12月31日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2023年 令和5年 平成35年  
昭和98年 大正112年 明治156年 皇紀2683年 干支 癸卯(みずのと う)
第5日曜日 旧暦 11月19日、大安(癸亥)、月齢 18.1  
グレゴリオ暦で年始から365日目、年末まであと0日。
誕生花 ヒノキ・ユリオプスデージー・センリョウ。

大晦日(大晦)。
1年の終わりの日(最後の日)。1月から11月までの月末は晦日というが、12月だけは大晦日と称する。大晦日は「大つごもり」とも呼ばれたが、「つごもり」は、晦日の別名であり、「月隠り(つきごもり)」が転じたものである。元々、「みそ」とは「三十」であり、「みそか」は30日の意味であった。但し、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。1年の締め括りの日で、かつては暮れの支払日となっていた。日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様(としがみさま)」、又は「歳徳様(としとくさま)」への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神(陰陽道[太古に発生した中国の民間信仰で、天の動きと人の世の動きには関係があるという思想、天人相関に立ち、万事に吉凶を天文の変化から予知し、これによってどう対処してゆくかを決めるもの]で、その年の福徳を司る神)等とも呼ばれる、その年1年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様(しょうがつさま)」とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は、神社のような宗教施設ではなく、各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために、大晦日から「年籠り(としごもり)」をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)、元旦も家で過ごすことが一般的であった。後に、歳神様が家に来られるという観念が殆ど無くなり、一般庶民が正月三が日等に神様に願いを伝えるため、こちらから神社へ参賀する「初詣」を行なうようになっているが、そのきっかけは、明治20年代に官公庁から始まった元旦に御真影(明治期から昭和期にかけての第二次世界大戦前における、天皇の肖像写真や肖像画を敬っていう語)を拝む「新年拝賀式」と、1891(明治24)年の「小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年6月17日文部省令第4号)」により、元旦に小学校へ登校する「元旦節」等を経て、関西の鉄道会社が正月三が日に(恵方とは無関係な方角の)神社へ初詣を行なうという、レジャー的な要素を含んだ行事を沿線住民に宣伝し、これが全国にまで広まったことで、「年籠り」という習慣は次第に失われた、とされる。日本の平安時代に行なわれていた大晦日の宮廷儀礼の1つに、「鬼やらい」とも呼ばれる「追儺(ついな)」がある。年の変わり目という最大の節分(雑節の1つで、各季節の始まりの日[立春・立夏・立秋・立冬]の前日のことであり、節分とは「季節を分ける」ことをも意味しているが、江戸時代以降は特に、立春[毎年2月4日頃]の前日を指す場合が多い)において、「鬼」で表現される良くない何かを追払うために、「方相氏(ほうそうし)」と呼ばれる恐ろしい扮装・いで立ちの導士によって執り行なわれる古い行事であるが、これが後の節分行事に変化したとされる。恐ろしい姿の演者としては、日本の郷土文化として大晦日や旧正月等に「なまはげ」(大晦日に秋田県の男鹿市と山本郡三種町、潟上市の一部の各家々で行なわれる伝統的な民俗行事)等が行なわれている。大晦日には、様々な年越しの行事が行なわれる。