12月29日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

東京大賞典開催日。
東京大賞典は、「競馬法(昭和23年7月13日法律第158号)」に基づき、東京都品川区勝島にある大井競馬場において競馬(東京シティ競馬)を主催する、23東京都特別区で組織される一部事務組合(複数の普通地方公共団体や特別区が、行政サービスの一部を共同で行なうことを目的として設置する組織)の特別区競馬組合が、大井競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(GI)である。競馬番組表では、「農林水産大臣賞典(国際交流) 東京大賞典」と表記している。日本中央競馬会(JRA)が主催する中央競馬の終了後に開催され、大井競馬を始め、日本のダート競馬の1年を締括る総決算レースとなっている。1955(昭和30)年に「秋の鞍」の名称で創設され、第1回はダート2,600mで施行され、1着賞金は100万円であった。その後、競走名は1964(昭和39)年に現名称となり、施行距離は幾度かの変遷を経て、1998(平成10)年からはダート2,000mで定着する。南関東公営競馬(大井競馬場・船橋競馬場・浦和競馬場・川崎競馬場の4競馬場において施行されている競馬の総称)では、1978(昭和53)年に新設された、大井競馬場で施行される帝王賞と共に、サラブレッド系古馬の2大競走としても位置付けられている。開催時期は1964(昭和39)年から12月下旬となり、1999(平成11)年からは、開催日が12月29日で固定された。1995(平成7)年より中央・地方全国交流競走に指定され、日本中央競馬会(JRA)、及び他地区地方競馬所属馬も出走可能になった。1997(平成9)年には統一GI(南関東G1)に格付けされ、2011(平成21)年からは外国馬も出走可能な国際競走に指定され、合わせて地方競馬で施行する競走としては、初めての国際GIに格付けされた。なお、2015(平成27)年の1着賞金は8,000万円である。なお、特別区競馬組合は、1986(昭和61)年7月31日に開催された、日本国内初のナイター競馬、「トゥインクルレース」を主催したことから、7月31日をとして「トゥインクルレースの日」としている。大井競馬場で行なわれる「トゥインクルレース」は、その迫力と美しさで、デートコースとしても人気を集めている。現在の日本の競馬では一般的となっているゴール写真判定、枠別の帽色、スターティングゲート、パトロールフィルム(公営競技の競走中における不正行為[反則]の判断のために撮影されるもの)制度は、いずれも大井競馬場が初めて採用した。また、拡大馬番号連勝複式勝馬投票法(ワイド)も、大井競馬場が日本で最初に発売開始した。ナイター競馬の名称は、野球等のナイターに範を採っている。主に、気温が上がる春から秋にかけて行なわれているが、冬期も実施している公営競技場がある。昼間開催では、第1競走の発走が概ね9時50分から11時過ぎとなるのに対し、ナイター競走では第1競走の発走が、当日の競走数にもよるが、概ね15時から16時の間になるのが特徴である。初のナイター競走を開催した大井競馬場を抱える南関東公営競馬は、土曜日・日曜日を中心に開催する中央競馬と商圏が重なることから、土日開催がしにくいため、平日を中心に開催せざるを得なかったが、平日の昼間開催では、会社員が勤務時間と重なるために来場することが難しく、客層は限られてくる。そこで、会社員の勤務時間が終わる17時以降に競走を行なうことで、仕事帰りの会社員も取込むことが可能になる。特に、東京都等の大都市圏を抱える南関東地区では、平日の昼間に開催するよりも夜間に開催した方が、照明に掛かる電気料金等の追加経費を差引いても、それに見合うだけの集客が見込めたことが、実施の背景にある。また、大井競馬場は住宅地から離れており、夜間開催による周辺地域への影響が比較的小さかったことも、ナイター開催の実現を後押しした。近年では、地方の競技場でもナイター競走が行なわれるようになったが、これは、場外発売所の整備に加え、電話投票やインターネット投票が普及したことで、普段競技場に足を運ばない客層を掘り起こしたことも影響している。

キン肉マンの日。
