11月21日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

0235年 - ローマ教皇アンテルスが即位。カトリック教会の聖人(人々の祈りを執り成し、神と人間の仲介としての役割を担うとされる崇敬の対象)である第19代ローマ教皇アンテルスについては、殆ど何も知られておらず、在位僅か約1ヶ月半となる、翌236年1月3日には殉教したという。
1783年 - フランスの首都パリで、元々は製紙業を営んでいたフランス人兄弟、モンゴルフィエ兄弟(兄はジョゼフ=ミシェル・モンゴルフィエ、弟はジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエ)が、熱気球による初の有人飛行に成功する。 
1789年 - アメリカ合衆国南東部に位置するノースカロライナ州が、12番目にアメリカ合衆国憲法に批准。 
1806年 - ナポレオン戦争: フランス第一帝政皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)によって、大陸封鎖令が発せられる。大陸封鎖令は、フランス帝国とその同盟国の支配者になったナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込め、フランスと通商させて、ヨーロッパ大陸の経済を支配することを目的に発令した経済封鎖命令である。ベルリンで発令されたので、ベルリン勅令とも呼ぶ。フランス国民とフランスの同盟国との軋轢を生み、逆に、ナポレオン1世に対する敵愾心を強める結果となってしまう。フランスに従属したヨーロッパ諸国や北ヨーロッパ諸国は、大陸封鎖に参加を余儀なくされたが、大陸諸国は豊かな経済力をもつイギリスと通商ができなくなったため、経済的困窮を招いている。この封鎖はある程度の成功を見たが、その同盟国は恩恵を受けることができず、不満や不平が募ることとなる。イギリス側も決して無傷であった訳ではなく、次第に経済は不況となり、フランス側の私掠船が暗躍し、商船は略奪され、国内では国民の暴動が発生、国王ジョージ3世は精神に異常をきたし、首相スペンサー・パーシヴァルは暗殺されている。また、逆にフランスを封じ込めるため、海上封鎖に出たことで、当初中立を宣言していたアメリカ合衆国と利害が対立し、1812年に米英戦争が勃発し、「イギリス史上最も困難な局面」を迎える。大陸封鎖令はヨーロッパでは甚だ人気がなく、反ナポレオン政策を取ったスウェーデンが拒否する。しかし、ナポレオン1世はロシア帝国に働き掛け、スウェーデンを屈服させて封鎖令に参加させる。それでも離反国は後を絶たず、ポルトガルが協力を渋っている。そこで、ナポレオン1世はイベリア半島への派兵を決断したが、そのためにスペインの政争に介入せざるを得なくなり、イベリア半島戦争の泥沼に巻込まれていく。効果の上がらない大陸封鎖の実状を見て取ったロシア帝国は、1810年、大陸封鎖令を破りイギリスと通商を再開する。ナポレオン1世は、法令を破ったロシアを罰しようとロシア遠征(1812年)を企てたが、ロシア側の焦土作戦等で大敗を喫し、没落を招く結果となる。
1889年 - 東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)に、歌舞伎専用の劇場で、火災や戦災に遭う等、様々な変遷はあったが、今日に至るまで、名実共に代表的な歌舞伎劇場として知られる『歌舞伎座』が開場。 
1894年 - 日清戦争: 旅順虐殺事件。旅順(中国東北部に所在)攻略の際、市内、及び近郊で、日本軍が、清国(中国清朝)軍敗残兵掃討中に旅順市民も虐殺する。 
1903年 - 東京府東京市芝区(現在の東京都港区)にある三田綱町球場で、早稲田大学野球部と慶應義塾大学野球部の対抗戦が行なわれる(早慶戦の起こり)。早稲田大学野球部と慶應義塾大学野球部による硬式野球が、「早慶戦」の起源である。この早慶両校の野球チームの対抗は、現在のような各種野球大会・対抗戦・競技団体組織が未整備であった当時、創成期の日本野球界や、さらにスポーツ界全体においても大変な人気を博し、その後の東京六大学野球連盟の結成、各地のアマチュア野球の形成・発展、そして、プロ野球の発足へと続く、日本野球の発展に大きく貢献し、また、その礎となっている。こうした歴史から、マスコミでは、早慶戦に触れる際に、「伝統の」という言葉を冠することが多い。このような早慶野球戦の発展(と紆余曲折)が、早慶両校の対抗意識を醸成し、結果として、後年には他の競技や、更には、学術分野に至るまで、早慶両校間の対抗・連携にも影響を及ぼすようになる。