六角田中医院 田中院長のブログ
  • 19May
    • 自我と真我の対話

      ある中年女性。不眠(夜間覚醒)で来院される。“漠然とした不安感”があるため毎日酎ハイを三杯くらい飲む、のぼせ、汗かき(首から顔)、体重増加、高血圧等々がある。西洋薬はもらっているが効果不十分で漢方的に何とかならないものか、とのこと。この場合、「はい、漢方ではこんな薬がありますよ」とはいきません。薬云々の前に、まず「なぜこのような症状が出てくるのか」の理解を生活習慣に絡めて解析し理解していただくことが何よりも大切です。それ抜きには漢方でも効果は期待できません。生年月日を観ると、この方は食べることが大好きなようです。それも特にピリ辛の類そして肉類・脂肪分それに酎ハイ。そして“漠然とした不安感”と表裏一体でしょうが、繊細で考え過ぎのところがあり、そのストレス緩和のためでしょうか、少しずつながらも超頻回に食べる癖があるようです。何かを食べると体とくに胸から首・頭にかけてが温かくなります。特にピリ辛の類や肉類・脂肪分を頻回に食べると熱くなります。だから汗が出る、のぼせる、眠れない、体重増加、高血圧等々というように、「今の症状は食べ過ぎが原因、そしてそれは以前からの漠然とした不安感の軽減のため」といった病の基本骨格が見えてきました。さまざまな症状は、不安→頻食的過食→首以上の熱を反映するものだと考えられました。そこでこれを納得していただくために、当院なりの筋力反射テスト(形はO-リングテストと同じ)を行いました。まず、大好きなピリ辛類であるキムチとか唐辛子、豚肉・鶏肉・牛肉、それに酎ハイ等々と発音していただくと、O-リングを形作る二本の手指の力が抜けて、O-リングは開いてしまいます。次に、リンゴや黒ゴマや黒豆とかを発音していただくと手指に力が入って、O-リングはガッチリと締まります。これは言霊に体が反応して体にプラスなものは体が喜んでリラックスするのでO-リングの指に力が入り、マイナスなものは体が拒否して緊張するのでO-リングの指に力が入らないという反応です。また、ピリ辛類や肉類・アルコールは氣を上げるのに対して苦味の漢方薬は氣を下げるので、黄柏(おうばく)という苦味の入った封髄丹という薬の名前を発音すると指の力が強化されてO-リングはグッと締まります。ほかに安心に働く漢方で本人に適合するものでもO-リングは締まります。このような形で飲食の問題点や漢方薬の適否をチェックするのですが、心にとらわれのないオープンマインドであればその時点でのほぼ正確なチェックができます。この筋力反射テストですが、有名なところではテニスの絶対王者と言われたジョコビッチのアプライドキネシオロジーがあります。ジョコビッチは以前は試合中に倒れることが何度もあったそうですが、ある博士がジョコビッチに左手を腹に当てさせて右腕を横に伸ばすように言いました。そして博士がその右腕を下に押し下げるように力を加えることに対して下がらないように抵抗するよう命じました。ジョコビッチは力が強く右腕は下がりませんでした。ところが次に、博士がジョコビッチに左手にパンを持ってそれを腹に当てるように言い、そして同じように右腕を下に押し下げようとすると今度は簡単に博士に押し下げられてしまったのです。これでジョコビッチがグルテン不耐症であることが分かり、以後パンを避けることで倒れなくなったということです。ジョコビッチは博士によるアプライドキネシオロジーの所作に対して最初は信じがたいものでしたが、納得した後はパーティーなどで自らアプライドキネシオロジーを応用した余興を行ったそうです。詳細は『ジョコビッチの生まれ変わる食事』(タカ大丸訳、三五館、2015年)をご参照ください。さて、今回の女性はこのような診療によって飲食と心の持ち方が病をもたらすことを学ばれたと思います。そして、筋力反射テストによって自分だと思っている「自我の自分」ではわからないことをもう一人の「真我の自分」が知っていることも学ばれたと思います。「自我の自分」と「真我の自分」とが対話できることを知り始められたのです。「真我の自分」というのは白隠禪師の「衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし・・・」で始まる坐禪和讃で説く「仏なる自分」です。「自我の自分」のもつ知性ではわからないことを「真我の自分」は何でも知っているのです。そんな仏なる自分あるいは神なる自分が、実は生まれる前からも死んでからも存在しており、自我の自分の成長と幸せのために存在していることを知るきっかけを、今回の診療で体感・体験されたということです。このあたりのことは、『自分へと続く道 体心点の発見』(大伴由美子著 地湧社2013年)の「遥かなる日々に」という詩が参考になると思います。この女性は素直な方だからと思いますが、再診時には精神的にはだいぶ楽になり食生活の改善もあって体重も減り始めていました。もちろん、まだまだ調子が良くなったり悪くなったりの波はあるでしょうが、坐禪和讃や「遥かなる日々に」を何度も読んで潜在意識に沁み込ませることで、不安の軽減・解放、自信の芽生えに伴って症状の改善、運命の改善が少しずつですが見られるようになると思います。一種の認知行動療法です。他に、越中おわら節の「浮いたか瓢箪(ひょうたん) 軽そうに流れる 行先ゃ知らねど あの身になりたや」といった唄や、讃美歌291「主にまかせよ」等の記載された拙著『円通毉療の日常臨床』もご紹介しました。この本を指さすだけでも、筋力反射テストでグッと指が締まることも体感されました。前者の越中おわら節は、瓢箪のように自我が空っぽになって瓢箪と言う真我のなりゆきに任せれば、急流でも激流でも飄々(ひょうひょう)と流れて(人生を歩んで)いくことができますよと唄っています。「自我の自分」は「自我の自分」なりに真心を込めて人生を生きていけば、後は空っぽになって「真我の自分」中心に生きればいいのだよということです。後者の讃美歌は、➀「主にまかせよ 汝(な)が身を 主はよろこび助けまさん 忍びて春を待て 雪はとけて 花は咲かん 嵐にも闇にも ただまかせよ 汝が身を」、➁「主にまかせよ 汝(な)が身を 主はよろこび助けまさん 悩みはつよくとも みめぐみには 勝つを得じ まことなる主の手に ただまかせよ 汝が身を」という歌です。主は「天にまします我らの父よ」と主の祈りにありますが、実は自分も小さな主(主の子であり主の縮図)なのです。それは真我のことです。その真我に任せましょうということです。今回ご紹介したような診療を通じて、自分の中に存在する真我に氣づいていただくことが、直面する病の治療に止まらず、昨今の不安な時代を生きていくうえで大いに役立つのではないかと考えます。その真我ですが、白隠禪師の坐禪和讃に、「衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし・・・」とあるように、氷は個々別々の自我で様々な形や大きさを呈しますが、水は個々別々の自我を超えた普遍的な存在である真我です。この真我は自分であると同時に他人でもあるのです。これも日常診療で体感・体験していただけます。例えば、患者さんの指が痛くて筋力反射テストができない場合、付き添いの方に患者さんから離れた所から患者さんを左手で指差していただき、患者さんに言霊を発していただいたり薬や本を指差していただいた時の付き添いの方の右手の指を使って筋力反射テストをするのです。すると付き添いの方の指を通して患者さんに関する結果がちゃんと得られるのです。また、これは融通念仏の原理ですが、患者さんに南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とかありがとう或いはアーメンその他種々真言等の言霊を発していただくと筋力反射テストで指がガッチリと締まりますが、患者さんの代わりに付き添いの方が患者さんに向かって同じ言霊を発していただいてもやはり患者さんの指がガッチリと締まります。患者さんと付き添いの方は見かけは個々別々(氷)ですが、みんな一つ(水)であることがわかるのです。言霊は空間を超えて融通するのです。もう一つは、ある薬がある時点で適すると筋力反射テストで確認します。ところが一定の期間を経た後では飲食や精神状態の変化あるいは氣候の変化などによって合わなくなることがあります。すると筋力反射テストで筋力は低下して弱くなります。ところが以前の適合していた期日を言霊で発すると指はガッチリ締まります。これは言霊が時間をも超えるということです。こうしたことを積み重ねていくにしたがって真我の理解が深まっていきます。

  • 21Apr
    • 自我と真我(もう1人の自分)との対話の画像

      自我と真我(もう1人の自分)との対話

      ふつう、自分とは覚醒時に意識できる自我の自分です。その自我の自分が自分なりの人生を生き、社会生活を営んでいるとされています。ただ、非覚醒時、特に熟睡している時には自分という意識はありません。また、自分の仕事なり趣味に集中し"没"頭している時も文字通り自我の頭は没しており、自分という意識はありません。しかし、自分の覚醒時・非覚醒時を問わず身体〔そしてたましい[玉し霊]〕の方は、日・月・年等に連動した自律"神"経のリズムを中心に生きている或いは生かされていると言えます。これがもう一人の自分である真我です。日・月・年等のリズムとは太陽・月・地球を中心に太陽系・銀河系を含めた宇宙全体〔神仏〕のリズムです。これは"本"来の"能"力である本能による生命の営みとも言えます。この本能としての生命の営みを改めて認識することが、人生において極めて重要です。この生命の営みとは自我の意識の奥で無意識、厳密に言えば潜在意識の奥の宇宙意識〔仏教的に言えば阿頼耶識[あらやしき]さらに阿摩羅識[あまらしき]或いは神意識〕である真我の営みであり、肉体レベルでは自律"神"経に連動していると考えられます。ここで大切なのは、これら自我と真我、つまり地〔地上三次元〕で生きる自我と天〔宇宙高次元〕由来の真我を結びつけることです。それを表すのが巫の字であり、その巫を土台とする医療が毉療であると考えます。自我の特性は分別知であり、真我の特性は感性であり直感ですが、具体的には自我の分別知で一所懸命に何かに打ち込み没頭すると高次元では感性・直感が働くようになって発明や発見が生まれたり、三次元を介して神仏や竜神等の眷属が姿・形が現れたりします。何れも、自我の自分と玉し霊〔たましひ=たましい〕の真我との対話であり宇宙大自然との対話でもあると言えるでしょう。知人からの最近の情報ですが、図1や2は竜神との遭遇です。図1は東寺で遭遇した竜神雲です。私も昔30代の若い頃、ある竜神の神法に参加するか否かで迷っていた時、空に大きな竜神雲の顔がくっきりと現れたことがありました。たまたまの偶然かと思いきや、自転車で20〜30分ほど走って信号で止まった時に空を見上げるとまた正面に大きな竜の顔が出現しており、これは神法を受けよということかと受け止め腹が決まったのでした。図2は蝋燭に現れたと見られる竜神です。私も自分では確認していませんでしたが、ある神社で自分の供えた蝋燭〔名前が書いてある〕が燃えた跡に竜の尾が現れていたよとそれを見た人から言われました。図3は立石寺での円状の影〔よく観ると鱗状の模様が観てとれるので竜かもしれません〕が現れました。自分ではその時はまったく氣づきませんでしたが写真には撮れていたということです。丁度、その1年前に『生命毉療は円の毉療』を出版した後で、その頃は円や円通の概念で心の中で盛り上がっていた時でした。その他、日常生活でも、人や物に偶然意味のある出会いがあったり、神社参拝の時に神社に着いた途端に太陽の光で明るくなったり、参拝時に垂れ下がっている白い布〔御幌:みとばり〕が大きく開いたりするのも周囲との対話です。ただ、このような対話が起きるには、神仏や竜神のような高位の眷属と心の波長が合っていることが条件になります。それは我も人も共に幸せになるために役立ちたいという波長です。神仏の心とは私たちすべての子供が幸せになって欲しいという親心だからです。これを続けていけば、さまざまなメッセージを無意識に受け取っているもう一人の自分つまり真我の存在がわかってくると思います。このあたり、とてもわかりやすいのがユーミンさんの『やさしさに包まれたなら』で、"目にうつるすべてのことはメッセージ"がキーフレーズになります。この曲は易しそうでとても奥深いものがある名曲です。これは普門示現〔ふもんじげん〕つまりあらゆる場面は観音様の現れだということにもつながるのですが、興味ある方は拙著『太極円通図から理解する般若心経と理趣経』をお読みいただければと思います。自分の目にうつるすべてのことは、同時に自分でもあるということもわかってくると思います。さらに観音とは観る存在であると同時に観られる存在でもあるということ、そして自他内外一如で誰もが天上天下唯我独尊ということもです。そして、それがこれまで謎とされてきた五臓六腑の内の一つである三焦(さんしょう)の謎解きにもつながるのです(詳細はまた別の機会に…)。〔図1〕〔図2〕〔図3〕