1979(昭和54)年、東京都千代田区一ツ橋に本社を置く大手総合出版社、株式会社集英社の週刊少年漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』に連載されて以来、多くのファンを獲得した日本を代表する漫画作品でありアニメ作品である「キン肉マン」(ゆでたまご原作)の記念日をと、集英社が制定。日付は、筋(きん、金曜日)と肉(にく、29日)を組合わせたもので、1年に数回しか巡ってこない。「キン肉マン」は、株式会社集英社の週刊少年漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』で、1979(昭和54)年22号(1979年5月28日号)から1987(昭和62)年21号(1987年5月4日号)まで連載された、日本に住む人間を超越した存在・超人のキン肉マンことキン肉スグルが、仲間の正義超人と共に、次々に立ちはだかる強敵とリング上で戦っていく、プロレス系格闘漫画である。漫画家ユニットゆでたまご(嶋田隆司と中井義則の合同ペンネーム)のデビュー作であり、代表作でもある。戦うことによって形成される友情の美しさを主眼において、単純な勧善懲悪ではない物語性を持たせており、「ダメ超人」と人々にバカにされながらも、地球の平和を守りたいと戦い続けた主人公の成長していく姿も描いている。当初は、変身ヒーローを題材としたギャグ漫画(『ウルトラマン』のパロディ)であったが、第28話で始まった第20回超人オリンピック編から格闘路線にストーリーを変更して人気を博す。格闘ものに転向してからもしばらくはギャグ色の濃い内容であったが、中盤以降はシリアスな戦闘が中心となり、終盤になるとギャグ的要素は殆ど無くなっていった。「キン肉マン」の特色として、伏線や物語の整合性等を考えず、その場の盛上がりを重視した荒唐無稽な展開の数々が挙げられる。これは「細かい設定に拘っていると、結果として内容がつまらなくなる」との作者の考えのためであり、より良い設定を思い付けば、敢えて過去の設定は切捨てるという。そのため、作中には多くの矛盾点があるものの、それが逆に、今もなお愛される所以となっており、作者自身も「ツッコミ所が多い方が読者が親近感を持ってくれる」と語っている。作中に登場する超人・怪獣の大多数を読者から募集し、そこから誕生させている。ロビンマスク、ラーメンマン、ウォーズマン、バッファローマンといった重要キャラクターも、読者のアイディアを元に考案したものである。このシステムは読者の側にも好評で、続編『キン肉マンII世』の読切を描いた後には、募集していないにも係わらず、読者からの新超人投稿が続出したという。キン肉マンの本名「キン肉スグル」は、当時読売ジャイアンツ(読売巨人軍)に所属していた野球選手である江川卓から名付けられた。兄のキン肉アタル(江川卓の実弟)、父親のキン肉真弓(真弓明信)、祖父のキン肉タツノリ(原辰徳)にも、同様のルーツがある。シリーズ累計発行部数は7,500万部以上で、アニメ化された他、続編等も制作された。テレビアニメ作品としては、1983(昭和58)年に『キン肉マン』、1991(平成3)年に『キン肉マン キン肉星王位争奪編』と2度に亘り、日本テレビ系列で放映された。アニメーション製作は東映動画(現在の大手アニメ制作会社、東映アニメーション)が担当し、TVスペシャルも1回放映、劇場版も7作公開された。また、登場キャラクターの超人達等、1人ひとりにオリジナルのテーマソングが作られ、アニメにおけるいわゆる「キャラクターソング」の先駆者的存在となった。
筋肉を考える日。
東京都港区芝に本社を置き、10秒チャージの「inゼリー」、筋肉のため「ウイダープロテイン」、手軽にたんぱく質補給ができる「inバープロテイン」等を製造・販売する大手菓子メーカー、森永製菓株式会社が制定。日常生活を元気に、健康に過ごすのに大切な筋肉。その筋肉の材料としてたんぱく質(プロテイン)が必須であることから、筋肉の重要性を考えると共に、たんぱく質との関係性を知って、日常的にたんぱく質を摂ってもらうことが目的。日付は、筋(きん、金曜日)と肉(にく、29日)を組合わせたもの。「筋肉を考える日」は「キン肉マンの日」と同じ日で、1年に数回しか巡ってこない。