年越しの夜のことを「除夜(じょや)」とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、皺が寄るとかいった俗信があった。大晦日の伝統的な風習には、年越し蕎麦(地方によっては他の食事)や除夜の鐘、二年参り(初詣)、お年取り(長野県等で行なわれるごちそう等を食べる行事)等がある。神社仏閣や各地方では伝統的な行事が行なわれ、その他にも年越しを祝うイベントが行なわれる。また、そういった行事やイベント、初日の出等、元旦のイベントの為に移動する人が多いため、鉄道等の交通機関が、日常は営業時間外となっている深夜に営業することは、大都市では一般的になっている。大晦日は正月の1日前であることから、家族が全員揃っていることが多い。そのため、日本放送協会(NHK)が1951(昭和26)年から放送している男女対抗形式の大型音楽番組で、日本の長寿番組の1つでもある『NHK紅白歌合戦』や、年末年始の12月31日23時45分から翌年1月1日0時15分まで(一部例外あり)日本放送協会(NHK)で生放送されている年越し番組『ゆく年くる年』等、テレビ番組においては、一家団欒を睨んで、特別番組を多く編成しており、これも大晦日の風物詩となっている。
年越し蕎麦。
年越し蕎麦は、大晦日に縁起を担いで食べる蕎麦で、歳末の日本の風物詩ともなっている、日本の文化であり、風習である。地域による特色があり、呼び方も、晦日蕎麦、大年そば、つごもり蕎麦、運蕎麦、また、大晦日蕎麦、年取り蕎麦、年切り蕎麦、縁切り蕎麦、寿命蕎麦、福蕎麦、思案蕎麦等と数多くある。江戸時代には定着した日本の風習であり、蕎麦は他の麺類よりも切れ易いことから、「今年一年の災厄を断切る」という意味で、大晦日の晩の年越し前に食べる蕎麦である。日本各地に見られる文化であり、地域の特色の現れたさまざまな形式の蕎麦が存在する。、江戸時代中期には、商家に月の末日に蕎麦を食べる「三十日蕎麦(みそかそば)」という習慣があり、これが転じて、大晦日だけに行なわれる年越し蕎麦になったと考えられている。江戸時代中期頃の江戸では、江戸患い(脚気[ビタミンB1が不足して起こる疾患で、全身の倦怠感、食欲不振、足のむくみやしびれ等の症状が現われる])が流行しており、「蕎麦を食べている人は脚気にならない」という巷説が、江戸での蕎麦の流行を後押しした。年越し蕎麦に関する伝承としては、年を越してから食べることは縁起がよくないとするものや、蕎麦を残すと新年は金運に恵まれず、小遣い銭にも事欠くことになるといったものがある。明治時代・大正時代の大阪うどんの老舗では、商家でも「年越し蕎麦は注文が殺到した」と記述されている。年越し蕎麦の由来については、蕎麦は細く長いことから延命・長寿を願ったものであるとする説(蕎麦が細く長いことに由来する年越し蕎麦の長寿延命の意味は、引越し蕎麦の「末永く宜しく」とも意味を通じている)や、金銀細工師が金箔を延ばす為に蕎麦粉を用いたとする説、及び、金銀細工師が金粉銀粉を集める為に、蕎麦粉の団子を使用したことから、金を集める縁起物であるとする説、南宋(中国の王朝の1つ)人で鎌倉時代中期の貿易商人、謝国明が承天寺(現在の福岡市博多区にある臨済宗東福寺派の寺院)で、年の瀬を越せない町人に「世直し蕎麦」と称して、蕎麦餅を振舞ったところ、翌年から皆運気が向いてきたため、大晦日に「運蕎麦」を食べる慣わしが生じたという説、蕎麦は風雨に叩かれても、その後の晴天で日光を浴びると元気になることから、健康の縁起を担ぐという説、蕎麦が五臓の毒を取ると信じられていたことに由来するとの説、蕎麦が切れ易いことから、一年間の苦労や借金を切捨て翌年に持ち越さないよう願ったという説、家族の縁が長く続くように、との意味であるとの説等、多くの説がある。また、薬味の葱については、心和らげるという「労ぐ(ねぐ)」の意味、或いは、神職の「祢宜」(神職や巫女を纏める神社の長[おさ]である神職の職階、宮司を補佐する者の職称)の言葉に掛けた語呂合わせ、とも言われる。日本では、一般的に年越しに当たり、蕎麦を食べる「年越し蕎麦」が多いが、地方によって違いがある。また、地方によっては、違う時期に蕎麦を食べて、大晦日の夜は、別の料理を食べることもある。