11月25日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

金型の日。
東京都文京区湯島に所在する業界団体、日本金型工業会が1974(昭和49)年に制定。1957(昭和32)年11月25日、日本金型工業会が設立された。金型産業の重要性を広く訴えると共に、金型産業の地位向上を願う思いが込められている。金型に関する各種の事業を行なうことにより、金型工業、及び関連産業の健全な発展を図り、もって我が国経済の繁栄と国民生活の向上に寄与することを目的とする日本金型工業会は、金型製造業者の全国組織として設立され、1994(平成6)年に、工業会組織を社団法人に改組した後、2013(平成25)年には、一般社団法人日本金型工業会への移行が認可されている。金型とは、工業製品の金属製や樹脂製の部品を、プレス加工のような塑性加工や射出成形等により製造するための型のことで、多くが金属製ながら、例外もある。材料(主に、鉄・アルミ合金・銅・真鍮等の金属)を融点よりも高い温度で熱して液体にした後、型に流し込み、冷やして目的の形状に固める加工方法、鋳造でも使われる母型(おもがた)から、砂製を「砂型」、金属製を「金型」と呼んだことが語源とされる。金型の品質次第で製品の良否が決定付けられるため、金型は製品の生みの親とも言われる。
バイラルの日。 
2005(平成17)年11月25日、日本初の本格バイラルキャンペーンとして、株式会社タイトー・PSPゲームタイトル「EXIT」が実施された。これを記念して、このキャンペーンを手掛けた、動画広告プラットフォームの開発・提供会社、ロカリサーチ株式会社が制定した日。バイラル・マーケティングの可能性を探る日、として広くアピールしている。バイラル・マーケティングとは、マーケティング・メッセージを広く普及させるに当たって、「紹介」や「推奨」といった形で人々の間に相互に伝え合うことを促進・奨励するマーケティング・アプローチ、いわゆる「口コミ」を期待するマーケティング手法である。情報が口コミで徐々に拡散していく様が、ウイルスの感染に似ることから、「ウイルス性の」という意味の「バイラル」の名を冠している。東京都世田谷区羽根木に所在するロカリサーチ株式会社は、2004(平成16)年に設立され、「世界に類を見ない動画マーケティング プラットフォームを構築します」として、静的なテキストや静止画像だけなく、動的な映像やアニメーション、CG、音声を利用した表現豊かなコンテンツ(情報の内容)を提供している。
いいえがおの日。
熊本市東区東町に本社を置く、通信販売等で黒酢、ブルーベリー、肝油、青汁等の健康食品を取扱う企業、株式会社えがおが2017(平成29)年に制定。「笑顔でいることで健康になる」「健康だからこそ笑顔になれる」との思いから、より多くの人に健康で笑顔にという意識を持ってもらい、日本を健康にすることが目的。日付は、11月25日の「11」と「25」で、「い(1)い(1)笑顔(ニッ[2]コ[5]リ)」の語呂合わせから。この日を中心に、様々なイベントやキャンペーンを通じて、「健康で笑顔になること」の大切さを日本中にアピールする。
ecuvo,(えくぼ)の日。
香川県東かがわ市白鳥に本社を置く、手袋を中心としたニット製品の企画・製造・販売を手掛ける企業、株式会社フクシンが制定。株式会社フクシンの社是である「明るく楽しく元気よく」から生まれた「ecuvo,」(えくぼ)ブランドは、SDGs(持続可能な開発目標)に沿った地球に優しい材料や製造方法で作る製品で、笑顔の時にできる「えくぼ」になぞらえたもの。「ecuvo,」を通して笑顔循環企業を目指す自社の製品や活動を知り、より多くの人に優しい笑顔になってもらうことが目的。日付は、11月25日の「11」と「25」で、「い(1)い(1)ニ(2)コ(5)ニコ」の語呂合わせから、「笑顔 = えくぼ」を連想する11月25日とした。株式会社フクシンは、「手袋のまち」東かがわで1977(昭和52)年から手袋を作り続けている。自然豊かな環境にいるからこそ感じる、地球温暖化や環境の変化。「ちゃんと四季のある日本であってほしい」という願いを込めて「ecuvo,」は誕生した。「ecuvo,」は、パパもママも子どもも、家族みんなに笑顔になってほしいという思いから、メンズ・レディース・キッズを展開している。「ecuvo,」の商品には、手袋の他にも靴下やマフラー、ニット帽&ベレー帽、アームウォーマー、ルームソックス等がある。

松葉ガニの日。
11月第4土曜日。鳥取県が制定した日で、鳥取を代表する冬の味覚である松葉ガニをPRするのが目的。日付は、松葉ガニの名称が出てくる最古の文献(1845[弘化2]年11月13日の因幡国/伯耆国鳥取藩町目付け日記)に因んで。十脚目ケセンガニ科(旧分類ではクモガニ科)に分類されるズワイガニは、深海に生息する大型のカニで、重要な食用種でもある。ズワイガニの「ズワイ」とは、細い木の枝のことを指す古語「楚(すわえ、すはえ)」が訛ったものとされ、漢字では「津和井蟹」とも書かれる。オスとメスの大きさがあまりに違うため、漁獲される多くの地域で、オスとメスに別の名前が付けられている。山口県以北の日本海と、茨城県以北からカナダまでの北太平洋、オホーツク海、ベーリング海に広く分布する。水深約50mから約1,200m程度の砂泥底に生息するが、主な生息域は、水深約200mから約600m程度の深海で、水温は、約0℃から約3℃程度の水域を好む。食性は雑食性であるが肉食性が強く、貝類や多毛類(一般には、主に釣り餌として使用されるゴカイを代表とした、ゴカイ類と呼ばれることが多い)等を捕食する。また、海底に落ちた魚介類や海洋性哺乳類等の屍骸、脱皮した自分自身の殻も食べる。特定の魚種毎に捕獲できる総量を定めたTAC制度(漁獲可能量制度)が導入され、海域毎の漁獲量の上限が定められている。日本海での漁は、沖合底びき網漁が主体となっているが、かにかご漁、刺し網や板びき網漁も行なわれている。資源保護の為、省令(各省の大臣が制定する当該省の命令)により、海域毎に異なる制限がされている。ズワイガニは、冬の味覚として人気が高い。体色は暗赤色であるが、熱を加えると赤くなる。塩茹でや蒸しガニ、カニ鍋(カニスキ)等で食べられ、新鮮なものは、刺身や寿司種(寿司ネタ)としても利用される他、缶詰等の原料にもなる。上品で甘みがある肉と、こってりした味の中腸腺(カニミソ)、メスの卵巣(内子)も食用にする。ズワイガニは、冬の味覚の王様と言われる程人気が高い食材であり、関西地方では、旅行代理店等が、温泉地と結び付けたツアーを商品として扱っている。北海道・北近畿・北陸・山陰には、ズワイガニ需要によって発展した温泉地も多い。これらの温泉地は、冬場に最も集客が見込める。山陰地方で水揚げされるズワイガニのオスは、松葉ガニと呼称されることが多く、鳥取県で水揚げされるものは、鳥取松葉ガニと呼ばれる。メスのズワイガニは、鳥取県・兵庫県・京都府・福井県では、セコガニと呼称される。 
