12月8日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

太平洋戦争(第二次世界大戦対米英戦)開戦の日(さらに、続き)。
真珠湾攻撃の2日後の12月9日には、アメリカ合衆国西部、オレゴン州ポートランドの日刊地方紙『オレゴニアン』で、アラモの戦い(現在のアメリカ合衆国南部、テキサス州に相当する地域が、メキシコからの分離独立を目指した戦争、テキサス独立戦争の中で、メキシコ軍司令官アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ指揮下の約4,000名の軍隊に包囲された約200名のテキサス義勇兵が、フランシスコ修道会の伝道所であったアラモを13日間死守した戦い)でのスローガン、「Remember the Alamo!(アラモを忘れるな)」を改題した「REMEMBER PEARL HARBOR!(真珠湾を忘れるな)」とのフレーズが、早くも登場している。アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが、日本への宣戦布告を議会に求めた演説「汚名演説」(演説の冒頭で、「屈辱の日」という表現を用いたことに由来する)で、日本の行為を「恥知らずな蛮行」や「背信行為」と激しく非難する等、アメリカ政府が真珠湾攻撃を「騙し討ち」と喧伝(盛んに言いはやして世間に広く知らせること)することによって、アメリカ国民の愛国心はいやが上にも高まることとなり、「REMEMBER PEARL HARBOR!」というフレーズは、たちまちアメリカ全土を席巻する、国民的スローガンとなった。このスローガンにより、アメリカの青年は次々と軍に入隊し、国民は国債を買い求めた。「REMEMBER PEARL HARBOR」というスローガンを付した様々な記念品も作られ、記念品は、ポスターやグリーティングカードといった普遍的なものから、バッジ、漫画、宝飾品、ナンバープレート、切手、ペナント、枕カバー等に至るまで膨大な数に及び、それらを手にすることによって、さらにアメリカ国民の愛国心は高まっていった。娯楽産業もその流れに飛付いて、真珠湾攻撃に関する映画が速成され、アメリカの作曲家・編曲家・指揮者・バンドリーダー、サミー・ケイが作曲した行進曲「REMEMBER PEARL HARBOR」はヒットソングとなり、リリース後僅か数週間でアメリカ全土に広まった。この真珠湾攻撃を描いた代表的な映画の1つに、1970(昭和45)年に公開されたアメリカの戦争映画『トラ・トラ・トラ!』がある。『トラ・トラ・トラ!』は、日本海軍による真珠湾攻撃を巡る両国の動きを題材に据え、日本との合同スタッフ・キャストで制作された。日本では高い評価を受けて熱狂をもって受入れられた。しかし、開戦前のアメリカ側の危機管理の甘さが強調されていることや、日本軍が圧倒的に優勢であること、また、長尺である割に、アクションシーンが最後だけであるため、アメリカでの興行成績は振るわなかった。『トラ・トラ・トラ!』の公開は、1955(昭和30)年に勃発したベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間の戦争で、アメリカ軍がベトナム共和国(南ベトナム)側で介入した、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)の真っ只中であったが、アメリカが攻撃されるというだけでなく、日本側の視点を大幅に取入れた映画を製作したという点では、当時のアメリカの懐の深さを表わしていると言える。真珠湾奇襲を防ぐことができなかった原因を、ワシントンの政府上層部の責任として描いていることも、当時としては斬新であった。なお、この真珠湾攻撃に呼応して、駆逐艦によるミッドウェー島に対する砲撃が実施されていることは、あまり知られていない。ミッドウェー島は、ハワイから東京への距離の約3分の1程度の位置にある。北アメリカ大陸とユーラシア大陸の中間点にあり、「ミッドウェー」の名称はこれに由来している。