哺乳動物において、不活動や飢餓は骨格筋の退化に繋がる。筋肉量の減少は、たんぱく質含有量の低下と共に、筋肉細胞の減少や矮小化が伴なう。ヒトでは、ベッドにずっと寝ていて運動を長期間行なわない状態にあったり、宇宙飛行士が宇宙に滞在したりすると、筋肉の弱化や退化が発生することが知られている。有人宇宙飛行の世界では特に問題視され、無重力空間で過ごした結果、約30%もの筋肉が減ってしまったこともある、年齢と共に、骨格筋の機能や量を維持する能力がゆっくりと減少する現象があり、これは筋肉減少症と呼ばれる。原因ははっきりしていないが、骨格筋繊維の維持を助ける「衛星細胞」が徐々に減少することとの関連が疑われ、さらに、筋肉量や衛星細胞を維持するために必要な感度、若しくは分泌される重要な成長因子の減衰が関係すると考えられる。筋肉減少症は加齢によって一般的に起こり、また、実際には病状として扱われないが、高齢者が怪我をし易くなったり、生活に支障を来たしたりする可能性がある。筋肉の発達した男性の身体(裸体)が、洋の東西を問わず、彫刻や絵画の対象になる等、美しさを現すものとして、古くから認識されている。また、女性に対するセックス・アピールの手段としても、筋肉の鍛えられた身体は「武器」であり続けてきた。この筋肉の発達し、美しい状態のことを、「筋肉美」や「肉体美」という語を用いて形容してきたが、これらの語は、男性の魅力を表現するために用いられてきたものであり、女性に対してこうした表現を用いることは、つい最近まで殆どなかった。1970年代後半以降になると、女性の流行体型に変化が生じる。スレンダーという用語が一般的になり、男性が一般的に好む、曲線的な体型ではなく、女性が自ら好む体型を求めるようになった。その後は、女性が筋肉を付けることが忌避される風潮もあり、筋肉質の女性芸能人は珍しい存在であったが、現在では女性の地位向上や価値観の変化もあり、筋肉質な肢体を魅力の1つとしている芸能人も見られるようになった。男性では、1970年代に香港の中国武術家・俳優、ブルース・リーが一世を風靡すると、これに感化された日本人男性の間でも、筋肉を付けることを意識して身体を鍛える者が増加するようになり、1980年代には、筋骨隆々な俳優主演のハリウッド映画が隆盛を極めたことにもより、筋肉の鍛えられた俳優が注目された。さらに、「筋肉芸人」と呼ばれるタレント等も活躍するようになっている。
エムスカルプト・筋肉強化の日。
東京都中央区銀座に東京本社、大阪市淀川区西中島に大阪本社を置く、イギリスを拠点に世界60ヶ国以上で法人展開している企業、BTL Industries Ltd.の日本法人で、医療機器の製造・輸入販売、及びサービスメンテナンス等を手掛ける企業、BTL Japan株式会社が制定。日付は、筋(きん、金曜日)と肉(にく、29日)を組合わせたもの。「キン肉マンの日」や「筋肉を考える日」と同じ日で、1年に数回しか巡ってこない。BTL Japan株式会社が販売する、筋力トレーニングや運動の代わりに筋肉を増やす治療に活用する医療機器「エムスカルプト(EMSCULPT)」の認知度を高め、多くの人に日頃の筋肉強化と健康維持を図ってもらうことが目的。「エムスカルプト(EMSCULPT)」は、高密度焦点式電磁(HIFEM/ハイフェム)技術を用いて、筋肉を非侵襲的に鍛えることができる、世界初の治療器である。「エムスカルプト(EMSCULPT)」の導入により、体の形状改善、及び、痩身を目的とした施術では、骨格筋からのアプローチが可能になり、美容医療における新しいコンセプトが誕生した。従来の機器と違って、筋肉の運動を行なうことで、脂肪減少の効果、さらに、対象部位における外見の変化をもたらす代表的な製品となっている。高密度焦点式電磁(HIFEM/ハイフェム)技術は、体内に電気や熱を照射せず、体の表面から組織の深部まで強力な筋収縮を引起こす、安全な技術である。1回30分の施術では、約2万回の筋収縮が得られる。結果は1回目の施術から改善し続けるが、ピークは4回目の治療から約1ヶ月後に期待できる。
山田耕筰忌。
