及びオランダとドイツの一部等に亘る地域)ローマ帝国に侵入する。 
1492年 - スペイン南部にある都市グラナダが陥落し、ヨーロッパの南西に位置するイベリア半島最後のイスラム王朝、ナスル朝グラナダ王国が滅亡する。これにより、ウマイヤ朝(中東を本拠とするイスラム王朝)による西ゴート王国(現在のフランス南部からイベリア半島に当たる地域を支配した王国)の征服と、それに続くアストゥリアス王国(西ゴート王国の貴族がイベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで樹立した王国)建国から始まったレコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動[国土回復運動])が終結する。 
1586年 - 徳川家康の重臣、石川数正が豊臣秀吉の下に逃亡する。徳川家康が駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の大名、今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えた徳川家康の懐刀、石川数正は、徳川家康の命令で、敵対関係にあった豊臣秀吉との交渉を担当したが、突如として徳川家康から離反する。徳川家康を大きく動揺させた、石川数正の出奔の理由は謎であり、石川数正は、徳川軍の軍事的機密を知り尽くしていたことから、徳川軍にとって大きな衝撃となる。以後、徳川軍は、機密漏洩に対応するため、三河国(現在の愛知県東西部で、徳川家康の家系は、三河国の国人土豪、松平氏である)以来の軍制を武田流(甲斐国[現在の山梨県]を領した戦国大名武田氏は、織田信長に攻込まれて滅亡したが、領地を接する徳川家康は、武田氏の遺臣を召抱えていた)に改めることとなる。出奔した後の石川数正は、豊臣秀吉の家臣として8万石を与えられ、後には10万石に加増されている。豊臣秀吉より信濃国(現在の長野県)松本(領地は、筑摩郡[現在の長野県西南部]と安曇郡[現在の長野県西北部])を任された石川数正は、松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道に繋いで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営等、政治基盤の整備に尽力している。 
1624年 - 現在の長崎県北西部に所在し、中国やポルトガル、オランダ等との国際貿易港であった平戸のイギリス商館が閉鎖される。アジア貿易の独占権を認められ、アジア各地の植民地経営や交易に従事したイギリス東インド会社が設置した商館、イギリス商館は、1613年に開設され、江戸・京都・大坂・長崎等に商館員や使用人を派遣し、貿易の仲介を行なったり、平戸を拠点に、商船を東南アジア各地に派遣して貿易業務を行なう。しかし、江戸幕府によるキリスト教弾圧の影響で、ヨーロッパ人による自由な貿易が制約され始めたこと、本国におけるイギリスとオランダの対立が、両国の東インド会社間、更に、平戸の商館同士の対立に発展する。日本市場を巡っては、先行するオランダが有利であった上、イギリス商船の航海を妨害する等の行為を行なう。1623年に発生したアンボイナ事件(アンボン事件等とも呼ばれる、東南アジア南部に位置するインドネシアの東部、モルッカ諸島南方のセラム島の南西に位置する小島、アンボイナ島[アンボン島、ヨーロッパで珍重された、クローブ等の香料を産することで知られる]への進出を図る国が相次いでいた中で、イギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件)は、オランダ東インド会社(世界初の株式会社と言われ、商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権等、喜望峰[現在の南アフリカ共和国南西部、西ケープ州南西部にある岬で、アフリカ大陸の最南端と思われ勝ちであるが、実際には東南東へ約150km離れているアガラス岬が、アフリカ大陸最南端である]以東における諸種の特権を与えられた勅許会社[国王・女王の勅許、又は国家行政の特別許可状を受けて設立された、貿易を主とする会社]であり、帝国主義の先駆けとなり、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築く)による東アジア貿易支配を確立させ、イギリスの影響力を弱体化させる。イギリス東インド会社は、平戸の商館を閉鎖することを決定し、イギリス人商館員は日本を去る。イギリス商館はその後、肥前国平戸藩、及びオランダ商館に管理を委託されたが、平戸での貿易が禁じられ、オランダ商館が長崎に移転させられたこともあり、急速に荒廃する。そして、1673年のリターン号事件(イギリス船『リターン号』が、日本で売るための羊毛を積んで長崎に来航し、江戸幕府に貿易再開を求めたが、幕府は上陸を拒絶した)に際し、江戸幕府は正式にイギリス船の来航を禁じる通告を行ない、2度とイギリス商館が復活することは無くなる。  
1777年 - アメリカ独立戦争: プリンストンの戦い。 
1777年 - アメリカ独立戦争: アッサンピンク・クリークの戦い。 
1788年 - ジョージア州がアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国4番目の州となる。 
1843年 - ドイツの作曲家・指揮者、リヒャルト・ワーグナーのオペラ(歌劇)『さまよえるオランダ人』が、ドイツ中東部にあるドレスデンでリヒャルト・ワーグナー自身の指揮により初演。『さまよえるオランダ人』は、フライング・ダッチマン(近代イギリスの伝承に現れる幽霊船、若しくは、その船長のオランダ人)を元にした、ドイツの詩人・作家、ハインリヒ・ハイネの長編小説『フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記』と、その他にリヒャルト・ワーグナーが着想を得て、再構成して完成させたものである。 
1876年 - 海運と商事を中心に事業を展開した三菱商会(三大財閥の1つ、三菱財閥[現在は、日本を代表する企業グループの1つ、三菱グループとなっている]の前身)で、日本初のボーナスが支給される。ボーナス(賞与)とは、定期給の労働者に対し定期給とは別に支払われる、特別な給料のことである。古くは、江戸時代に商人が、お盆と年末に奉公人に配った「仕着(衣服の支給)」が由来と言われている。因みに、「仕着」という言葉は後に転じて、「型通り事を行なう」という意味の「御仕着」にも使われるようになる。 
1904年 - 「東京五大新聞」の一角を占めた有力紙の1つ、報知新聞(第二次世界大戦後はスポーツ紙「スポーツ報知」となる)に、日本初の新聞写真として、「日本の近代女優第一号」ともされる、川上貞奴の写真が掲載される。
1905年 - 日露戦争・旅順攻囲戦: ロシア軍の旅順要塞(中国東北部、遼寧省の南部に位置する遼東半島先端部の旅順にあった要塞で、重要な軍港、旅順軍港を防衛するための拠点として建設・運用された)が、乃木希典大将を軍司令官とする日本陸軍第3軍により陥落する。旅順要塞の攻略により、ロシア軍が太平洋に配備していた旅順艦隊(第一太平洋艦隊)は、全ての艦が使用不能となり、最終的に撃滅される。中国清朝の軍により要塞化された旅順は、ロシア陸軍の手によって、機関銃の導入等、大規模な強化が行なわれる。1904年6月26日から進軍を開始した日本陸軍第3軍は、8月7日に第1回、10月26日に第2回、11月26日には第3回の総攻撃を行なう。乃木希典大将は、正攻法(既に占領した地点から、敵陣地の前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保し、歩兵の進撃の際には、十分に支援砲撃を行なう攻撃方法)でロシアの永久要塞を攻略している。