ミッドウェー島は1867(慶応3)年にアメリカ領となったが、ミッドウェー島に航空基地が完成したのは、1941(昭和16)年8月18日のことであり、飛行艇による哨戒飛行が開始された。日本海軍は、真珠湾攻撃を行なった第一航空艦隊の退避を行なうための囮作戦として、ミッドウェー島砲撃を企画し、第一水雷戦隊に所属する第七駆逐隊第一小隊の駆逐艦『潮』と『漣』を派遣した。ミッドウェー島砲撃隊は、アメリカ側に発見されることもなくミッドウェー島に接近し、真珠湾攻撃と同日の12月8日、ミッドウェー島の施設に対して砲撃を行ない、燃料タンクや航空機格納庫に命中弾を与えて炎上させた。その後、ミッドウェー島砲撃隊は12月22日、呉軍港に無事帰投している。真珠湾攻撃を実施した第一航空艦隊の損失は、艦載機29機であった。連合艦隊司令部では、参謀長宇垣纏中将が「夜間の駆逐艦二隻に依る砲撃何程のことやあらん」として、ミッドウェー島への砲撃を提案し、他の参謀達も同意した。そこで連合艦隊司令部は、連合艦隊電令作第十四号「機動部隊ハ帰路情況ノ許ス限リ〈ミッドウェー〉島ヲ空襲シ之ガ再度使用ヲ不可能ナラシムル如ク徹底的破壊ニ努ムベシ」という電文を送って、ミッドウェー島攻撃を第一航空艦隊に促した。第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将はこれに基づいて、12月10日に各艦に対して信号により、ミッドウェー島攻撃の意思を伝えた。これに先立ち、第一航空艦隊でも、ミッドウェー島攻撃の際には第五航空戦隊の航空母艦(空母)『瑞鶴』と『翔鶴』、及び戦艦『霧島』に駆逐艦『浦風』と『秋雲』を付することを内定していた。しかし、悪天候が続いて補給ができなかった関係もあり、具体的な攻撃計画は立てられず、12月14日にはミッドウェー島の北西に至ったことから、攻撃は遂に行なわれなかった。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、南雲忠一長官が予定航路を進み、ミッドウェー島に近接する行動を取らないので、「命令であるから万難を排して完遂するように努力すべきであり、また、現在地は荒天であるが、ミッドウェーに近付けば天候も回復し攻撃の可能性がある」と、航空母艦(空母)『赤城』と信号で交渉するも聞入れられず、直談判しようと飛行機を準備したが、悪天候が続いていたため果たせなかった。太平洋戦争(第二次世界大戦対米英戦)開始後もミッドウェー島は、日本側からは気になる存在であり続け、アメリカ側も航空機や人員等の補給を行なって防備を固めた。1942(昭和16)年6月、ミッドウェー島の攻略を目的としたMI作戦(ミッドウェー作戦)が発令され、日本海軍が歴戦の主力航空母艦(空母)4隻と、その艦載機多数を一挙に喪失する大損害を被り、太平洋戦争(第二次世界大戦対米英戦)における主導権を失った、ミッドウェー海戦を招くこととなる。ミッドウェー海戦での敗北により、連合艦隊司令長官山本五十六を始めとする短期決戦早期講和派は発言力を失い、日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行なう)で、海軍全体の作戦・指揮を統括する軍令部と、大本営は、長期戦を主軸とした戦略への転換せざるを得なくなった。連合艦隊司令長官山本五十六は、太平洋戦争(第二次世界大戦対米英戦)開戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持できるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒する」と述べていた。しかし、国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵等、全ての拙劣さにより、ミッドウェー海戦で主力航空母艦(空母)機動艦隊壊滅の損害を受けたにも拘らず、事後に作戦戦訓研究会は開かれなかった。一方、結果的に多数の航空機と約200名の航空兵が犠牲になるという、決して軽くない損害を受けるも、日本海軍の真珠湾攻撃作戦に参加した航空母艦(空母)4隻を撃沈し、機動部隊の快進を食止めたという結果は、アメリカ軍にとって非常に喜ばしいことであった。