  • 02Apr
    • ウロボロスの蛇〔輪〕の画像

      ウロボロスの蛇〔輪〕

      前回は「私たちは天地〔神〕の分身・化身」であるというお話でしたが、今回は、私たち人間のみならず「万物・万象が天地〔神〕の分身・化身」であり、互いに対話ができるというお話です。これについてはこれまでに何度か提示していますが、ウロボロスの蛇〔輪〕がわかりやすいかと思います。図1ですが、これはノーベル物理学賞受賞者のグラショーの解釈によるものです。ミクロは素粒子レベルからマクロはグレートウォールまでの万物・万象が回転していることを表しています。そして、蛇の頭と尾つまりマクロとミクロはつながっています。図1 グラショーによるウロボロスの蛇〔輪〕この回転の基本形は、当院の解釈では「中心帰一の回転コマ運動」であり、図2Aの太極円通図で表すことができると考えます。陰陽が引(惹)き合いながら少しずれて回転するもので、揺らぎのある渦状回転とも言えます。台風の動き等を想像していただければよいと思いますが、古事記のイザナギ・イザナミ男女両神の国生み神話にヒントを得た解釈です。そして、この太極円通図の陰陽の回転は横軸に伸ばすと図2Bのような波の動き、つまり波動図にもなるのです(詳細は『究極の医療は円通毉療』等)。図2A 太極円通図 図2B 波動図図2Aを粒子とみなし図2Bを波動とみなすと、私見ではありますが、両図は「粒子⇔波動」という量子力学を表すものであるとも考えます。そして、この陰陽の適度の引(惹)き合いを愛と性(生[なま]の忄[心])の本質であると考え、そこから性の肯定を前提とする理趣経の解釈にもつながりました(『太極円通図から理解する般若心境と理趣経』)。これはつまり万物万象に愛と心が存在するということです。ところで、聖書では神に関して二つの代表的な表現があります。一つは「我は初め〔アルファ〕であり終わり〔オメガ〕である」という表現ですが、これは円のことです。円はどの点をとっても初めであり終わりであるからです。ただ、神が円であるとの記載は聖書には見当たりません。また、聖書を扱う教会関係者や学者のなかで神が円であるとか中心帰一の回転コマ運動をするとかを説いている方も調べた限りではおられないようです。私の知る限り唯一、聖アウグスティヌスが「神の本質とはどこにも中心があって円周のない円である」としています。これは学生時代にアメリカの精神的独立の父とも呼ばれたR.W.エマーソンの著書から学びましたが、本当に納得できたのは当院を開業してから数年経った頃でした。それがきっかけで『生命毉療は円の毉療ーカゴメ歌の謎解きと医療哲学ー』をまとめたのです。もう一つは「初めに言〔ことば〕ありき、言は神と共にあり、言は神であった、言は神と共にあった、万物は言によって成り、言によらずして成ったものは一つもなかった、言の内に生命があり、生命は人を照らす光であった」です。言は口に出してみるとわかりますが、波動つまり陰陽の波のバイブレーションであることがわかります。図2Bの形になりますが、これは図2Aの太極円通図の陰陽による中心帰一の回転コマ運動をする粒子のもう一つの表現形でもあると観ることができます。つまり、聖書の神の定義とは、「粒子⇔波動」という量子力学で解釈可能であると、あくまで私見ですが考えられるのです。すると、図1のグラショーによるウロボロスの蛇が示す、宇宙の万物・万象が中心帰一の回転している図は、宇宙の万物・万象が粒子であると同時に波動でもあり、それは即ち神であることを示していることになるでしょう。汎神論です。理屈の上ではこのような表現になりますが、大事なことはこれを実感・体感することです。一番おすすめなのは、空(特に夜空)を見上げてゆっくり味わってみることです。空つまり宇宙はUniverseですが、これはUni(一つに)verse(回るもの)であると同時に、太陽や月が輝き、そして星々が微かに煌(きら)めき揺らめいて私たちに囁(ささや)きかける存在(波動)でもあります。坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」(永六輔作詞、いずみたく作曲)の中に“小さな星の 小さな光が ささやかな幸せを 歌っている”などの詞を口ずさむとわかると思います。粒子でもあり波動でもある星々が私たちに語りかけているのが実感できるでしょう。また、広大な海原を眺めるのもおすすめです。海水の波の動きつまり波動はその音と共にとても心地よいものです。天の波動が父なら海(=産み)の波動は母(海の字の中に母がある)と言えるでしょう。空海さんは室戸岬の洞窟で求聞持法(ぐもんじほう)を修行されていた時に、目にする光景が空と海であったところから空海を名乗られたとされます。また、もっと身近な犬や猫、よく見かける鳩や雀や鯉その他の動物たち、森や林の木々や花等が風に揺られる様等々、それらの姿や動き・声・表情等に対してこちらが何かを感じて思いを寄せるのも互いの楽しい対話です。あるいはアーティストによる音楽や絵画・彫刻等の芸術作品との対話もありです。これら万物万象はすべて陰陽が引(惹)き合う愛のさまざまな表現でもあるのです。私たちは、表面自我の分別知の世界は様々な喜怒哀楽や善悪・上下・貧富等々の二元論の世界ですが、その奥にそれらを超えた天地〔神〕の分身・化身の世界・愛の世界を読み取り感じることができるということです。これらを感じ取るのは分別知の奥の感性に関わる玉し霊(たましひ)です。玉し霊が体に止(とど)まったのが霊止(ひと)ですが、玉し霊は玉であり英語ではSpinするSpin・ritつまりSpiritになります。この形容詞がSpiritualですが、天に近い山や海に近い海辺に行くと、Spiritualな波動に浸れます。あるいは人氣(ひとけ)のない自然の中で回峰したり流れる水の中で滝行をしたりするとSpiritualな部分が自ずと意識され体感できるようになります。それは分別知から解(ほど)けて脱(ぬ)けること(=解脱)につながります。高野山や比叡山・身延山とか山に仏教の総本山があったり、寺の門を山門といったり、人が山にいると仙人であり谷にいると俗人といったりするのもわかりやすくなるでしょう。こうして自分も他人も含めて万物万象が実は神あるいはその分身・化身であることを味わうように心がけていると、その自覚が少しずつ深まるとともに神なる万物万象との対話が体感できるようになってくるはずです。現在は疫病や戦争等で苦しい分断の時代であると言えるでしょうが、分断とは聖書的にはエデンの園の知恵の木(Tree of Knowledge)の実を食べていることが顕著に表れている時代であると言えます。KnowledgeのKnはナイフ(Knife)のKnと同じで切ること即ち分別知の象徴であり、ここから科学(Science)が生まれたと考えられます。科学(Science)のSciはハサミ(Scissors)のSciと同じです。科学は地上で生きるためには必要不可欠ですが、分別が高じて分断に至ると科(とが=罪)の学になってしまうのです。分別は大切だけれども分断は不幸を招くということです。知恵の木の実はエデンの園のもう一方の生命の木(Tree of Life)の実つまり神の木の実との両立が必要なのです。だからエデンの園の中央に二本の木が並べられていたのだと思います。聖書には「言は神であった」、「言の内に生命があった」と書かれていますが、同時に「アルファでありオメガである」とあるように神は円でもあるのです。言=神=生命=円です。つまり知恵の木に象徴される分別知は地上では必要不可欠だけれども、それは同時に生命の木に象徴される円に収まらなくてはならない。それを表しているのが図2Aの太極円通図です。陰陽に象徴される分別知そしてその延長にある科学が必要不可欠であると同時に、それが一つの円に収まることが必要不可欠であるいうことです。因みに、これは二宮金次郎(二宮尊徳)が唱えた一円融合の思想にもつながります。かつて、多分どこの小学校にも二宮金次郎像(図3)が置かれていたと思います。でも一円融合とか報徳といった大切な思想的内容が教育されたことはほぼなく、歩きながら本を読むのは危険だとか戦時教育の名残だとかの理由で像が撤去されてしまったのです。これからの時代を生きていくうえで一円融合の思想はぜひとも再認識されるべきではないかと思います。図3 二宮金次郎像報徳博物館HPより

  • 24Feb
    • 私たちは天地〔神〕の分身・化身の画像

      私たちは天地〔神〕の分身・化身

      私たちは皆んな天の空気を呼吸し、海を含めた地の産物を食しては大地に排泄しながら生き、母体から肉体を得て生まれては老化して死に至ると大地に還ります。これは肉体レベルの話ですが、玉し霊〔たましひ:たましい〕も母体が悪阻〔つわり〕の頃に天の大霊〔たいれい〕の分け御霊〔わけみたま〕としてやって来て、潜在意識の自分が決めた然るべき縁のある母体に宿り、学び成長して肉体の死と共に天に帰って行きます〔帰天・昇天〕。図8の自然界円通図〔『究極の医療は円通毉療』より引用〕が参考になるかと思います。〔図8〕つまり私たちは誰もが同じ父なる天〔大霊〕と母なる地〔大地〕の化身なのです。さらに地は天の化身でもあるので、私たちすべての大元は天であり大霊であり個々人はその分け御霊であるということです。何が言いたいかといえば、私たちは皆んなが本来一つの大霊でありその分け御霊としての個々人があるということです。つまり私たち皆んなが基本的に天地の神なる大霊の分身であり化身なのです。その現れが言霊であり形霊〔かただま〕であり色霊〔いろだま〕や数霊〔かずたま〕等々だったりするのです。このような言霊・形霊・色霊・数霊等々を日常生活で活用していると、見かけは個々別々の私たちですが存在の根本では一つである、つまり大霊であることが実感できるようになってくるでしょう。例えば、Aさんが「ありがとう」の言霊を有声でも無声でも唱えてAさんにO-リングテスト〔ORT〕や持ち上げテスト〔MT〕等の筋力反射テストを行うと筋力が瞬間的無意識的に増強しますが、遠く離れたBさんがAさんに向かって〔Aさんをイメージして〕唱えてもAさんに同様の反応が現れます。言霊は空間を超えるのです。因みに、「ありがとう」の言霊で筋力が増強するのは、「ありがとう」の言霊を言われた本人の筋肉が無意識にウェルカムしてリラックスするために筋力が増強するというメカニズムだと考えられます。また、白紙にAさんの名前と生年月日を書いて、その紙にBさんが「ありがとう」を唱えてもやはりAさんに同様の反応が距離に関係なく現れます。この場合は紙に書いたAさんの名前は形霊になります。これはお札・お守りや護摩木の原理にも通じます。お札やお守りや護摩木に祝詞や祈り・呪文等の言霊が染み込んでプラス効果を発揮するようになるのです。また、Aさんに対する薬の処方を書いた紙〔形霊〕にAさんが左指をさすとその処方が適合する場合は右指に筋力増強の反応が見られます。しかし、同じく指をさして違う日付けを発音してもらうと合わない場合は筋力増強の反応は現れません。再度、合う日付けを発音してもらうと筋力増強反応がやはり現れます。言霊は時間も超えるのです。こうして言霊が時空を越えるのも、AさんもBさんもテストをしている私も、もともと底辺では大霊として一つだからだと考えられます。臨床応用では次のようなことも可能です。生年月日〔数霊〕で体質や性格や飲食の傾向やバイオリズムがわかります。医学の父たるヒポクラテスや精神分析の大家ユング、最近では日本でも少数の医師が占星術を活用しています。中国でも10年以上前になりますが、国際学会で占星術を使った臨床例の発表がありました。生まれた日〔星〕の裏〔=心=うら〕を縄を綯(な)うように裏綯(うらな)うのです。舌診や腹診や脈診等(いずれも形霊)で全身の状況が判断できます。部分即全体なので舌や腹や脈といった部分が全身状態を現しているのです。その方の服装の色〔色霊〕等もその方の診断に役立ちます。このようなことを繰り返し体験しているうちに、表面の自我意識では不思議に思われるのですが、そのうちにやはり皆んなが大霊であり神であることの理解へのきっかけになっていきます。白隠さんの「衆生本来仏なり」が理解できるようになります。医療とは本当は天と地が、そして自我の自分と分け御霊なる真我が一つであることを表す巫を土台にした毉療ですが、その毉療と宇宙〔ウ〕を示す〔=宗〕教えである宗教が一如であることもわかってきます。ヒポクラテスの誓いが神に対しての誓いであることも納得できてきます。また、表面自我の世界では様々な人間模様があって、たとえ善悪や好き嫌い・貧富・上下・性別その他社会的レッテルの違いがあっても、実は皆んなが本当は神であることがわかってくるので、自分はもとよりどんな人も大切だし軽んじてはいけないことがわかってくるのです。特に巫については巫女ということばがあるように女性は神に近い存在であることもわかってきます。そもそも神社の形は女性器を象ったものであり、道教〔タオ〕では「玄牝の門」といって崇敬の対象です。理趣経の意味もわかってきます。このあたりは『太極円通図から理解する般若心経と理趣経』をご覧ください。要するに、自分も他人も軽んじてはいけないことが徐々にわかってくると思いますが、仏教では法華経の常不軽菩薩品〔じょうふぎょうぼさつぼん〕の章に説かれています。常に人を軽んじない菩薩〔お釈迦さんの前世の姿〕の行(ぎょう)です。性別や身分とかの社会的レッテルを超えてすべてが元は自分と同じ大霊であるというのが根幹になるのです。さて、「私たちは天地〔神〕の分身・化身」という今回のお話は如何だったでしょうか。さらに私たち人間だけではなくて「万物万象が天地〔神〕の分身・化身」なのであり、私たちは万物万象と対話できるのですが、長くなるのでこのあたりで今回は終わります。興味のある方は『太極円通図から理解する般若心経と理趣経』をご覧ください。

