前回は「私たちは天地〔神〕の分身・化身」であるというお話でしたが、今回は、私たち人間のみならず「万物・万象が天地〔神〕の分身・化身」であり、互いに対話ができるというお話です。

これについてはこれまでに何度か提示していますが、ウロボロスの蛇〔輪〕がわかりやすいかと思います。図1ですが、これはノーベル物理学賞受賞者のグラショーの解釈によるものです。ミクロは素粒子レベルからマクロはグレートウォールまでの万物・万象が回転していることを表しています。そして、蛇の頭と尾つまりマクロとミクロはつながっています。

 

図1 グラショーによるウロボロスの蛇〔輪〕

 

この回転の基本形は、当院の解釈では「中心帰一の回転コマ運動」であり、図2Aの太極円通図で表すことができると考えます。陰陽が引(惹)き合いながら少しずれて回転するもので、揺らぎのある渦状回転とも言えます。台風の動き等を想像していただければよいと思いますが、古事記のイザナギ・イザナミ男女両神の国生み神話にヒントを得た解釈です。そして、この太極円通図の陰陽の回転は横軸に伸ばすと図2Bのような波の動き、つまり波動図にもなるのです(詳細は『究極の医療は円通毉療』等)。

 

図2A 太極円通図         図2B 波動図 

        

 

図2Aを粒子とみなし図2Bを波動とみなすと、私見ではありますが、両図は「粒子⇔波動」という量子力学を表すものであるとも考えます。そして、この陰陽の適度の引(惹)き合いを愛と性(生[なま]の忄[心])の本質であると考え、そこから性の肯定を前提とする理趣経の解釈にもつながりました(『太極円通図から理解する般若心境と理趣経』)。これはつまり万物万象に愛と心が存在するということです。

 

ところで、聖書では神に関して二つの代表的な表現があります。一つは「我は初め〔アルファ〕であり終わり〔オメガ〕である」という表現ですが、これは円のことです。円はどの点

をとっても初めであり終わりであるからです。ただ、神が円であるとの記載は聖書には見当たりません。また、聖書を扱う教会関係者や学者のなかで神が円であるとか中心帰一の回転コマ運動をするとかを説いている方も調べた限りではおられないようです。私の知る限り唯一、聖アウグスティヌスが「神の本質とはどこにも中心があって円周のない円である」としています。これは学生時代にアメリカの精神的独立の父とも呼ばれたR.W.エマーソンの著書から学びましたが、本当に納得できたのは当院を開業してから数年経った頃でした。それがきっかけで『生命毉療は円の毉療ーカゴメ歌の謎解きと医療哲学ー』をまとめたのです。

 

もう一つは「初めに言〔ことば〕ありき、言は神と共にあり、言は神であった、言は神と共にあった、万物は言によって成り、言によらずして成ったものは一つもなかった、言の内に生命があり、生命は人を照らす光であった」です。言は口に出してみるとわかりますが、波動つまり陰陽の波のバイブレーションであることがわかります。図2Bの形になりますが、これは図2Aの太極円通図の陰陽による中心帰一の回転コマ運動をする粒子のもう一つの表現形でもあると観ることができます。つまり、聖書の神の定義とは、「粒子⇔波動」という量子力学で解釈可能であると、あくまで私見ですが考えられるのです。

すると、図1のグラショーによるウロボロスの蛇が示す、宇宙の万物・万象が中心帰一の回転している図は、宇宙の万物・万象が粒子であると同時に波動でもあり、それは即ち神であることを示していることになるでしょう。汎神論です。

理屈の上ではこのような表現になりますが、大事なことはこれを実感・体感することです。

 

一番おすすめなのは、空(特に夜空)を見上げてゆっくり味わってみることです。空つまり宇宙はUniverseですが、これはUni(一つに)verse(回るもの)であると同時に、太陽や月が輝き、そして星々が微かに煌(きら)めき揺らめいて私たちに囁(ささや)きかける存在(波動)でもあります。坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」(永六輔作詞、いずみたく作曲)の中に“小さな星の 小さな光が ささやかな幸せを 歌っている”などの詞を口ずさむとわかると思います。粒子でもあり波動でもある星々が私たちに語りかけているのが実感できるでしょう。

