11月29日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1394年 - 李氏朝鮮初代国王の李成桂が、開城(朝鮮半島中西部に所在し、現在は北朝鮮[朝鮮民主主義人民共和国]の実効支配下に置かれる)から、現在の韓国の首都ソウルに遷都する。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ、朝鮮半島における最後の統一国家でもある李氏朝鮮は、1392年に、高麗(中国大陸の出身とされる王建[太祖]が建国した、朝鮮半島の大部分を領土とした国家)の武将、李成桂が国王となり、即位したことで成立しており、朝鮮という国号は、李成桂が、中国明朝の初代皇帝、朱元璋(洪武帝)から下賜されたものである。中国の王朝が明朝から清朝に変わった17世紀以降も、引続き李氏朝鮮は、中国王朝の冊封体制下にあったが、日清戦争(1894年から1895年にかけて行なわれた、主に朝鮮半島[李氏朝鮮]を巡る日本と中国清朝の戦争)後の下関条約(日清戦争の講和条約)によって、李氏朝鮮は、中国清朝を中心とした冊封体制から離脱し、近代国家としての形式的な独立や実質的な地位を得る。なお、冊封体制とは、中国の歴代王朝が、東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策で、中国の皇帝が、朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号や爵位等を与え、君臣関係を結んで、周辺諸国の君主にその統治を認める(冊封)一方、宗主国対藩属国という従属的関係に置くことを指す。朝貢とは、藩属国の使節が皇帝に朝見して土産の産物を献上することをいうが、これに対して皇帝は、回賜として、貢物以上の返礼物を与え、皇帝の威徳を示したため、朝貢は、君臣関係を表わす政治的儀礼であると同時に、貿易の一形態でもあったとされる。 
1830年 - ロシア帝国支配下のポーランド東中部にあるワルシャワ(現在のポーランドの首都)で、ワルシャワ蜂起(11月の夜とも呼ばれる、ロシア帝国の支配に対する武装反乱)が発生する。ロシア帝国軍の陸軍士官学校に所属する、ポーランドの若い下士官達が蜂起し、当時、ポーランドの総督として実質的な政権を担っていたロシア帝国の皇族、コンスタンチン・パヴロヴィチ大公の居所であるベルヴェデル宮殿を襲撃する。コンスタンチン・パヴロヴィチ大公は宮殿を脱出するが、武装したポーランド市民達は、ロシア軍をワルシャワの北方へと撤退させる。11月29日夜の事件は瞬く間に広まり、驚きをもって迎えられ、間もなく、蜂起にはポーランド社会の大部分が参加する。蜂起は幾つかの地域で成功を収めたものの、結局は、数の上で圧倒的に優位なロシア帝国軍に鎮圧されている。 
1850年 - プロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけての地域を領土とした王国)とオーストリア帝国、ロシア帝国の3国が、オルミュッツ協定を締結し、プロイセン王国によるドイツ統一が頓挫する。1848年からヨーロッパ各地で起こり、フランス革命とナポレオン戦争が終結した後の、ヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として開催されたウィーン会議により企図されたヨーロッパの国際秩序、ウィーン体制の崩壊を招いた革命、1848年革命によって、ヨーロッパ各地で民族主義が高揚する。こうした中、ドイツ民族による統一国家樹立の動きがみられたが、多民族国家であるオーストリア帝国は、自らの帝国の解体にも繋がりかねない民族主義の高揚に強い警戒を抱き、自由主義的手法でドイツ統一を図ったフランクフルト国民議会(ドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体、ドイツ連邦を構成する各邦国で選出された、議員による議会)に対しても、オーストリア帝国は、これに敵対する姿勢をみせる。一方で、1848年革命は、プロイセン王国にとって大きな転機になり得るもので、当時の国王であるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、この革命によって高揚していた、自由主義的な改革に対しては否定的であったが、オーストリア帝国の主導下にあるドイツ連邦の枠組みを崩し、ドイツ民族主義を利用して、「小ドイツ主義」に基づき「上からの」ドイツ統一の主導権を握ることを目論む。