  • 13Jan
    • 皇位継承問題における陰陽と中心帰一の画像

      皇位継承問題における陰陽と中心帰一

      皇位継承に関しては、これまで通り男系であるべきとか、女系でもよいとか、議論があります。これについて、円通毉療における陰陽と中心帰一の思想・哲学からお話してみたいと思います。円通毉療では、「生命〔広義〕とは宇宙大自然のミクロからマクロに至る万物万象の"中心帰一"の回転コマ運動をする円・球である」とし、その相似象的集合体が宇宙(大生命)であると考えます。因みに、宇宙とはuni(一つに)verse(回るもの)ですが、そもそもuniverseの語には”中心帰一の回転運動”の意味が読み取れるのです。これは古くはウロボロスの蛇〔輪〕で表されたものであり、ノーベル賞物理学者グラショーによる現代版のそれが図1です。これは輪円具足とも言われる密教の曼荼羅にも通じると思います。図1 グラショーによるウロボロスの蛇〔輪〕図2 太極円通図そして、この中心帰一の回転コマ運動の基本形が図2の太極円通図です。一般には太極図と呼ばれる陰陽の回転図ですが、これを中心帰一の回転”コマ”運動と観たのは、前々回のブログでの説明のように、古事記の国生み神話にヒントを得たからです。天の御柱(あめのみはしら)の周りを伊邪那岐〔いざなぎ〕・男神が左(火足り : 陽)側から、伊邪那美〔いざなみ〕・女神が右(水極 : 陰)側から回って出会ったところで声かけをしたのですが、最初は女神から「良い男ね」と声をかけたら国生みがならず、次にやり直して男神から「良い女だね」声をかけたら国生みが成ったのです。この声かけやり直しによる微妙な揺れによって、男女の陰陽両神による惹(引)き合いから生じる中心帰一の回転”コマ”運動あるいは揺らぎのある渦状運動が生まれて国生みが成ったのですが、そもそも男神という陽が主で女神という陰が従でないと国生みは成らなかったということです。これは主従の関係であり陰陽の関係であって、男女不平等とか男女不同権云々の話ではありません。ちょうど神前での柏手を左手を前に右手を少し後ろにして打つようなもので、これが陰陽による立場の違いの関係(左は火足で右は水極)ではあっても不平等や不同権の話ではないのと同じです。国生み神話は、男神の「成り余れるところ」を女神の「成り合わざる」ところに刺し塞ぎて、という神聖なる生殖行為によるものですが、この元初めの夫婦の交わりの行為にも陰陽のありようが読み取れます。男神が能動的・陽で女神が受動的・陰の構図です。植物学者リンネによる♂♀記号も男女の心身を象徴するもので、男女陰陽の能動性と受動性、硬性と軟性など、生命の根源たる生殖器を中心とする解剖生理学上の特性や、尻尾を回転させながら卵子に向かう精子とそれを待ち受けて受容する卵子をも象徴しているように見えます。要するに、陰陽による中心帰一の回転コマ運動を基本とする宇宙万物万象の成り立ちは、無極にして太極から陽系・男系の初動をもって始まるということです。ポイントは陽主陰従で陰陽が惹(引)き合って中心帰一することです。そこから万物の陰陽調和的創造的回転コマ運動が生まれるわけです。中心とは無極にして太極でいわば原点で、それが陰陽に分かれて中心帰一の回転コマ運動(渦運動)することが大切なのですが、中心帰一とは家系なら産み育ててくれた父母から祖父母そして曾祖父母から先祖代々へと辿ることです。これは陰陽の関係からするとやはり男系で辿るのが中心帰一に適う自然な形なのです。昔から、女が男の家の女になって(嫁いで)嫁になる、家に入った嫁は家内であり奥に居る奥様でもあるのです。家(ウ)に女が居る(ウ+女=安)のが安らかということです。少なくとも日本の伝統的な文化・歴史においては、これが自然な姿ではないかと思われます。日本以外でも、イギリス発祥でアメリカで現在の形となった野球についても、試合は投手の第一球から始まります。投手に対して捕手は女房役といわれ、チームの勝敗は投手には付きますが捕手には付きません。これも投手を陽、捕手を陰とする陰陽関係であって不平等とか不同権の問題ではないのです。現代の多様性社会ではこのような陰陽の基本的なことがそのまま通用するとは思いませんが、宇宙の摂理たる陰陽の基本は認識しておく必要があると思います。そして、これを国民の中心帰一の存在である皇室に当てはめると、やはり国民の中心帰一の円満円滑な平安・平穏のためには男系の皇位継承があるべき姿といえるでしょう。日本の皇室の歴史を顧みると、初代の神武天皇から始まってずっと現在の126代天皇に至るまで、10代8人の女性天皇(ただし、すべて父方に天皇の血筋を引く男系)を含めてずっと男系天皇が続いています。さらに神武天皇をさかのぼると鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、火折尊(ほおりのみこと: 山幸彦)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)と男神・男系が続き、最終的に皇祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)に行きつくのです。ただ、皇祖神である天照御大神は一般には女神とされていますが、男系ならば男神ではないかという疑問が生まれるかもしれません。実は男神であるという説もあります。そもそも天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)は天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)で生まれたとされていますが、天照御大神と須佐之男命の関係は姉と弟という関係であり、このあたりの説明には難しいところがあります。私見では、男神である伊邪那岐〔いざなぎ〕の左目(火足りの目:陽の目)から生まれたのが天照御大神で太陽を、右目(水極の目:陰の目)から生まれたのが月読命で月つまり太陰を、中央の鼻から生まれたのが須佐之男命で地球を象徴するものと考えます。これは地球から観た時の太陽と月と地球の関係です。とすれば、天照御大神は太なる陽であり男神といえるし、ギリシャ神話でも太陽神は男神です。ただ、北欧神話では女神とするところもあります。対して、天と地の関係で太陽と地球の関係を観ると、天の太陽は父(天にまします父)であり、地の地球は母(大地の母)と位置付けられます。ということは一般的な捉え方とは異なって、天照御大神が男神であり須佐之男命が女神ともいえるのです。実は、そもそも男の中にも女の要素が、女の中にも男の要素があります。大本教では女である出口なおは変性男子(へんじゃうなんし)で女体男霊であり、男である出口王仁三郎は変性女子(へんじゃうにょし)で男体女霊とされていました(霊界物語第十六巻)。確かに写真を観るとなおには男性らしさ、王仁三郎には女性らしさが感じ取れます。また、歌舞伎で男性が女性を演じたり、宝塚歌劇で女性が男性を演じたりするのも、男女の微妙な陰陽関係の表れなのかもしれません。陰陽の根幹である『易経』においても、離火(りか)の中に陰卦があり、坎水(かんすい)の中に陽卦があります。図2の太極円通図でも、陽の勾玉の中に陰の●があり、陰の勾玉の中に陽の〇があるのです。そこて私なりの捉え方ですが、陰陽の詳細はさておき、とりあえず太陽系では太陽が中心なので天(あま)を照らす太陽を象徴する天照御大神を無極・太極と位置づけ、そこから天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)と栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)、次いで瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花佐久夜姫(このはなさくやひめ)・・・と現在までずっと男系主体の陰陽関係で続いてきているということです。ということで、皇位継承についての私なりの結論は男系継承が摂理に適うものと考えます。男系の流れの中で女性天皇はあり得ますが、女系天皇はあり得ないのです。現在、皇位継承は男系か女系か、男性天皇か女性天皇かの是非についてマスコミが国民にアンケートを取ったり、有識者によって議論されたりしますが、陰陽の観点からの議論はほぼ皆無です。実はとても大切なことではないかと思われるのにです。ついでながら、皇位継承問題だけでなく、現代(戦後教育以降)は陰陽論的発想がほぼ欠落してしまっています。艱難汝を玉にす、ピンチがチャンス、苦難は幸福の門、徳を積めば福がくる、人を助けてわが身助かる、義務があっての権利、夜があるから昼がある、息を吐くから息を吸う(呼吸)、与えよさらば与えられん等々、図2のように自分にとって陰(出すこと)があってこそ陽(入ること)があるという陰陽の関係(陽陰の関係ではなく)をこれからの社会は再認識すべきではないかと考えます。