現在は、東京六大学リーグ戦の最終週に早慶戦が組込まれており、同リーグ戦の看板カードである。華やかにして創意工夫に富み、なおかつ、礼・節を保った応援合戦は、日本の野球応援に多大な影響を及ぼしており、早慶両校に優勝が掛かる展開となれば、学生のみならず、ファンやOBが駆付け、神宮球場(東京都新宿区霞ヶ丘町の明治神宮外苑に所在する野球場、明治神宮野球場の通称)を埋める。優勝校は、明治神宮野球場から学舎まで、紅白の提灯を掲げてのパレード(「提灯行列」や「提灯パレード」と呼ばれる)を行なう。春の早慶戦は、両校のサークルにとって、新入生歓迎行事の一環として利用されることもあり、両学生席とも、外野席まで使っての大応援となる。基本的に、学生席内は座席指定がなく、早い者勝ちとなるため、しばしば徹夜による席取りが行なわれてきたが、球場周囲をはみ出して一般道にまで及んだり、酒に酔った学生が器物を壊したり、また、一般人と喧嘩沙汰になる等、社会問題化したため、徹夜待ちは禁止となっている。入場待ちの学生を統制するのは、早稲田では「早慶戦支援会」、慶應では「慶早戦支援委員会」という、いずれも学生有志で組織された会が、応援(指導)部員と共に担っている。また、徹夜待ち回避のため、サークル対象に行なわれる事前の入場順位抽選や、リーグ戦観戦時に得られるスタンプを規定数持っている学生には、優先して早慶戦の学生席券を売る、或いは、入場順を考慮する等の工夫も見られる。  
1905年 - E=mc2の式が載ったユダヤ人の理論物理学者、アルベルト・アインシュタインの特殊相対性理論の第2論文が、世界で最も古い物理学の学術雑誌の1つとなっている、ドイツの学術誌『アナーレン・デア・フィジーク(Annalen der Physik)』に掲載される。特殊相対性理論は、慣性(ある物体が外力を受けない時、その物体の運動状態は慣性系に対して変わらないという性質を表わす)運動する観測者が、電磁気学的現象、及び力学的現象をどのように観測するかを記述する、物理学上の理論である。静止している物体に力が働かない時、その物体は、慣性系に対し静止を続ける。運動する物体に力が働かない時、その物体は慣性系に対し運動状態を変えず、等速直線運動を続ける。これは、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者、アイザック・ニュートンが基本法則として整理した、慣性の法則(運動の第1法則)として知られている。特殊相対性理論は、重力のない状態での慣性系を取扱った理論で、後にアルベルト・アインシュタインは、空間の歪みとして、万有引力(重力)が作用する時、空中に存在する場(物理量を持つものの存在が、その近傍・周囲に連続的に影響を与えること、或いは、その影響を受けている状態にある空間)、重力場をも組込んだ、より一般的な理論である一般相対性理論を発表する。この理論は、アイザック・ニュートンの万有引力論を全面的に書換えるものになる。 
1909年 - 人吉駅 - 吉松駅間の開業により、門司(現在の門司港)から鹿児島までが鉄道で結ばれる(現在の九州旅客鉄道[JR九州]肥薩線経由)。九州の西岸を縦貫する重要幹線で、元来は門司港駅 - 鹿児島駅間が一連の路線であり、福岡・熊本・鹿児島各県相互の都市間輸送の一翼を担っていた鹿児島本線は、1909年11月21日の人吉駅 - 吉松駅間開業により、門司駅(現在の門司港駅) - 人吉駅 - 鹿児島駅間の路線となる。1927年10月17日、湯浦駅 - 水俣駅間が開業し、八代駅 - 川内駅 - 鹿児島駅間が鹿児島本線に編入され、従来の鹿児島本線八代駅 - 人吉駅 - 鹿児島駅間は肥薩線となる。新幹線規格(フル規格)の路線、九州新幹線鹿児島ルート(博多駅 - 鹿児島中央駅間)で、先行して建設が進められていた新八代駅 - 鹿児島中央駅間が営業運転を開始した2004年3月13日、並行在来線である鹿児島本線は、八代駅 - 川内駅間が九州旅客鉄道(JR九州)より経営分離され、第三セクター(国や地方公共団体と民間が合同で出資・経営する企業)の「肥薩おれんじ鉄道」に転換される。九州新幹線鹿児島ルートは、「肥薩おれんじ鉄道」の区間を第三セクターで維持することを条件として着工されているが、鹿児島本線の八代駅 - 鹿児島駅間は大半が単線で、線路が海岸線に沿って敷かれ、線形が劣悪で、高速運転化には抜本的な改良が必要であり、時間短縮効果の大きさから、八代駅 - 西鹿児島駅間の本格着工が優先されることとなる。