日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した作曲家・指揮者、山田耕筰の命日が、1965(昭和40)年の12月29日であることから。山田耕筰の生まれは東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)で、1910(明治43)年から3年間、三菱財閥(現在の日本を代表する企業グループの1つ、三菱グループの前身)の4代目総帥岩崎小弥太の援助を受けて、ドイツの首都ベルリンにあるベルリン音楽学校(現在のベルリン芸術大学)作曲科に留学し、ドイツの作曲家・指揮者、マックス・ブルッフ等に学ぶ。ベルリン時代の1912(大正元)年には、日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。帰国後は、日本初の管弦楽団を造る等、日本において西洋音楽の普及に努めた。また、アメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区にあるコンサートホール『カーネギー・ホール』で自作の管弦楽曲を演奏、ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やソビエト連邦のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮する等、国際的にも活動し、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手掛けているが、数多くの国民的歌謡、校歌等を創作した。代表作は、『野薔薇』『からたちの花』『鐘が鳴ります』『赤とんぼ』『兎のダンス』『ペチカ』『待ちぼうけ』等。学生スポーツ、及び国内アマチュアスポーツ最大の大会、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の入場行進曲『全国中等野球大会行進曲(現在は全国高校野球大会行進曲)』の作曲者でもある。なお、有名な『栄冠は君に輝く』は、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の大会歌として大会の開会式、閉会式で演奏され奉唱されるが、『全国高校野球大会行進曲』とは別の曲で、作曲者は、阪神タイガースの応援歌『大阪タイガースの歌(阪神タイガースの歌、通称:六甲颪)』、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の応援歌『巨人軍の歌(闘魂こめて)』、東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)の 『オリンピック・マーチ』等、多くの応援歌、行進曲の作曲を手掛けた、作曲家の古関裕而である。古関裕而は、日本人として初めて、国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家であるが、福島市に住んでいた古関裕而を、東京の楽壇に進出させるきっかけとなったのは、山田耕筰の推挙であったという。山田耕筰は、1923(大正12)年の大正関東地震(関東大震災)による都市の火災被害に衝撃を受け、本業の楽団運営問題に悩まされていた時期にも係わらず、1924(大正13)年から翌年にかけて、実弟の山田鐵雄と共に、日本の狭い街路に適応する、輸入オートバイをベースとした小型消防車の開発を推進。オート三輪型の試作車を完成させて、1925(大正14)年8月には、東京府東京市下谷区上野恩賜公園(現在の東京都台東区上野公園)にある不忍池で、自ら公開放水実験を行ない、百尺(約30.3m)以上の放水距離を実現させた。しかし、当時の日本では、輸入品の大型消防自動車が、ようやく主要都市で導入され始めたばかりで時期尚早であり、事業化等のそれ以上の発展はないままに終わった。日本におけるこの種の小型消防ポンプ車の本格普及は、第二次世界大戦後のことになる。また、乳酸菌飲料「カルピス」の商品名と、そのメーカーの社名は、飲料メーカー『カルピス』創業者である三島海雲から相談を受けた山田耕筰が、「最も響きがよく、大いに繁盛するだろう」とアドバイスしたことで決まった、とされる。なお、カルピス株式会社は現在、大手ビールメーカーの1つ、アサヒグループホールディングス株式会社の清涼飲料水部門の子会社、アサヒ飲料株式会社の機能子会社となっている。