  • 27Nov
    • 唾石症

      中年女性。3ヶ月半ほど前から飲食時に左顎部の腫れと痛みが発現。耳鼻科で耳下腺の唾石と診断されますが内部からも外部からも除去が難しく、経過観察とされるも変化なし。咀嚼時に痛むので漢方で何とかならないかと受診。2ヶ月後に大学病院に紹介される予定だけれども待てないとのことでした。拝見すると、左耳下腺部ですが、経絡的には三焦経〔さんしょうけい〕と小腸経〔しょうちょうけい〕の分布領域であることが分かりました。前者はあれこれ氣がつくとか氣を使い過ぎる時に、後者は考え過ぎるような時に活性化します。それが積み重なると両経の氣が鬱積・加熱するため唾液の濃度が上がって唾石ができると想像されました。生年月日的には元々感性と知性が過度に働く方のようですが、お話を聞くと、あることでストレス過剰で三焦・小腸両経が過度に働いていることが推察されました。これによる両経の鬱熱が唾液に石を形成せしめたようです。そこで、両経を緩める脾経と肝経のツボに鍼を打つと瞬間に左耳下腺部の圧痛が消え腫れも少し引きました。加えて、自律神経を整え経絡の熱を冷ます漢方薬を処方しました。一週間後、まだ食事の時に左耳下腺部が膨らんでくるとのことで再度鍼を打ちましたが、三週間後のか来院時には腫れも痛みもほぼ消失しました。さて、治療は以上のようにスムーズに治ったのですが、このプロセスのなかで一番大切なことは、何故このような形で唾石が生じたのかということです。これが理解されないと将来また再発するかも知れません。病氣とは学びであり、それによって得られる喜びでもあるのです。この方は今回、ストレスで三焦経と小腸経に詰まりが生じ熱が生じて唾石が形成されたわけですが、その大まかなメカニズムの理解と共に、ストレス緩和にどう対処するかが大事なポイントになります。この方の場合は子育てです。10代のお子さんが、元々よく勉強のできる優秀な方なのですが、学校が嫌になっているとのことで、それがストレスの原因のようです。既述のようにこの方は感受性が強く頭がよく働くので、無理のないことですが、ついついイライラが高じて、それが左側の三焦経や小腸経に熱をもたらし石を生じさせたのだと思われます。親子関係については、あまり親の観点からあーした方が良い、こーした方が良い等と子に期待せず、心を平和にして見守ってあげるのが基本かなと思いました。親子の出会いについては、当院の2018年5月21日のブログ「運命と宿命と天命」に大伴由美子先生のご著書『自分へと続く道-体心点の発見-』のなかの「遙かなる日々に」という詩をご参照ください。この世での出会いというか縁というものがわかりやすいと思います。

  • 11Nov
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      物質と言霊の相互転換

      前回のブログで言霊(ことだま)や形霊(かただま)が物質に変化を起こすことをご紹介しましたが、何故そんなことが起きるのかについて述べたいと思います。霊は「れい」であり「たま」でもあるのですが、二次元的には円であり三次元的には球です。英語ならSpiritもしくはSoulになります。当院では、この円あるいは球を図で表したものが図1の太極円通図(一般には太極図)だと考えます。これは道教や儒教の象徴でもありますが、太極図の中に読み取れる陰陽の境界のS状の湾曲線はSpiritやSoulのSにも見えます。Sphere(球)、Space(宇宙)=Universe(一つに[Uni]回るもの[verse])のSでもあります。英語圏でも、これらSpiritやSoul等のSの付く単語の実体は太極円通図の形でイメージされていたのかもと思ってしまいます。さて、この太極円通図は回転しているのですが、それは私見では「中心帰一の回転コマ運動」であると考えます。これは、古事記の国生み神話にヒントを得ました。伊邪那美(いざなみ:女神)と伊邪那岐(いざなぎ:男神)の陰陽神が天の御柱の周りで互いに惹き合って回転しながら声掛けをしたのですが、最初は女神の方から「良い男ですね」、次いで男神が「良い女ですね」と声掛けをしたのですが蛭子(ひるこ)という不具の子が生まれました。そこで上位の神にお伺いを立てたところ、声掛けの順序が逆だったと。それで今度は男神の方から声掛けをしたら国生みが成ったのです。この声掛けやり直しが回転の”対称性の破れ”につながり、揺らぎにつながり、回転“コマ”運動を生み出したと考えました。それは渦巻き状の回転とも言えます。鳴門の渦潮のようにです。このやり直しは失敗のようで実はそうではなく、揺らぎを生み出すためには必要不可欠なものです。それが証拠に、不具の子である蛭子は、えびす=恵比寿であり西宮神社の御祭神になって崇拝されています。ところで、量子力学では“粒子と波動の二重性”ということが言われますが、粒子に関して、「陰陽が引(惹)き合う中心帰一の回転コマ運動をする」という発想は見当たりません。なので、“粒子と波動の二重性”と言われてもなかなか理解が難しいわけです。でも、粒子に太極円通図のように回転するという発想があれば、これを横軸に伸ばせば波の動きつまり波動となり、図2の波動図になるのです。つまり、太極円通図のような形での粒子であれば、それは同時に波動でもあることになるのです。そして仮に、粒子を物質とし波動を心・氣・霊とします。するとある人と接したときに物質としての身体を観ると同時にその人の心・氣・霊なるものを感じ取ることができます。つまり、物質=波動(心・氣・霊)であり、同時に相互に転換するという意味で物質⇔波動(心・氣・霊)であることも了解できるのではないでしょうか。そもそも物質と言ってもミクロの世界では素粒子から原子・分子などすべて動的に回転コマ運動をしているわけで、物質が固定的な存在ではないことは常識レベルのことなのです。人間関係をこのような視点で観ると、相互に影響し合うことなども理解しやすくなると思います。ただ、物質と波動の何れが主かと言えば、波動が主です。昔から「念(今の心)ずれば花開く」とか、「霊主体従」とか言われてきた所以です。物質は三次元的な存在ですが、波動はそれ以上の存在なのです。これは日常診療で患者さんにも体験・体感していただいてます。このようなことを押さえておくと、前回のブログのような言霊や形霊が物質を形成することも理解できるのではないかと思います。だから、ことば、つまり言霊の使い方というのはとても大事なことですよ、心して使いましょうとなるのです。因みに、聖書では神のことを「我(神)は初め(アルファ)であり終わり(オメガ)である」、「初めにことばありき、ことばは神と共にあり、ことばは神なりき」という神の定義ともいうべき記述が二カ所(厳密には三カ所ですが)あります。これについての明確な解説には出会ったことがありませんが、私見では以下のように考えます。前者は円のことで、厳密には中心帰一の回転コマ運動をする円で、図1の太極円通図で表されると考えます。円はどの点を取っても初めであり終わりであるからです。聖アウグスティヌスは「神の本質とはどこにも中心があって円周のない円である」といっています。無限絶対無始無終なる宇宙は神であるとも言えますが、それはUni(一つに)verse(回るもの)と表現されています。後者は波動のことで、図2の波動図で表されます。日本語はシンプルなのでとても分かりやすいのですが、五十音を発音するとどの音もバイブレーションつまり波動を感じることがわかります。この波動、これはことばであり心であり氣であり霊でもありますが、これらが物質を形成すると共に、形成された物質からいろんなものを感じ取れるという関係です。以上、前回のブログの補足と致します。「言霊の幸わふ国」の日本人は、ほぼ忘れてしまったことば(言の葉)の大切さを再認識すべきだと思います。

  • 14Oct
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      合掌と呪文(広義のマントラ)によるコロナ予防

      今回は、合掌と呪文(広義のマントラ)によるコロナ予防についてのお話です。結論を端的にまとめると、時間がある時にはできるだけ➀合掌をしましょう➁マントラを唱えましょうの二点です。以下に解説です。先ず➀の合掌です。手は図1のように全身の縮図なので、合掌をすると両手が温かくなるように全身も温かくなります。循環が良くなるのです。円通毉療の観点からは全身の循環が良くなって円通するので免疫力がアップします。詳細は後で。図1手は全身の縮図(谷津光雄による)次に➁呪文(広義のマントラ)です。当院では呪(口+祝)文療法として提示していますが、真言(マントラ)・念仏・題目・十句観音経・ありがとう等々、自分に縁のある言霊(潜在意識が知っている)を活用する方法です。呪は「のろう=宣ろう」と解釈すれば抵抗感はなくなると思います。般若心経にも是大神呪是大明是無上呪是無等等呪と呪が説かれています。この呪文の働きですが、江本勝さん著の『水からの伝言』(1999年)に図2のような写真が載っています。ふつうに炊いたお米を二つのガラス瓶に入れ、二人の小学生が毎日帰校時に、一人は片方に「ありがとう」、もう一人がもう一方に「ばかやろう」と声をかけ続けて一か月経った時に、瓶の中お米がどう変化するかという実験です。図2 「ありがとう」 「ばかやろう」左側の「ありがとう」の方は半ば発酵状態で芳醇な麹のような香りになり、右側の「ばかやろう」の方は真っ黒に変色して腐りひどい悪臭がしたという結果でした。また、精製水を二つのガラス瓶に入れ、片方には「ありがとう」と書いた紙を貼り(図3)、もう片方には「ばかやろう」と書いた紙を貼って(図4)一晩置いて凍らせた時の写真です。すると片や美しい結晶が見られ、片や醜い形の結晶が見られたのです。これは声に出す呪文ではありませんが、言葉を紙に書いて瓶に張り付けたもので、形霊(かただま)の働きと言えます。図3 「ありがとう」 図4 「ばかやろう」  さて、少し詳しくこれらの現象を説明しましょう。先ず、➀の合掌です。合掌をすると両手の循環が改善し温かく感じられると同時に心も落ち着き安らかな気持ちになれます。これは必ず心身の健康に導きます。「炎症は万病の元」とされますが、炎症とは痛み・腫れ・発赤・発熱の四つが揃った状態です。そしてメインは痛みです。痛みは疒に通ですが、これは氣血が通らない、つまり循環しない状態です。だから氣血が滞って腫れや発赤や発熱が生じて炎症が起き、万病につながるのです。だから循環を良くする合掌が適度に行われると健康につながるということです。もちろんコロナの予防にもなるはずです。以前のNHKの番組「ためしてガッテン」でも、手の「にぎにぎ運動」がNO(一酸化窒素)を生じて、高血圧や狭心症・認知症・血栓症・コロナ感染症等への予防効果が得られることを図示していました。「にぎにぎ運動」も合掌も循環改善効果が期待できるのです。合掌はさらに六臓目の心包と六腑目の三焦を安定させる効果があり、精神の安定・安らぎにもつながります。さらに言いますと、手には心包と三焦を中心に肺・大腸や心・小腸の心や感情に関わる経絡も走っており、これらが相俟って心包・三焦の効果が増幅されるのです。合掌は世界中で地域や時代を問わず本能的に為されてきた神聖なる所作です。詳細は、ネットで「心包・三焦」でチェックなさってください。次に➁呪文ですが、図2はまさに呪文の効果を示すものです。言霊の使い方でこんなにも物質が変化するのです。このお米の実験では一か月間での変化を見たのですが、実は言霊の発声と同時に物質に変化を起こします。これは患者さんにも、筋力反射テストや持ち上げテストを通して日常的に体験・体感していただいています。プラスの言霊では筋力が増して重いものでも軽く挙がりますが、マイナスの言霊ではその反対で筋力が低下して軽いものでも重くなってしまいます。言霊の光の波動によって、ウイルスも変化すると思います。図3や4は、言葉を形にした形霊(かただま)ですが、「ありがとう」を発声したり(言霊・音霊)、「ありがとう」の字を無言でイメージしても(形霊)、筋力が増して重いものでも軽く挙げることができるし、「ばかやろう」では筋力が弱まって軽いものでも挙げることが難しくなります。言葉を紙に書いて形にした(形霊)ものを持ったり指さしても、筋力反射テストや持ち上げテストをすると体はほぼ同じように反応します。しかも、距離の離れた電話の向こうの人にも反応するし、何月何日と時間指定してもその時間での反応が出るのです。つまり、時間・空間を超えるということです。また、ある人をイメージしして呪文を唱えると即その人のところに反応が表れます。伝わるというより共鳴するようです。融通念仏のように融通するのです。一人の人が複数の人をイメージして言霊や形霊を発すると複数の人すべてに効果が及ぶこともわかります。一人の言霊や形霊が遍く多数の人に効果を及ぼす“一遍”効果です。一遍上人の念仏に通じます。祈祷やお祓いの効果も実感できるようになるでしょう。法然上人の『一枚起請文』や親鸞聖人の『現世利益和讃』(前回のブログの最後に一文をあげています)の真意も体で分かってくると思います。京都の百万遍の地名にもなった百万遍の念仏が後醍醐天皇の命で行われて疫病が収まったとか、平安時代の貞観年間に疫病が流行した際に蹴上近くの日向大神宮に勅願(天皇の命による祈願)が行われて清泉の水を人々に与えたところ収まったとかの話も理解できるのではないかと思います。このような話は怪しいとかとんでもないとか言われがちですが、戦後教育では「言霊の幸わふ国」という言葉はほぼ死語になっており、日本人の心がそもそも怪しくなってしまっているのです。再認識が必要かと思います。コロナの予防ですが、世間で言われていることにプラスして、合掌と呪文(広義のマントラ)の活用をお勧めする次第です。何時でも何処でも誰でも直ぐできるしお金もかかりませんので。

