12月14日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

四十七士討入りの日、忠臣蔵の日、赤穂義士祭、吉良祭(続き)。
忠臣蔵は、人形浄瑠璃(文楽、日本の伝統芸能である人形劇)、及び、歌舞伎の演目の1つで、1748(寛延元)年に大坂(現在の大阪)で初演された人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の通称である。また、歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品として知られる。赤穂事件が初めて舞台に取上げられたのは、討入り決行の翌年である1703(元禄16)年の正月、江戸木挽町(現在の東京都中央区銀座に相当)山村座の『傾城阿佐間曽我』の五番目(大詰)である。曾我兄弟の仇討ちという建前で、赤穂浪士の討入りの趣向を見せた。なお、曾我兄弟の仇討ちは、1193(建久4)年に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が行なった富士の巻狩り(富士の裾野付近を中心として行なわれた、鹿や猪等が生息する狩場を多人数で四方から取囲み、囲いを縮めながら獲物を追詰めて射止める大規模な狩猟)の際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を討った事件である。以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、討入りから4年後の1706(宝永3)年には、この事件に題材を取った近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座(浄瑠璃の一種である義太夫節浄瑠璃の創始者、竹本義太夫が大坂道頓堀[現在の大阪市中央区道頓堀に所在]に創立した義太夫節人形浄瑠璃の代表的劇場)で上演されている。そして、その集大成が1748(寛延元)年8月に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。初演の時には「古今の大入り」、即ち、類を見ないと言われる程の大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取入れられている。『仮名手本忠臣蔵』は、後に独参湯(薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でもこれを出せば当たる、とされる程であった。さらに、歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品が作られ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品の1つに、『仮名手本忠臣蔵』と怪談を組合わせた四代目鶴屋南北作の歌舞伎生世話狂言(歌舞伎の演目の一種で、当時の町人の生態を描いた現代劇である「世話物」の中でも特に写実的な演出、演技が濃いもの)『東海道四谷怪談』がある。江戸時代には、江戸幕府から同時代に起こった武家社会の事件を文芸や戯曲で取上げることは禁じられていたので、赤穂事件についても、幕府を憚って舞台を別時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託していた。「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助良雄の「蔵」に掛けている等とされるが、定かではない。「仮名手本」についても様々な説明がされているが、これも定かではない。明治以降、江戸幕府が滅亡しその憚りがなくなったので、登場人物の名を実名で上演することができるようになった。赤穂浪士の討入りが民衆から喝采を持って迎えられ、江戸時代から現代まで、「忠臣蔵」を描いた物語が、ありとあらゆるメディアで幾度となく作られてきた。その理由は何であろうか。アメリカ合衆国出身の日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作があるドナルド・キーンは、忠臣蔵が元禄時代の人々の関心を集めた理由として、当時の世相を指摘している。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、「武士道は過去のものであり、二度と戻らぬフィクションと信じられていた。ところがその過去の夢が、全く突然に戻ってきた。それは赤穂四十七士の復讐」であった。現代の「忠臣蔵」論の多彩な展開の言わば原点となっている映画評論家・教育評論家の佐藤忠男の意見によれば、吉良邸討入りは「忠義」を名目にしているものの、本質的には武士の意地を示す行動であり、民衆もその意地に感動したという。また、忠臣蔵映画が大量に作られた理由として、忠臣蔵映画がある意味、俳優の顔見せ的な役割を担っていたことが指摘されている。一方、歴史学者の山本博文は「忠臣蔵」に人気がある理由として、仇討ち物語であることや、幕府への抵抗としての側面があることに触れた上で、「(忠臣蔵に)私達が感動しているのは、(中略)何か目標の為に、命を捨てて行動する「自己犠牲の精神」があるという単純な理由からなのではなかろうか」と指摘している。歴史学者の尾藤正英は、忠臣蔵に人気がある理由は「組織の名誉を守るためには、自己の命を捨てても悔いない心、即ち士的な利害の関心を超えた、公共精神とでも言うべきものが、忠義として表彰されていた」ことがあると指摘している。演芸作家で講談や浪曲の著書がある稲田和浩によれば、人々が忠臣蔵を好む理由として、判官贔屓、団体戦、散りゆく者の美学、献身、勧善懲悪という5つの要素があるという。映画評論家の谷川建司は、忠臣蔵が愛されてきた理由として、カタルシス(精神の浄化)を挙げている。例えば、浅野内匠頭長矩の切腹の際、無言であることを条件に切腹への立会いを許された片岡源五右衛門高房のエピソードのように、「口には出さなくとも分かってほしい」という強い願望と、「口には出さずともおまえの気持はよく分かってる」というエピソードを追体験することで、強いカタルシスを感じられるようにデザインされている点が忠臣蔵の魅力としている。谷川建司はまた、1950年代以降の高度経済成長期(日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期)に忠臣蔵が人気があった理由として、四十七士の達成感をスクリーンを通じて共有することで、第二次大戦の敗戦でずたずたになった日本人のプライドの「再生」を確認することがあったのではないかと述べている。「忠臣蔵」のヒーローとして有名になった大石内蔵助良雄は、物静かで飾り気のない性格で、内面は熱く人望があったとされる。しかし、平時においては凡庸な家老であったようで、「昼行燈」(役に立たない人を示す表現)と渾名されていたことは有名である。第113代天皇、東山天皇の使者として江戸へ下向する予定の勅使(天皇が出す使者)達の接待役、饗応役を幕府より命じられた浅野内匠頭長矩は、生来短気であったと言われ、また、頭を下げることを好まない性格であったともされる。一方、「忠臣蔵」では敵役として描かれる吉良上野介義央は、領地であった三河国幡豆郡(現在の愛知県西尾市に所在)では、1686(貞享3)年に築いた黄金堤による治水事業や、富好新田を始めとする新田開拓や人柄から「名君」とされ、地元では慕われている。ただ、吉良上野介義央には、浅野内匠頭長矩以外の饗応役にも、いわゆるいじめを行なっていたという逸話が多く残っており、吉良上野介義央の長男(出羽国米沢藩第4代藩主、上杉綱憲)が養子入りした上杉家家臣達からの評価も芳しくなかったとされる。1908(明治41)年から、ジャーナリスト・史論家・政治家の福本日南が「忠臣蔵の真相」と銘打って、義士録を元に浪士側に立った『元禄快挙録』を新聞連載して話題となり、近代日本の忠臣蔵観を主導した。講談、浪曲でも忠臣蔵は人気があり、「赤穂義士伝」と呼ばれ、事件の史実を扱った「本伝」、個々の赤穂四十七士を描いた「義士銘々伝」、周辺のエピソードを扱った「外伝」からなる。第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行なわれた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本国内での報復運動の高まりを恐れ、「忠臣蔵」を題材とした作品は、封建制の道徳観が民主化の妨げになるとし(仇討ちという復讐の物語なので)、当事件を題材とした作品の公演、出版等を一時期禁止したが、1947(昭和22)年にはその禁も解かれた。吉良上野介義央邸襲撃の日は旧暦12月14日(正確には翌日未明)であったが、現在に至るも、新暦12月14日が近付くと、忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映される等、その人気は衰えを見せない。多くの映画製作、テレビドラマ化、舞台上演がほぼ毎年行なわれている。現在では、多くの資料研究の進展を反映させた書籍の出版や、実名での作品化がなされるようになり、価値観の多様化と研究考証から、討入りに参加しなかった、できなかった赤穂藩士、討入り後に残された義士の遺族や子孫、敵役とされる吉良側、当時の江戸幕府の事情等、様々な視点に立って作品化がなされている。