般若心経奉讃文は一般にはあまり知られていないと思います。真言宗や修験道では般若心経の前に唱えますが、他で奉讃文を唱えるところは見当たりません。多くの般若心経解説本でも奉讃文を載せているものには、今のところ出会ったことがありません。それは以下のようなものです。

『そもそも般若心経と申す御経(おんきょう)は、文字の数わずか二百六十余文字(にひゃくろくじゅうよもじ)なれど、天台経七十巻、毘沙門経六十巻、阿含経(あごんきょう)、華厳経(けごんきょう)、方等(ほうとう)、般若、法華経等、一切の経より選び出だされたる御経なれば、神前にては宝の御経、仏前にては花の御経、まして家の為人の為には祈祷の御経なれば、声高々と読み上ぐれば、上は梵天帝釈四大天王(ぼんてんたいしゃくしだいてんのう)、日本国中大小神祇(にほんこくじゅうだいしょうじんぎ)、諸天善神、諸大眷属(しょだいけんぞく)に至る迄、哀愍納受(あいみんのうじゅ)して我等の所願を成就せしめ給うべし。謹んで読誦(どくじゅ)し奉(たてまつ)る。』

この奉讃文、複数の主だった寺院や仏教系の大学等に問い合わせたり、知り合いの僧侶の方々にもお尋ねしましたが、意外なことに作者は不明でした。このように出所不明であるが故に、奉讃文が取り上げられないのかもしれません。あるいは、「“神前”にては宝の御経」の部分が明治政府による神仏分離令にそぐわなかったのかもしれません。

ただ、筆者自身は若いから護摩行の際、般若心経を連呪する前に必ず唱えていました。それ故に奉讃文は筆者にとっては馴染み深いものですが、ある時ここに親心を読み取るようになってからは般若心経に血が通い、温かさや親しみ・ありがたさを感じるようになりました。私にとっては紛れもなく般若心経の一部なのです。そして、奉讃文があるとないとでは般若心経の味わいそして功徳に大きな差が出るのではないかと個人的には思っています。

親心を含めた奉賛文のポイントは下線部のところで次のようになります。

1、一切の経より選び出だされたる御経

要するに奉讃文は、般若心経はすべてのお経のエッセンスですよ、と説いているのです。若い頃の私は「そうなのか、エッセンスなのか、ありがたいお経なんだなあ」と、心経本文の意味はよくわからぬままに一生懸命に唱えようと素朴に思えたし、心経を唱えるモチベ-ションにもなりました。

2、家の為人の為には祈祷の御経(神仏の親心を読み取る)

神前でも仏前でもありがたい御経であり、まして家の為人の為には祈祷の御とあ

ります。この部分、「まして家の為人の為には」とありますが、自分の為とは書いていません。実は、これが奉讃文の素晴らしいところで、ここから神仏の親心が読みとれたのです。

たとえば子供が何人かいて、そのうちの一人が神仏に祈祷したとします。その祈祷が自分の為だけのことなら、親である神仏はそれなりにその祈祷に応えてくれるかもしれませんが、場合によっては、何を自分だけのことを願うのかと、その子の真の成長の為にはむしろ応えてくれないかもしれません。

ところが、家の為、兄弟姉妹の為に尽くしたいので力を貸してください、その為に私を使ってください御加護をお願いします、とこのような我も人も共に良かれの願いなら、親である神仏は放っておくでしょうか。否、どんなことをしてでも願いを叶えてあげよう、守護してあげようと思うはずです。自分の子供たちみんなが真に幸せになってほしいというのが親心だからです。この場合の兄弟姉妹の為というのは、実際の家族内の兄弟姉妹だけではなくて、神仏から観れば人類皆兄弟であるわけで、世の為人の為にという意味です。

そういう気持ちで声高々と読み上ぐれば、上は梵天帝釈四大天王、日本国中大小神祇、諸天善神、諸大眷属に至る迄、つまり親にあたる神仏がオールスターで哀愍納受(哀れんでくださって受け止めていただける)して我等の所願を成就してくださいますよ、と説いているのです。

般若心経を、神仏の親心を慮って家の為人の為に祈祷するという気持ちで唱えれば、それは神仏に必ず通じますよ、と奉讃文は謳っているのだと思います。

人体に譬えると、一つの受精卵が成長して全身になりますが、この全身が神仏に相当します。37兆ともいわれる個々の細胞は、みんな神仏と同じ遺伝子を持つ神仏と相似形の子供達であり(衆生本来仏なり)、スイッチオンの遺伝子は役割に応じて異なります(役割分担)がお互いに個性豊かな兄弟姉妹なのです。

個々の細胞が個性を生かして他の兄弟姉妹たる細胞達の為にお互いに尽くし合うことが全身の健康につながり、それが個々の細胞の健康となって返ってくるという関係です。それが親心に適うということだと思います。