  • 17Jul
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      感性と知性の一円融合

      前回のお話で、感性を象徴する生命の木と知性を象徴する知恵の木の一円融合が大切であると述べました。これは、天と地、円と方〔◯と⬜︎〕、真我と自我、宗教と科学の一円融合にも通じます。では、どうすればそれが可能になるのか、その方法を今回は述べたいと思います。まず、地上生活では知性的科学的アプローチは必要不可欠です。取り敢えず、これに真面目に取り組んでいきます。それで順調に進んでいけばそれで良いのですが、もし行き詰まった時にどうするかです。その時は知性的科学的アプローチのスイッチを一旦切ります。そして頭が空っぽになれると自動的に感性が働くようになり、有益なアイデアが湧いて来るようになります。そのスイッチの切り方ですが、とにかく知性的科学的アプローチに行き詰まるくらいに没頭〔頭つまり知性を没する〕することだと思います。すると、自ずとスイッチが切れてアイデアが湧いてくるのです。その良い例に、ベンゼン環の構造を突き止めたドイツの化学者ケクレや、中間子理論を確立した湯川秀樹博士などがあります。何れもあれこれ考え抜いた末に夢の中で〔知性のスイッチが切れて〕ヒントを得たとされます。感性が自ずと湧き出たのです。エジソンが「99%の汗と1%の霊感」と言ったのも同じ原理だと思います。これらは科学における発見や発明ですが、宗教的な智慧〔知恵ではありません〕とか悟りも、坐禪や護摩行や滝行によって否応なしに知性のスイッチが切れることがきっかけになると考えられます。また、ケクレや湯川さんやエジソンのような偉人でなくとも、坐禪や護摩行や滝行のようなものでなくても、日常生活のなかで誰もが実践できる方法があります。それが、念仏や題目や真言等々の呪文です。般若心経に故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等々呪 "能除一切苦"〔悟りに至る智慧が呪文であることを知れば"一切の苦をよく除くことができる"〕とあるように、呪文が智慧である〔呪文に没頭すると自我が無になり空になるので、知恵が消滅する代わりに智慧が自ずと湧いてくる〕ということです。これは般若心経の呪文に限りません。空海さんは虚空蔵菩薩真言を百万遍唱えて悟られたとされますし、法然さんはとにかく念仏を唱えることが何より大切で、難しい教理も念仏を唱えるうちに悟れてくるものだと遺言書代わりの一枚起請文に書かれています。また、昔、妙好人と言われる方々がおられました。特別に仏教の教学を学ぶわけでもなく、只々、念仏を唱えながら悟りの境地に近づかれた方々を言うのですが、妙好人も感性と知性が一円融合して悟りの智慧を得たと見ることができます。念仏踊りに由来する阿波踊りも「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」と言われますが、踊って阿呆になりましょう〔知性・知恵を捨てましょう〕、そうすれば阿弥陀仏と一体になれますよ〔感性・智慧が授かりますよ〕ということだと思います。ただ、ここで大切なことは、神仏の親心に波長を合わせることだと思います。神仏からみた子供たちつまり私たち皆んなが幸せになって欲しいのが神仏の親心なので、「我も人〔他人〕も共に幸せになれるように」の親心にフォーカスしながら念仏なり題目なりを絶えず唱えるようにしていれば、所謂お陰的なことがよく起きるようになります。実際に数々の実例があります。最後に、親鸞聖人の現世利益和讃十五節のなかの一節をご紹介しておきます。南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重に囲繞して よろこびまもりたまふなりこれは本当のことであり、心包三焦を活用した筋力反射テストで体感できます。

  • 08Jul
    • 皮膚・腸・内臓は脳⁉︎の画像

      皮膚・腸・内臓は脳⁉︎

      今回もやはりNHKBSのヒューマニエンス絡みの話題です。2020年10月15日の番組「"腸"脳さえも支配する?」では、腸は脳の親とも言える存在であり、人格、感情、好みといった本能的な部分に深く関わっている等といった内容、2021年3月4日の番組「"皮膚"0番目の脳」では、皮膚は脳が生まれる前から存在する。視覚、聴覚、味覚の機能がある等といった内容の番組でした。腸の番組には東北大学心療内科教授の福土審先生、皮膚の番組では資生堂研究所主幹研究員であった傳田光洋氏が登場されていました。実はこのお二人、私が「三焦と心包の中西医結合的観点からの理解の試み」中医臨床〔2017年〕や「心包・三焦の謎解きと祈り・祭祀に果たす役割」人体科学〔2019年〕の二つの論文をまとめる時に決定的に役立った書籍の著者でした。 そもそもこれら二つの論文は、「表裏を為す膜状の臓腑で名ありて形なし」と言われてきた謎の臓腑である心包〔しんぽう〕と三焦〔さんしょう〕の謎解きをしたものです。五臓六腑という時の六腑目の腑が三焦、六臓六腑という時の六臓目が心包です。そしてこの解明により、大脳皮質の知性に対して皮膚〔肌〕感覚とかガッツ〔guts:gutは腸で漢和辞典では"心"とか"こころ根"〕とか内臓感覚〔腹の虫が収まるとか腹に一物など〕と言われてきた本能的・直感的なもの〔一言でいうなら感性〕が何処に由来するのか、或いは祈りや祭祀の際になぜ人は合掌したり手掌を胸に当てたりするのか、なぜ握手やハグやリストカットが行われるのかなどを概ね明らかにしたものです。これによって、医療と宗教が本来一如であること、今まで医療と言われてきたのは本来は毉療であることなどの認識に導かれるはずだと考えています。さて、詳細は興味ある方は前記論文〔2019年〕をネット検索で〔"心包三焦"で出てきます〕、或いは新著「太極円通図から理解する般若心経と理趣経」をお読みいただくとして、簡単に心包と三焦の概略をお話させていただきます。わかりやすいのはクラゲです。クラゲは脳もないし心臓もないのに環境に適応しつつ生きています。クラゲの基本形は皮膚に相当する表層細胞層が内部嵌入したもので、それが周囲の環境情報に対応して動き生きているのです。実は、これと同じことが人間でも起きているのです。受精卵がある程度成長すると、その表層細胞層〔広義の皮膚〕が内部嵌入して腸〔原腸〕ができ、さらにそこから内部嵌入して諸種内臓ができるのですが、すべて広義の皮膚の延長であり皮膚感覚の延長の本能的・直感的な生命としての脳の働きを持っています。広義の皮膚の一部は内部嵌入して脳脊髄神経を形成しますが、そこから人間の場合は大脳皮質が発達進化して知性が大幅に発達し言語を得ることになります。これが科学の土台となって文明の進歩に寄与するのですが、同時に本能的・直感的能力〔生命〕を包み込んでしまったのです。知性を得たことを聖書では知恵の木の実を食べたと表現し、本来の本能的・直感的な生命としての能力を包み込んだ、これが原始の包み〔つつみ→つみ→罪〕つまり原罪です。仏教では本来の生命としての能力を見失った、明らかで無くなったということで無明〔むみょう〕と言って四苦八苦の根源と位置づけたのです。知恵の木の実を食べて得た知性を基に科学が発達して今日に至るのですが、科学の科とは"前科者"の科〔とが=罪〕であり科学とは罪の学問でもあります。地上天国つまり弥勒の世を創るためには、もともと生命の木と知恵の木が置かれていたように、感性主体の生命の木と知性主体の知恵の木が一円融合することが大切なのです。感性は天に由来する真我の属性であり、知性は地に由来する自我の属性です。一旦離れた両者を再び〔re〕結び付ける〔ligion〕のが本来のreligionつまり宗教であり、両者を仲介〔mediate〕するのがmedi-cineつまり巫〔天と地を仲介し真我と自我を仲介する意味を持つ〕を土台とする本来の毉療なのです。宗教と毉療は本来一如なのですが、このことを現今の混乱の時代にこそ根気よく皆さんに認識し体感していただけるよう少しずつ努めていきたいと思っています。必ず楽天的で明るく健康的な人生が開けてくるのですから。

  • 03Jun
    • 自由な意志は幻想?

      NHKBSに「ヒューマニエンス」という興味深い番組があります。ヒューマニエンスとは、ヒューマン〔人体〕とサイエンス〔科学〕の合体語です。一例ですが、2020年11月26日の再放送分「"自由な意志"それは幻想なのか?」を先月ですが観ました。脳の神経細胞の活動は、意思が関与する前に勝手に動き出し、それによって後付けのように生まれるのが意志である、というお話でした。意志とは自分が自覚できる表層の意識で、その前に動き出しているのが自分が自覚できない潜在意識だと考えると分かりやすいかと思います。自分なりの解釈というか受け止め方ですが、これは潜在意識を扱うユングの精神分析やそれと密接に関連する占星術ではある意味あたり前のことです。これが最近のヒューマニエンスで明らかにされつつあるのかなと時代の変化を感じました。今は価値観や世界観・人生観の転換期だと、それこそ精神分析や占星術からは言い得るからです。拙著でも取り上げていますが、中島みゆきさんの「糸」なんかも、「なぜ めぐり逢うのかを 私たちはなにも知らない いつめぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない・・逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます」と、表層の自分或いは自我は知らないけれど潜在意識の"奥の"真我が知っており、出逢いを仕合せているのです。現在とは英語でpresentですが、これは前もって〔pre〕贈った〔sent〕ものということですが、誰が贈ったかというと真我の自分なのです。このpresentという言葉自体が、表層意識の前に潜在意識が働いていることを表しています。それを昔の人は知っていたのではないでしょうか。生まれる日や場所、親や兄弟姉妹を含めたさまざまな人々との出会いと別れ、さまざまな物事や事柄等との出会いです。昔から、「不思議なご縁で」とか「袖振り合うも他生の縁〔道を行く時、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことも前世からの因縁によるとの意。どんな小さな事、ちょっとした人との交渉も偶然に起こるのではなく、すべて深い宿縁によっておこるのだということ【日本国語大辞典】〕などと言われてきたとおりです。潜在意識深層部の真我が決めて生まれてきたのですが、これが宿命です。これは今世での学習のため、真の幸せのために、真我が過去世を踏まえて陰陽の法則のもとに設定したものと言えます。その設定を土台に、自分を含めた皆んなの幸せのために、今世の務めを果たしていくのが創造的な運命ということになるでしょう。このような人生の仕組みを科学的に理解するきっかけに、ヒューマニエンスの番組は役に立つかも知れないし立って欲しいものです。この方面に関連するもので、これまで読んできた本の幾つかを参考までに下に挙げておきます。これらの本の著者で、この分野での第一人者とも言える渡辺学教授とは不思議なご縁がありました。ある学会での合宿セミナーでのこと。たまたま私の隣に恰幅のよい堂々とした体躯の方が座っておられました。休憩時間に話しかけると、いかにもジェントルマンという感じで対応して下さったのですが、後でその方が学会の幹部でもある渡辺学教授であることが分かりました。ちょうどその頃、教授の著書を読んでいる時だったので驚きでした。ユング関連の話などは一般の医師仲間で話題に上ることはほとんどないし、本当は東洋医学の根底をなす易はもとより占星術などは話題にしようものなら笑われるか馬鹿にされるのがオチです。でもその学会は心理学や哲学・倫理・宗教・易学・医療・看護・スピリチュアル他、多彩なジャンルで交流できる学会なので、氣楽に意見交換ができるのです。ヒューマニエンスの番組が、この方面の再認識のきっかけになればと思います。戦後教育下の古い科学一辺倒の未熟な医学がもっと進歩するはずです。今回のテーマの参考になる文献は以下のとおりです。1、渡辺学:ユング心理学と宗教、第三文明社、1994年、2、F.X.チャレット著、渡辺学他訳:ユングとスピリチュアリズム、第三文明社、1997年、3、KONNO KENICHI:ユングは知っていた、徳間書店、1998年、4、アーサー.I.ミラー著、阪本芳久訳:'137'物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯~なぜ137という数なのか?~草思社、2010年、5、ヴォルフガング・パウリ、カール・グスタフ・ユング著、湯浅泰雄、黒木幹夫、渡辺学監修、黒木幹夫、渡辺学他訳:パウリ=ユング往復書簡集1932〜1958 ー集合的無意識、共時性に関する重要文献。ノーベル物理学賞受賞者パウリの見た夢を、心理学の巨人ユングとパウリ自身が分析。二人の書簡は、物理学と心理学の枠を越え、錬金術、超心理、UFO、易にまで及び、科学と心〔魂〕の接点を探るー、ビイング・ネット・プレス、2018年

