ふつう、自分とは覚醒時に意識できる自我の自分です。その自我の自分が自分なりの人生を生き、社会生活を営んでいるとされています。

ただ、非覚醒時、特に熟睡している時には自分という意識はありません。また、自分の仕事なり趣味に集中し"没"頭している時も文字通り自我の頭は没しており、自分という意識はありません。

しかし、自分の覚醒時・非覚醒時を問わず身体〔そしてたましい[玉し霊]〕の方は、日・月・年等に連動した自律"神"経のリズムを中心に生きている或いは生かされていると言えます。これがもう一人の自分である真我です。

 

日・月・年等のリズムとは太陽・月・地球を中心に太陽系・銀河系を含めた宇宙全体〔神仏〕のリズムです。これは"本"来の"能"力である本能による生命の営みとも言えます。この本能としての生命の営みを改めて認識することが、人生において極めて重要です。

 

この生命の営みとは自我の意識の奥で無意識、厳密に言えば潜在意識の奥の宇宙意識〔仏教的に言えば阿頼耶識[あらやしき]さらに阿摩羅識[あまらしき]或いは神意識〕である真我の営みであり、肉体レベルでは自律"神"経に連動していると考えられます。

ここで大切なのは、これら自我と真我、つまり地〔地上三次元〕で生きる自我と天〔宇宙高次元〕由来の真我を結びつけることです。それを表すのが巫の字であり、その巫を土台とする医療が毉療であると考えます。

 

自我の特性は分別知であり、真我の特性は感性であり直感ですが、具体的には自我の分別知で一所懸命に何かに打ち込み没頭すると高次元では感性・直感が働くようになって発明や発見が生まれたり、三次元を介して神仏や竜神等の眷属が姿・形が現れたりします。

何れも、自我の自分と玉し霊〔たましひ=たましい〕の真我との対話であり宇宙大自然との対話でもあると言えるでしょう。

 

知人からの最近の情報ですが、図1や2は竜神との遭遇です。

図1は東寺で遭遇した竜神雲です。私も昔30代の若い頃、ある竜神の神法に参加するか否かで迷っていた時、空に大きな竜神雲の顔がくっきりと現れたことがありました。たまたまの偶然かと思いきや、自転車で20〜30分ほど走って信号で止まった時に空を見上げるとまた正面に大きな竜の顔が出現しており、これは神法を受けよということかと受け止め腹が決まったのでした。

 

図2は蝋燭に現れたと見られる竜神です。私も自分では確認していませんでしたが、ある神社で自分の供えた蝋燭〔名前が書いてある〕が燃えた跡に竜の尾が現れていたよとそれを見た人から言われました。

 

図3は立石寺での円状の影〔よく観ると鱗状の模様が観てとれるので竜かもしれません〕が現れました。自分ではその時はまったく氣づきませんでしたが写真には撮れていたということです。丁度、その1年前に『生命毉療は円の毉療』を出版した後で、その頃は円や円通の概念で心の中で盛り上がっていた時でした。

その他、日常生活でも、人や物に偶然意味のある出会いがあったり、神社参拝の時に神社に着いた途端に太陽の光で明るくなったり、参拝時に垂れ下がっている白い布〔御幌:みとばり〕が大きく開いたりするのも周囲との対話です。

ただ、このような対話が起きるには、神仏や竜神のような高位の眷属と心の波長が合っていることが条件になります。それは我も人も共に幸せになるために役立ちたいという波長です。神仏の心とは私たちすべての子供が幸せになって欲しいという親心だからです。

 

これを続けていけば、さまざまなメッセージを無意識に受け取っているもう一人の自分つまり真我の存在がわかってくると思います。

このあたり、とてもわかりやすいのがユーミンさんの『やさしさに包まれたなら』で、"目にうつるすべてのことはメッセージ"がキーフレーズになります。この曲は易しそうでとても奥深いものがある名曲です。これは普門示現〔ふもんじげん〕つまりあらゆる場面は観音様の現れだということにもつながるのですが、興味ある方は拙著『太極円通図から理解する般若心経と理趣経』をお読みいただければと思います。自分の目にうつるすべてのことは、同時に自分でもあるということもわかってくると思います。さらに観音とは観る存在であると同時に観られる存在でもあるということ、そして自他内外一如で誰もが天上天下唯我独尊ということもです。そして、それがこれまで謎とされてきた五臓六腑の内の一つである三焦(さんしょう)の謎解きにもつながるのです(詳細はまた別の機会に…)。

 

〔図1〕

〔図2〕

〔図3〕