 

また、広大な海原を眺めるのもおすすめです。海水の波の動きつまり波動はその音と共にとても心地よいものです。天の波動が父なら海(=産み)の波動は母(海の字の中に母がある)と言えるでしょう。空海さんは室戸岬の洞窟で求聞持法(ぐもんじほう)を修行されていた時に、目にする光景が空と海であったところから空海を名乗られたとされます。

 

また、もっと身近な犬や猫、よく見かける鳩や雀や鯉その他の動物たち、森や林の木々や花等が風に揺られる様等々、それらの姿や動き・声・表情等に対してこちらが何かを感じて思いを寄せるのも互いの楽しい対話です。あるいはアーティストによる音楽や絵画・彫刻等の芸術作品との対話もありです。これら万物万象はすべて陰陽が引(惹)き合う愛のさまざまな表現でもあるのです。

 

私たちは、表面自我の分別知の世界は様々な喜怒哀楽や善悪・上下・貧富等々の二元論の世界ですが、その奥にそれらを超えた天地〔神〕の分身・化身の世界・愛の世界を読み取り感じることができるということです。

これらを感じ取るのは分別知の奥の感性に関わる玉し霊(たましひ)です。玉し霊が体に止(とど)まったのが霊止(ひと)ですが、玉し霊は玉であり英語ではSpinするSpin・ritつまりSpiritになります。この形容詞がSpiritualですが、天に近い山や海に近い海辺に行くと、Spiritualな波動に浸れます。あるいは人氣(ひとけ)のない自然の中で回峰したり流れる水の中で滝行をしたりするとSpiritualな部分が自ずと意識され体感できるようになります。それは分別知から解(ほど)けて脱(ぬ)けること(=解脱)につながります。高野山や比叡山・身延山とか山に仏教の総本山があったり、寺の門を山門といったり、人が山にいると仙人であり谷にいると俗人といったりするのもわかりやすくなるでしょう。

こうして自分も他人も含めて万物万象が実は神あるいはその分身・化身であることを味わうように心がけていると、その自覚が少しずつ深まるとともに神なる万物万象との対話が体感できるようになってくるはずです。

 

現在は疫病や戦争等で苦しい分断の時代であると言えるでしょうが、分断とは聖書的にはエデンの園の知恵の木(Tree of Knowledge)の実を食べていることが顕著に表れている時代であると言えます。KnowledgeのKnはナイフ(Knife)のKnと同じで切ること即ち分別知の象徴であり、ここから科学(Science)が生まれたと考えられます。科学(Science)のSciはハサミ(Scissors)のSciと同じです。科学は地上で生きるためには必要不可欠ですが、分別が高じて分断に至ると科(とが=罪)の学になってしまうのです。分別は大切だけれども分断は不幸を招くということです。知恵の木の実はエデンの園のもう一方の生命の木(Tree of Life)の実つまり神の木の実との両立が必要なのです。だからエデンの園の中央に二本の木が並べられていたのだと思います。

 

聖書には「言は神であった」、「言の内に生命があった」と書かれていますが、同時に「アルファでありオメガである」とあるように神は円でもあるのです。言=神=生命=円です。つまり知恵の木に象徴される分別知は地上では必要不可欠だけれども、それは同時に生命の木に象徴される円に収まらなくてはならない。それを表しているのが図2Aの太極円通図です。陰陽に象徴される分別知そしてその延長にある科学が必要不可欠であると同時に、それが一つの円に収まることが必要不可欠であるいうことです。

因みに、これは二宮金次郎(二宮尊徳)が唱えた一円融合の思想にもつながります。かつて、多分どこの小学校にも二宮金次郎像(図3)が置かれていたと思います。でも一円融合とか報徳といった大切な思想的内容が教育されたことはほぼなく、歩きながら本を読むのは危険だとか戦時教育の名残だとかの理由で像が撤去されてしまったのです。これからの時代を生きていくうえで一円融合の思想はぜひとも再認識されるべきではないかと思います。

 

図3  二宮金次郎像

報徳博物館HPより