  • 15Apr
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      不安から安心へーコロナ禍をどう受け止めるかー

      ③私たちを含めた宇宙大自然の万物万象〔広義の生命〕は中心帰一の回転コマ運動をする円・球〔粒子〕であり波動であり神である〔汎神論〕これは『古事記』の国生み神話から上記の結論を得たのですが、これは「国生み」の意味は「万物生み」でもあり、万物が国生み神話のように陰陽が引〔惹〕き合いながら中心帰一の回転コマ運動をしていると観ます〔詳細は『究極の医療は円通毉療』参照〕。この回転コマ運動は六角田中医院では太極円通図で表しています。陰陽の勾玉が引き合いながら少しずれて回転コマ運動をするのですが、これは回転する円・球である"粒子"と観ることができると共に横軸に伸ばすと"波動"にもなります。キリスト教では、神とは如何なる存在なのかについては2つ記述があります。1つは神は「我は始め〔アルファ〕であり終り〔オメガ〕である」ですが、これは円のことです。円はどの点をとっても始めと終りだからです。聖アウグスティヌスの神の本質とも合致します。2つには「言葉は神なりき」です。言葉は発音すれば分かりますが、どの音もバイブレーションつまり波動であることが分かります。つまり、太極円通図⇄波動図は広義の生命そして神をも表しているのです〔当院ブログ2020.4.20:「言は神である」の理解とその活用で大安心へ を参照〕。古代の図絵に万物が回転していることを示すウロボロスの環があり、これをノーベル賞物理学者のグラショウは物理学用語等を用いて表現していますがこれも広義の生命と神を表したものだと思います〔当院ブログ2020.8.27:性は聖なるもの その4 引かれる愛と離す愛で大楽へー理趣経と十住心論ー 参照〕。これらの認識は汎神論に繋がりますが、これも安心に繋がります。④「衆生本来仏なり」を体感する上記のことを体感して確信に至るにはどうすれば良いか。そしてコロナ禍を如何に捉えて日常を過ごしていけば良いかです。これらについては、当院ブログ2020年4月20日「言は神である」の理解とその活用で大安心へ、2020年10月23日 霊と霊止〔ひと:人〕そして言霊〔ことだま〕等をご覧いただければと思います。以上、不安から安心へーコロナ禍をどう受け止めるかー について述べました。「衆生本来仏なり」の体感については実習していただくのが1番早いのですが、いつか機会がある時にということで今回はこれで終わらせていただきます。

  • 22Mar
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      不安から安心へーコロナ禍をどう受け止めるかー

      最初に前回の補足です。罪と解脱と佛と仏:天上の霊〔真我〕は地上に降りて体〔自我〕という衣を身につけたことで"包み"隠されるようになりました。これが"つつみ"→"つみ"=罪です。その包み〔罪〕から解〔ほど〕けて脱〔ぬ〕けるのが解脱〔げだつ〕で、解けた人が"解〔ほど〕け"→ほとけ=佛です。そして、生きたままで佛に成るのが"即身成佛"です。仏と佛の違いは仏は真我であり皆んな一つの存在で神でもありますが、佛は人偏〔イ〕に弗で、三水〔氵〕に弗の沸騰が水が変身して湯になるように人が変身して佛になるという構図です。仏は真我で宇宙で神、佛は自我の包みから解けた小宇宙で小神で分け御霊〔わけみたま〕とも言えます。それでは、次に入ります。②自他内外一如で誰もが我即宇宙で天上天下唯我独尊細胞の内部構造は全て細胞膜が内部陥入して展開したものです。これと相似形で人間も体表細胞層〔広義の皮膚〕が内部陥入して原腸ができ、さらに内部陥入して諸臓器諸器官ができるのです。これは、永田和宏著『生命の内と外ーヒトは「膜」であるー』の題名からも分かると思います。内部陥入の7番目が膚〔目・耳・鼻各2つで6つ、7番目の口の奥に胃がある〕、9番目が尻であることからも分かるでしょう。私たち各人の内部は外部でもあり、自分の内部は外部で広く言えば宇宙でもあります。これが「自他内外一如で誰もが我即宇宙」の認識につながります。そして、ブルース・リプトンが細胞膜menbraneはmen"brain"つまり脳であると言ったように体表細胞層も脳であり、皮膚や内部陥入した腸や内臓も脳だということになります。肌〔皮膚〕感覚であり腸感覚〔ガッツはgutsであり腸のことです〕であり内臓感覚のことです。直感や原始本能的な感覚であり宇宙に直結する脳でもあります。断食や精進料理で腸が活性化すると直感・霊感が冴えてくるので、修行の際に食事とされます。また、スマトラ沖地震の時のように、野生の動物は大きな地震があっても事前に察知して逃れていますが、そんな時にも働いてくれる脳です。これが東洋医学でこれまで謎とされていた六臓目の心包〔しんぽう〕であり六腑目の三焦〔さんしょう〕の実態であると考え、2つの論文〔心包や三焦をネットで検索すると出てきます〕と最近発刊の新著『太極円通図から理解する般若心経と理趣経ー究極の健康への道標ー』で解説しています。この心包・三焦を活用すると、①や②を体感できるようになり、私たちをさらに安心に導いてくれるでしょう。これは何れ改めて誰にでも体感できる方法をお伝えします。さらに、地動説も正しいが天動説も正しいということがあります。私たちの地球は秒速460mで自転し秒速30kmで太陽の周りを公転していますが、振り回されて飛び散ることはありません。実感的にはむしろ天動説の方が正しいのです。これは渡部昇一氏がかつて述べておられましたし、聖アウグスティヌスの「神の本質とは至る所に中心があり何処にも円周のない円である」の言葉からも納得できるのではないかと思います。これが誰もが「天上天下唯我独尊」であるとの理解と真の安心につながってきます。

  • 11Mar
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      不安から安心へーコロナ禍をどう受け止めるかー

      2、個々人の観点から①私たちは本来仏〔神〕である白隠禪師は「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 喩えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず・・」と坐禪和讃で説いています。北極圏で水〔海〕の上に浮かぶ様々な大きさや形の氷を想像しましょう。水が私たちの真我〔仏〕で個々の多様な氷が自我〔衆生〕です。個別の氷も本来みな同じ水です。氷は一見固定した存在に見えますが、時事刻々に形を変えるしやがて水に戻る一方で新たに生まれる氷もあります。私たちの自我〔体〕の表面意識では個々別々だし体も生滅が見られますが、真我〔霊〕の深層意識では皆一つで且つ霊は不生不滅で不死です。私たちの体は地上で生きるための霊の衣で有限です。霊こそが真実の我すなわち真我であり時空を超えた無限絶対無始無終の存在つまり仏であり神なのです。このような真我なる自分に気付けた時、不安から必ず解放されるようになるでしょう。自我としての我も他人も真我では一つなので、「我も他人も共に幸せに生きるにはどうすれば良いか」の視点で生きていくことが大切であることが自ずと分かってきます。そして、真我と自我の関係は親子関係であり、自我と自我の関係は兄弟姉妹の関係になります。真我は親なので子供たち皆んなの幸せを願うものです。これが親心です。この親心に叶うように、個々の自我の天命〔全体の幸せのための役割分担〕が全うできますようにと日々祈り行動することを心がけるならば、いつ体が死のうが本望だと思えるようになる筈です。敬天愛人の遺訓で有名な西郷隆盛はある屋敷の門を通った時、隣に雷が落ちました。でも西郷さんには特に驚く様子もありませんでした。これに驚いた門番が「なぜ驚かないのですか?」と尋ねたところ、「死ぬ時は死ぬ、死ぬも生きるも天の采配」というようなことを言ったそうです。天の親心に叶うように自分なりに精一杯生きようとする限り、有限なる体の生死も天の采配と受容できると個人的には解釈します。そうすると①の「衆生本来仏なり」の認識に加えてさらに不安はなくなると思います。

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      不安から安心へーコロナ禍をどう受け止めるかー

      不安から安心へーコロナ禍をどう受け止め対応するかーこのようなテーマで下記のような形で何回かに分けて記したいと思います。目次1、俯瞰的観点から2、個々人の観点から①私たちは本来仏〔神〕である②自他内外一如で誰もが我即宇宙で天上天下唯我独尊③私たちを含めた宇宙大自然の万物万象〔広義の生命〕は中心帰一の回転コマ運動をする円・球〔粒子〕であり波動であり神である〔汎神論〕今回は 1、俯瞰的観点から です。1、俯瞰的観点からこれまでの経済成長偏重の大量生産・大量消費・大量廃棄の世界〔地球の病氣〕では、環境汚染・気候変動・天変地異・疫病等の災厄〔症状〕が起きてくるのは、陰陽論的因果関係からは必然だと思われます。このままでは地球の未来に希望はないのに、なかなか人間が自主的にこれまでの生き方を変えるのは難しいと思います。そこで警告というべきか天の采配〔大愛〕というべきか、コロナのような疫病や地震の頻発等が起きているのではないかと考えます。暦的には2020年子〔了+一〕年は終わり〔了〕と始まり〔一〕の年で、新旧の生活洋式が変わり始めた年です。180年に1度の大きな転換期との観方もあります。そして今年は丑〔糸偏を付けると紐〕年で新しい芽が伸び始める年です。コロナ禍は大変だけれども、俯瞰的に観れば大切な気付きのきっかけでありメッセージだと受け止めることができます。今のピンチはチャンスでもあります。子孫のことを思えば、親や先祖が私たちにしてくれたように、今の試練をむしろありがたく受け止めて生き方を改めるよう喜んで努めたいものです。