プロイセン王国は、ドイツ連邦に代わる新秩序を形成させようと、ドイツ連邦内の有力邦国に接近を図り、その結果、1849年にハノーファー王国(現在のドイツ北西部、ニーダーザクセン州に存在した国家)、ザクセン王国(現在のドイツ中東部、ザクセン州に存在した国家)との間で、三王同盟を構築することに成功する。このように、ドイツ北部の諸王国が、プロイセン王国に同調する動きを見せたことは、オーストリア帝国の強い警戒を招くと共に、こうしたオーストリア帝国の動きをドイツ南部のバイエルン王国(現在のドイツ南東部、バイエルン州に存在した国家)、ヴュルテンベルク王国(現在のドイツ南西部、バーデン=ヴュルテンベルク州に存在した国家)が支持する姿勢をみせ、ハノーファー王国とザクセン王国の内部に動揺を引起こし、両国はプロイセン王国から距離を置く姿勢をみせたため、三王同盟が崩壊へと至る。こうして、ドイツ連邦内でのプロイセン王国の孤立が強まり、万策尽きたプロイセン王国は、モラヴィア地方(現在のチェコ共和国東部の地方)のオルミュッツ(チェコ語では、オロモウツ)でオーストリア帝国、及びロシア帝国と協定を結び、事実上、小ドイツ主義に基づくドイツ統一を断念することが確認される。そのため、オルミュッツ協定は、ドイツ民族主義者からは「オルミュッツの屈辱」とも称される。 
1864年 - インディアン戦争・コロラド戦争: サンドクリークの虐殺。 
1872年 - インディアン戦争・モードック戦争: ロスト川の戦い。 
1875年 - 宗教家・教育者の新島襄が同志社英学校(同志社大学の前身)を開学。現在の京都市中心部にある京都寺町に開校された当初は、教員2名、生徒8名という規模であったが、新島襄の協力者である地方官吏・政治家の山本覚馬(後に新島襄は、山本覚馬の妹・八重と結婚する)が維新後に購入していた旧薩摩国/大隅国薩摩藩邸の敷地(約6,000坪)が学校用地として譲渡され、次いで新島襄との連名で「私学開業願」を文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)に出願、これが認可される。この校地は、その後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスとなっている。なお、「志を同じくする者が集まって創る結社」という意味の校名、「同志社」は、山本覚馬の命名と言われる。「同志社」の建学精神は、キリスト教精神に基づく「良心」である。新島襄は、建学の目的として、「良心を手腕に運用する人物」の育成を掲げる。知識教育に偏ることのないよう、キリスト教に基づく「徳育」を並行して進めることで、「良心の全身に充満」した人々を輩出したいと願い、この「良心」教育を具体的に実現するための教育理念として、「キリスト教主義」「自由主義」「国際主義」が掲げられ、これらを通じて、「一国の良心」たる人物を世に送り出すことを目指している。 
1877年 - アメリカの発明家、トーマス・エジソンが、自身が発明した蓄音機(後のレコードプレーヤー)を初めて公開する。 
1890年 - 実質上、アジア初の近代憲法と言われ、1889年2月11日に公布された大日本帝国憲法が施行され、同日、第一回帝国議会が開会される(翌1891年3月7日まで)。 
1893年 - 中国中東部にある武漢に自強学堂(後の武漢大学)が設立される。武漢大学は、中国で最も歴史がある国家重点大学の1つである。 
1899年 - スペイン北東部、カタルーニャ州バルセロナに本拠地を置くサッカークラブ、FCバルセロナが設立される。FCバルセロナは、世界で最も支持されているクラブの1つで、世界で4番目に価値の高いスポーツチームとされる。
1913年 - フェンシング(ヨーロッパで発祥した剣を用いるスポーツ競技)の国際連盟、国際フェンシング連盟が設立される。フランス首都のパリで結成された、国際フェンシング連盟の現在の本部は、スイス南西部にあるローザンヌに所在している。フェンシングでは、2人の選手が向かい合って立ち、片手に持った剣で互いの体を突いて勝敗を決める。攻撃(剣で相手の体に触れる)を成功させるとポイントとなり、規定のポイントを先取した選手が勝利する。「フルーレ」「エペ」「サーブル」という3つの種目があり、使用する剣、及びルールがそれぞれ異なる。ヨーロッパで発達した剣術が原型で、用語にはフランス語が多い。  
1919年 - 大和運輸(現在のヤマトホールディングス)設立。ヤマトホールディングスは、宅配便のシェアNo.1となっている、「宅急便」を展開するヤマト運輸株式会社等を傘下に持つ、ヤマトグループの持株会社で、日本の運送業界では、「クロネコヤマト」として圧倒的な知名度を誇る。