三島由紀夫忌、憂国忌。
1970(昭和45)年11月25日、東京都新宿区市谷本村町にある陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室に、「楯の会」(間接侵略に備えるための民間防衛組織[民兵]として、三島由紀夫が結成した軍隊的な集団)メンバー4名と共に乱入して籠城した上、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自殺した作家、三島由紀夫の命日。第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の1人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家とされる三島由紀夫は、人工性・構築性に溢れる唯美的な作風が特徴で、1933(昭和8)年にアメリカで創刊された世界初の男性誌『エスクァイア』の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が、昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的できごとと相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。代表作には、長編小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『豊饒の海』四部作等、短編小説に『憂国』等、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』等がある。三島由紀夫の割腹自決事件を受け、三島由紀夫を哀悼する有志により、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が1970(昭和45)年12月11日に開かれ、これが翌年以降、毎年行なわれている追悼集会「憂国忌」の起源となった。三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起・クーデターを呼掛けた後に割腹自殺をした事件は、三島事件と呼ばれ、三島由紀夫と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前を取って楯の会事件とも呼ばれる。この事件は、日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、海外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした異常な行動には、一様に驚きが示された。衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報で流され、街では号外が配られた。テレビ番組は急遽、特別番組に変更され、文化人等、識者の電話による討論等も行なわれた。事件翌日11月26日の総監室の前には、誰が手向けたのか、菊の花束がそっと置かれていたが、ものの1時間と経たぬ内に幹部の手によって片付けられた。その後、東京、及び近郊に在隊する陸上自衛隊内で行なわれたアンケート(無差別抽出1,000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁(現在の防衛省の前身)を慌てさせたという。また、警察が、三島由紀夫と知り合った自衛隊の若い幹部に事情聴取すると、三島由紀夫に共鳴し、真剣に日本の防衛問題を考えている者が予想以上に多かったという。事件に対する主要な新聞各紙の論調は、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞がほぼ一様に、当日の中曽根康弘防衛庁長官や佐藤栄作首相のコメントを踏襲するような論調で、三島由紀夫の行動を、狂気の暴走と捉え、反民主主義的な行動は断じて許されないという主旨のものであった。三島由紀夫と近しかった友人や同じ思想の系譜に連なる作家や評論家らは、三島事件の意味を「諌死」(死んで目上の人をいさめること)と捉えた。三島由紀夫と異なる思想傾向の作家らも、三島由紀夫が思想を超え、公平な審美眼で文芸批評をしていたことに対する畏敬の念から、その稀有な才能の喪失を純粋に惜しむ声が多かった。その一方、あくまでも思想的反対や反天皇の姿勢から、三島由紀夫の行動を「錯誤の愚行」と批判する山田宗睦等の評論家や、軍国主義化を警戒する作家・評論家・詩人の野間宏のような、当時の戦後文化人の一般的意見を反映するものも多かった。三島由紀夫は、国の基本的事項である防衛を〈最重要問題〉と捉え、〈日本国軍〉の創立を唱えながら、〈一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様〉である〈国家〉という〈一定空間の物理的保障〉を守るには〈軍事力〉しかなく、もしもその際に外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、〈決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない〉とし、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(日米安全保障条約、昭和35年条約第6号)」に安住することのない日本の自主防衛を訴えている。三島由紀夫は、自衛隊が単なる〈技術者集団〉や〈官僚化〉に陥らないためには、〈武士と武器〉、〈武士と魂〉を結び付ける〈日本刀の原理〉を復活し、〈武士道精神〉を保持しなければならないとし、軍人に〈セルフ・サクリファイス〉(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の軍国主義に堕落すると説いている。そして、第二次世界大戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜すること、文人のみの文化勲章だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを、現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、〈天皇と軍隊を栄誉の絆で繋いでおくこと〉こそ、日本、及び日本文化の危機を救う防止策になる、とも説いている。