  • 12Jan
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      大霊の現われを示す歌「糸」

      前回に続いてもう一つ、大霊の現われを示す歌として、同じく中島みゆきさんの作品「糸」を挙げたいと思います。これも2020-04-30のブログ「癒しソングと直感」で取りあげています。 歌詞は以下のとおりです。説明のため、行ごとに番号を付けています。糸             作詞・作曲・歌 中島みゆき➀なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない      ➁いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない      ③どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 ふたつの物語    ④縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを   ⑤暖めうるかもしれない                    ⑥なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡の ささくれ      ⑦夢追いかけ走って ころんだ日の跡の ささくれ        ⑧こんな糸が なんになるの 心許なくて ふるえてた風の中 ⑨縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かの   ⑩傷をかばうかもしれない⑪縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを  ⑫人は 仕合わせと呼びます                   では、解説です。なぜめぐり逢うのか、いつめぐり逢うのか、自我の顕在意識レベルでは私たちはなにも知らない、いつも知らない。この世で縁あって出逢う人たち、偶然にしては不思議な出逢いである。どこにいたの、どのように生きてきたの、遠い空の下、あなたとわたしのふたつの物語。①②③です。 そんな出逢いをとおして、縦の糸と横の糸が織りなすようにあなたと私の二人の人生が紡がれていきます。そして、それが誰かを暖めうるのかもしれない。④⑤です。 そんな人生をなぜ生きてゆくのか迷った日の跡のささくれ、夢を追いかけ走って転んだ日の跡のささくれ、こんな糸がなんになるの、心許なく風の中でふるえていたこともある。⑥⑦⑧です。   でも、あなたの縦の糸とわたしの横の糸、二人が織りなす布は、いつか誰かの傷をかばえるのかもしれない。⑨⑩です。 縦の糸はあなた、横の糸はわたし、逢うべき糸に出逢えることを、人は仕合せとよびます。⑪⑫です。この曲は、中島みゆきさん40歳の頃の作品です。天理教の現・真柱(しんばしら)・中山善司氏の結婚を祝して1992年に作られた曲だそうです。題名の糸ですが、これは結婚に絡めて縁のことを謳っているのだと思います。この縁に関して、「縁念実相妙理之法(えんねんじっそうみょうりのほう)」について述べておきます。縁はなぜ生じるのでしょうか。自我の顕在意識レベルではなかなかわからないものですが、それは念(今の心)が源になっています。今の心である念が因となって潜在意識レベルで縁を引き寄せ、その相互作用で果が生じます。その果を受け止める念がまた因となって次の縁を呼び寄せ、新たな果を生じます。こうして、因縁果→因縁果→因縁果のサイクルが続きます。これが因縁果の法則、略して因縁の法則と言われるものだと思います。この因縁果のうち、因とは念のことなので、因縁果の法則とは念縁果の法則、念縁の法則ということになります。目前に展開されてくる縁果、換言すると目前の現象は、実はすべて自分の念が招いたもの、念が原因ということになるのです。華厳経の「三界唯心」や坂村真民さんの「念ずれば花開く」等も同じことを意味するのでしょう。要するに、念縁果のうち、念は自分が発するもので、それに応じて目前の縁果が現れてくるのだということを心得ることが大切だと思います。このことを学生時代にお師匠さんから「縁念実相妙理之法(えんねんじっそうみょうりのほう)」という言葉で教わりました。その後、観音経の普門品(ふもんぼん)で「念彼観音力」が多用されたり「是故須常念 念念勿生疑(この故に須(すべか)らく常に念ずべし 念念に疑いを生じる勿(なか)れ)」といった言葉が出てきたり、十句観音経の「朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心」、あるいは白隠さんが強調された「正念工夫相続(継続)」等々の言葉に納得がいきました。また、浄土系宗派のキーワードが「念仏」であることもです。「自分は真にこういうことをやりたい、それが自分の喜びであり周囲にも喜んでもらえることなんだから」と絶えず念じていると、それは心の奥の玉(たま)し霊(ひ)(たましい)からの催しでもあるので、不思議なことに必要な人や物事やメッセージに縁が生じるようになります。縁は偶然のように見えますが、縁と念、あるいは念と縁が交互に絡み合いながら現実界に投影されてくるというのが真実の姿つまり実相です。しかも、この現れ方というのは不思議なものなので、妙なる法則であると言えます。それが、縁念実相妙理之法と言われる所以です。世間でよく「引き寄せの法則」が話題になりますが、自我の欲に基づいて何かを引き寄せようとするのではなく、我も人も共に良かれという神仏の”親心”に適うものなのか否か、神仏の分身でもある心の奥からの、玉し霊からの催しによるものなのか否か、これが大切なポイントになると思います。「糸」という歌は、表層の自我意識レベルでは人がなぜめぐり逢うのか、いつめぐり逢うのかはわからない。でも、迷ったりころんだり心許なくふるえることがたとえあったとしても、それが人を暖めたり傷をかばったりができるのかもしれない。このような縁の真実のことを仕合せと呼びます。最後の⑪⑫の「逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせと呼びます」とありますが、「逢うべき糸に出逢える」という縁は決して偶然ではなく、玉し霊が表面自我の成長と幸せになるために仕合せているものなのです。招いているものなのです。因みに、縁という字には糸が入っています。表面はなにかと大変なことがあったとしても、それが実は自分を磨いて成長に導くありがたいご縁でもあるのです。苦難は幸福の門、艱難汝を玉にす、ピンチはチャンス、正反対の陰陽ですがそれは表裏一体で「一に止(とど)まる」ものです。これが「正しい」の本当の意味であり、「一に止まる今の心」が正念です。お釈迦さんは悟りに至る道を八正道として提示されましたが、その中で土台になるのが正念だと思います。腹をくくる時に正念場という言葉がありますが、正念の意味を踏まえれば正念場の意味も自ずとわかってきます。大霊が太極円通図のような陰陽の回転、しかもそれが基本的には生生発展に向かう神の歩みであることがわかれば、糸という縁によって仕合わせられることは、たとえ自我の自分にとってネガティブな出会いであったとしても、大局的にはそれはポジティブで幸せな方向に向かわせるものなのですよ、とこの歌は謳っているのだと思います。

  • 07Jan
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      大霊の現われを示す歌「時代」

      大霊の存在を前提にすると、わかりやすく味わい深い歌があります。その一つが中島みゆきさん作詞・作曲の「時代」です。英語では「Time goes around」ですが、これは円通そして大霊を謳ったものだと解釈します。2020-04-30 のブログ「癒しソングと直感」でも取りあげています。 円通とは中心帰一の回転コマ運動をする円のことですが、これは六角田中医院でいう太極円通図(図1)のことです。一般には太極図と呼ばれていますが、古事記の国生み神話の伊邪那岐と伊邪那美の陰陽男女神の声掛けやり直しにヒントを得て、天(あま)之(の)御柱(みはしら)の周囲での回転を単なる回転ではなく”中心帰一の回転コマ運動をする円”と解釈し、太極円通図と名づけた次第です。陰陽の勾玉を陰陽男女神に見立てたものです。 図1 太極円通図  中心帰一とは陰陽男女神が引(惹)き合うことから、コマ運動とは声掛けやり直しで生じたズレ即ち揺らぎから生じたものと考えます。身近なところでは洗面台中の水の排水時に生じる渦や台風の目を中心とする渦、宇宙規模では銀河系の渦のような形で観られます。自転車や自動車の車輪のような遠心性で揺らぎのない回転とは異なるのです。素粒子レベルのミクロから宇宙規模のマクロまでの回転を示すウロボロス(蛇)の環の各レベルの回転も基本このような円通による回転であろうと考えます。図2 ウロボロス(蛇)の環(グラショウ) 「時代(Time goes around)」は、基本このような太極円通図で表すことができるのではないかということです。 歌詞は以下のとおりです。説明のため、行ごとに番号を付けています。時代(Time goes around)  作詞・作曲・歌 中島みゆき ➀今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて             ➁もう二度と笑顔には なれそうもないけど          ③そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ      ④あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ       ⑤だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょ うよ ⑥まわるまわるよ時代はまわる 喜び悲しみ繰り返し      ⑦今日は別れた恋人たちも 生まれ変わってめぐりあうよ    ⑧旅を続ける人々は いつか故郷に出会う日を         ⑨たとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る       ⑩たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても     ⑪めぐるめぐるよ時代はめぐる 別れと出会いを繰り返し    ⑫今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ     ⑬まわるまわるよ時代はまわる 別れと出会いを繰り返し    ⑭今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ     ⑮今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ      では、解説です。太極円通図は陰陽の回転なので、太陽が沈んで暗い夜があれば必ずまた太陽が出て朝が来るように、冬の時代があれば必ずまた春の時代が訪れるように、今はこんなに悲しくともいつか必ずまた喜びがめぐって来るのです。それが➀~④のフレーズです。 だから、観自在の智慧で「吉凶はあざなえる縄のごとし」と思い直して、今日は今日なりに受け止め、流れに身を任せつつ誠実に努力を重ねていきましょう。人生というものは、時代というものは、喜びと悲しみを繰り返し、別れた恋人たちも生まれ変わってまためぐりあうのだから。これが⑤~⑦です。          人生という生まれ変わりの旅を続ける人々は、たとえ今夜は倒れても、いつか玉し霊(たましひ)という故郷に出会う日を信じて、今日も家を出よう、たとえ果てしもなく冷たい雨が降っていても。⑧~⑩です。      時代というものは人生というものは、別れと出会いを繰り返しながらめぐりめぐるものなんだよ。たとえ今日は倒れても、生まれ変わってまた歩き出すんだよ。⑪~⑫です。 こうして人生は時代はまわるまわる、別れと出会いを繰り返しながら。今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出すよ。今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出すよ。⑬から⑮です。 そして、人生を振り返ればわかるように、このようなめぐりの中で成長があり深まりがあり幸せがあり、いつか玉し霊という故郷・真我に出会えるのだよ、自我と真我が一体となった進化した自分(地上天国に生きる自分)になれるのだよ、と謳っているように思います。 太極円通図は中心帰一の回転コマ運動をする円であり大霊の象徴であり、汎神論の象徴でもあります。「時代」が太極円通図で表されるとすれば、「時代」は大霊の現われと観ることができると思います。中島みゆきさんの歌は玉(たま)し霊(ひ)(たましい)に響くものが多いですが、彼女は大霊とつながった巫女さんでもあると思います。 因みに、この陰陽による円運動は、エマーソンのエッセイ「円」や「代償」に通じるものだと思います。   以上が円通毉療から解釈した「時代」です。

  • 30Dec
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      すべては大霊の現れ

      人が霊止〔ひと〕であることや、人を含めた宇宙大自然の万物万象から発せられる言霊や音霊・形霊・色霊・数霊等の存在の大元は大霊にあります。すべては大霊の現れなのです。霊は漢和辞典には雨の下が神となっている字もあり神という意味もあります。だから神霊とか「霊験あらたか」等といった表現もあるのだと思います。つまり大霊とは"大元"霊であり大神であり、これは人を含めた宇宙大自然のすべてが神だという汎神論でもあるのです。でも、ふつうは「そんな馬鹿な」と人は思うかもしれませんね。それは人を霊・心・体ととらえると、表面の"自我"による心がそう思うからです。でも深層の"真我"である霊は、実は神として時空を超えて存在し続けています。地上3次元に生まれる前も死んだ後もです。体〔肉体〕は霊〔たましい〕の衣で有限ですが、霊は無限だからです。その霊を包んでいるのが罪〔=包み〕であり分別知からなる自我の心です。キリスト教的に言えば地上3次元で「善悪を知る知恵の木の実を食べた」と象徴的に表現されていますが、善悪を知る知恵の木 tree of knowledgeとは分別知のことです。Knowledgeのknはknifeのknと同じで"切る"や"分別"の意味があります。また、切ると言えばハサミ"sci"ssorsですが切る学問が"sci"enceつまり科学です。分別知を前提とする科学は地上天国実現のためには必要不可欠なのですが、霊を包んだままでは科〔とが〕=罪の学なのです。霊なる真我と分別知が前提の自我が一円融合することが大切なのです。知性と感性の融合です。ところで、すべてが神であるとする大霊の思想つまり汎神論を実感し認識するにはどうすれば良いでしょうか。「実感」は前回のブログのような形で、ある程度は実際の臨床の場で皆さんに少しずつですが感じて頂いています。表面では個別の人間に見えますが、筋力反射テストの反応からは実は皆んな真底では一体であることがわかってきます。親子で来られた方の中には驚嘆されて涙を流される方もおられます。「認識」の方は、ミクロの世界では分子・原子・素粒子と皆んな子が付いていますが、子とは一〔初め〕であり了〔終り〕のことです。聖書で神が「我は初め〔アルファ〕であり終り〔オメガ〕である」と言うように子とは神のことなのです。そしてそれは円のことでもあります。エマーソンは「円」というエッセイの冒頭で「聖アウグスティヌスは神の本質とは至る処に中心があって何処にも円周のない円であると言っている」と語っていますが、円というのはどの点を取っても初めであり終りですから神でもあるのです。それ故に子には神聖な意味があり、聖徳太子や皇太子、孔子・老子・荘子等の尊称にもなるのです。子供もそういう意味では尊い存在ですし、それは分別知にまみれた大人になっても根本では同じです。そもそも子供も大人も元は精子と卵子が結合した受精卵という円い神だということです。一方、マクロの世界では、「天に在します〔天であられます〕我らの父〔神〕よ」と主の祈りの冒頭にあるように無限絶対無始無終なる宇宙が神ですが、宇宙とはuni〔一つに〕verse〔回るもの〕というように円が基本形です。ポアンカレ予想をペレルマンが解決したことからも、宇宙が概ね円いことが証明されているのです。日本神話なら天に対して物を産み出す大地は産土神〔うぶすなのかみ〕であり大地やその源である海〔産み〕から成る地球が海原を治める須佐之男命〔すさのおのみこと〕、暦に関わる月が月読尊〔つくよみのみこと〕、天〔あま〕を照らす大いなる太陽が天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕、宇宙全体なら天之御中主神〔あまのみなかぬしのかみ〕です。因みに、キリスト教では天の父なる神は説いていますが、地の母なる神は説いていません。実はこれがサタンなのです。SatanのSatはSaturday〔土曜日〕やSaturn〔土星〕のSatと同じで土つまり大地を表しそれは母なる神なのです。こんなことは何処にも書いていませんが、私見ではこうなるのです。『究極の医療は円通毉療』で解説しています。悪魔は堕天使ルシファーで金星のことですが、金星を観てお釈迦さんや空海さんの悟りのきっかけになったのです。鞍馬寺の魔王尊も金星から来られています。長くなるのでこの辺で止めますが、要するに、ミクロからマクロまで全てが円であり円い、つまり神だということなのです。このようにして神なる大霊の体感と認識が深まるに従って、自分や他人を認め許し尊重することができるようになれると思います。因みに、円は中心帰一の回転コマ運動をしているのですが、それを通で表したのが円通で、円通を根幹に据えた毉療が円通毉療だということです。

  • 23Oct
    • 霊と霊止〔ひと: 人〕そして言霊〔ことだま〕

      霊とは何でしょう。1998年にWHO〔世界保健機関〕で健康の定義改定論議がありました。それは、これまでの「身体的・精神的・社会的」に完全な状態と定義されていたものに「spiritual」を加えようというものでした。結局は、時期尚早ということで却下されたのですが、その時、日本ではspiritualをどう日本語に訳すかの議論が沸き起こりました。英和辞典には、精神的、霊的、魂の、宗教的、神聖な、超自然的、等々がありますが、どれが適切なのかの議論は煮詰まることなく今日に至ります。最近は、末期がん等の終末期医療でspiritualケアという表現がなされることが多いのですが、明確な定義が為されたわけではなく、何となく適当に使われているのが実情です。そこで、円通毉療の立場からの、そして日本人の一人としての私見ですが、やはりspiritualは「霊的」と訳すのが妥当だと考えます。円通毉療ではspiritはspin・ritと考えます。spiはspinのspiであり、ritのrはring.rotation.roundのrと同じで"回転"そして"円通"の意味を持っていると思われます。同じく、霊も"玉し霊=たましひ=たましい"というように玉のように丸くて回る円通の意味が内包されていると考えられるからです。もう一つ、霊と言えば、アメリカの精神的独立の父とされるラルフ・ウォルドー・エマーソンのover soulというのがあります。日本語では"大霊"と訳されていますが、これは万人に共通する普遍的かつ根源的な〔over〕霊〔soul〕であり神でもあり仏でもあります。この根源的な存在である霊は日本語では"ひ"と読みますが、この霊の"分け御霊〔わけみたま〕すが肉体に宿ったのが霊止〔ひと〕つまり人なのです。この神なる大霊が、分け御霊である個々人の口から発せられる言の葉〔ことのは〕が言霊〔ことだま〕だと考えます。このあたりの発想は、聖書の「太初〔はじめ〕に言〔ことば〕があった。言は神〔大霊〕と共にあった。言は神であった」の記述や、明治天皇の「天地〔あめつち〕も 動かすばかりの 言の葉の 誠〔言が成る〕の道を きわめてしがな」の和歌、菅原道真の「心だに 誠〔言が成る〕の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らん」の和歌、白隠さんの坐禪和讃の冒頭句「衆生本来仏なり」に通じるものです。日本は「言霊の幸〔さき〕わう国」と言われてきましたが、近年では言霊の実際の働きを体感することは元より言霊という用語すらほぼ忘れ去られています。六角田中医院では、言霊を温故創新して診療の現場で活用し、とても役立っていますし、患者さんにも喜んでいただいています。実例ですが、一つは、病の原因となる生活習慣とりわけ飲食のチェック、適する薬のチェックなどに役立ちます。例えば、関節痛や腰痛の場合、寒〔かん〕や湿〔しつ〕が関与していると思われる方に、ミカンとかプドウとかの寒・湿の多い果物の名前を発音していただくと筋力反射テストでは脱力が、リンゴやバナナなど寒・湿が少なく固めの果物、黒豆や黒ゴマ〔黒は固める作用を持つ〕などの腎を補う食物の名前を発音していただくと筋力反射テストが増強します。腎は臣又に肉体を表す月が付いた字ですが、臣又は堅や緊にも使われているように"かたい"という意味があります。腎は歯や骨のように体の固い部分と関係があり固める作用があるのです。因みに、筋力反射テストで脱力するのは、霊と直結する筋肉が拒絶反応をして硬くなるから外からの圧力に対しては弱くなる〔脱力する〕ということです。逆に、テストで増強するのは、筋肉が受容反応をしてリラックスし柔らかくなるから外からの圧力に対しては強くなる〔増強する〕ということです。薬の適否も、その名前を発音していただくだけで筋力反射テストでチェックができます。これらの現象は、表面のご自分〔自我〕が言霊を介してご自分の霊〔真我〕と無意識に対話されているということです。薬の場合、名前が患者さんには馴染みがないことが多いので、薬を持っていただくか、薬の名前を書いた紙やカルテ記載の薬の名前を指差していただくことでもチェックができます。薬の名前を発音する場合は言霊の活用ですが、薬を持ったり名前を書いた紙を持つ場合は形霊〔かただま〕の活用になります。大霊は神なる宇宙の万物万象なので形にも形相応に宿っているのです。前回処方の薬が今回処方と変わった場合、前回処方を指差して前回の日付を発音してもらうと筋力の増強が見られますが、今回の日付を発音してもらうと脱力します。さらに面白いことに、患者さんが指が痛くてO-リング形式の筋力反射テストができない場合、患者さんが発音したり薬を持ったり薬名を書いた紙やカルテを指差し、患者さんに触れた第三者〔付き添いの身内の方や医院のスタッフ〕にO-リング形式の筋力反射テストをしても、患者さんご本人が別に行った両手を使う持ち上げテスト形式の筋力反射テストと同じ結果が得られます。また、私の調子が良くて患者さんに雑念がない場合、その薬を患者さんに手渡す私の手が既に微妙に温かく感じられることもあります。これらの現象は何を意味するのでしょうか。簡単に言えば、患者さんも患者さんに触れた身内の方もスタッフも私も、見かけは個々別々ですが皆んなつながっている、というより一つである、つまり皆んな大霊の分け御霊だということなのです。大霊は宇宙であり神でも仏でもあるので時空を超えた存在ですが、これも体感できます。先述の薬のチェックの際に、同じ薬に対して日付を発音すると過去には合っていても今日は合っていないとか、逆に今日合っている薬に過去の日付を発音すると過去には合っていないことも分かります。時間を超えるのです。また、超遠方の方でどうしても来院が難しい場合に電話でアドバイスをすることがありますが、その方のカルテをスタッフの手の上に載せて、私が食品や薬の名を発音したり薬をカルテの上に置いて筋力反射テストをすることもできます。これは空間を超えるというこです。また、「ありがとうございます」や「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」、「アーメン」等のプラスの呪文〔祝文〕を患者さんに唱えてもらうと筋力反射テストで筋力増強が見られますが、患者さんは唱えないで代わりに付き添いの方が離れた所から患者さんに向かって唱えても〔有声でも無声でも〕患者さんの筋力反射の増強が確認できます。これも空間を超えるということですが、これが融通念仏の原理なのだと考えます。最後にもう一つ、言霊は物に染み込みます。患者さんにお持ちのカバンを指差していただきます。筋力反射テストでふつう脱力が見られますが〔たまにプラスの念がこもっている場合は増強が見られます〕、そのカバンに向かって呪文を一度でも唱えて改めて指差してもらうと今度は筋力増強が見られます。呪文がカバンに染み込むのです。そのカバンを付き添いの方に指差してもらっても付き添いの方の筋力増強が見られます。良い呪文を専修念仏のように反復するとさらに染み込みが強まります。言霊が染み込むと言えるし、念〔今の心〕が染み込むとも言えます。昔、疫病が流行った時に念仏を唱えた話が残っていますが、それは本当だと思います。京都に百万遍という地名がありますが、これは疫病を収める為に唱えた百万遍の念仏のことで実際に収まったとされています。病原体も言霊で変質するのかも知れません。今、コロナが流行っていますが、一般的な予防策に加えて言霊呪文を活用するのも大切かな思います。その場合、合掌するとさらに効果があると思います。手は全身の縮図なので〔中指の先は頭、その下は首、人差し指と薬指は両上肢、親指と小指は両下肢、生命線の基部は臀部〕、合掌すると手全体が温かくなりますが、これは全身の血流を改善して温め、免疫力を高めると思います。心包〔しんぽう〕と三焦〔さんしょう〕という臓腑が安定するので心も落ち着きます。合掌療法自体は西式健康法で合掌療法として既に説かれていることですが、心包と三焦については、ネットで"心包三焦"で調べていただくと「心包と三焦の謎解きと祈り祭祀に果たす役割」が出てきますのでそれをお読みいただければと思います。

  • 05Oct
    • アラ還女性の腕の痛みと陰陽バランス

      「リューマチ性多発痛症」で2年以上病院に通院中も改善見られず、9ヶ月前に当院に来院。当院では、それは寒と湿によるもので、それは飲食の偏りから来る、そしてその飲食の偏りは、うつ病的な心の不安定によるものと説明して治療がなされ、症状は徐々に改善中です。西洋医学的病名には関係なく、「寒と温」、「湿と燥」という陰陽の「偏り」つまりアンバランスが原因で、それが体に身体表現されているということです。だから、アンバランスを是正するための食事の改善と投薬で症状が軽快してきたのです。症状の症とは、〔陰陽がプラマイ合わせて一に止(とど)まる〕という意味の正に病垂れがついたもので、陰陽のアンバランスを表すと同時にそれを是正する体の反応なのです。ところで今回、涼しくなってから右上肢の親指と人差指の間の背面つまり手の陽明大腸経に沿って痛みが生じ、手首の背屈ができないと仰います。これも十二経絡で右の手陽明大腸経と陰陽の関係にある左の足少陰腎経の氣の流れの滞り(冷えによる)、つまり陰陽のアンバランスが原因であることが診てとれました。そこで、左足の少陰腎経の圧痛点をマッサージすると右上肢の痛みが消失しました。瞬間です。要するに、陰陽がバランスなのかアンバランスなのかが問題であって、そのバランスを取るようにすることが治療の要になるのです。経絡のアンバランスの場合は概ね瞬間に効果が出ることが多く、飲食の偏りによる場合はその是正の次第にもよりますが概ね時間がかかるということです。西洋医学には陰陽の概念がありませんが、東洋医学には陰陽の概念があり、病という字にそれが表されているのです。★病 : 病垂れの左外側の二水は水で陰、内側の丙は「火の兄」の火で陽、つまり病とは水火が象徴する陰陽のアンバランスを表す。