私たちは皆んな天の空気を呼吸し、海を含めた地の産物を食しては大地に排泄しながら生き、母体から肉体を得て生まれては老化して死に至ると大地に還ります。

これは肉体レベルの話ですが、玉し霊〔たましひ:たましい〕も母体が悪阻〔つわり〕の頃に天の大霊〔たいれい〕の分け御霊〔わけみたま〕としてやって来て、潜在意識の自分が決めた然るべき縁のある母体に宿り、学び成長して肉体の死と共に天に帰って行きます〔帰天・昇天〕。図8の自然界円通図〔『究極の医療は円通毉療』より引用〕が参考になるかと思います。

〔図8〕

 

つまり私たちは誰もが同じ父なる天〔大霊〕と母なる地〔大地〕の化身なのです。さらに地は天の化身でもあるので、私たちすべての大元は天であり大霊であり個々人はその分け御霊であるということです。

 

何が言いたいかといえば、私たちは皆んなが本来一つの大霊でありその分け御霊としての個々人があるということです。つまり私たち皆んなが基本的に天地の神なる大霊の分身であり化身なのです。

その現れが言霊であり形霊〔かただま〕であり色霊〔いろだま〕や数霊〔かずたま〕等々だったりするのです。

 

このような言霊・形霊・色霊・数霊等々を日常生活で活用していると、見かけは個々別々の私たちですが存在の根本では一つである、つまり大霊であることが実感できるようになってくるでしょう。

例えば、Aさんが「ありがとう」の言霊を有声でも無声でも唱えて

AさんにO-リングテスト〔ORT〕や持ち上げテスト〔MT〕等の筋力反射テストを行うと筋力が瞬間的無意識的に増強しますが、遠く離れたBさんがAさんに向かって〔Aさんをイメージして〕唱えてもAさんに同様の反応が現れます。言霊は空間を超えるのです。

因みに、「ありがとう」の言霊で筋力が増強するのは、「ありがとう」の言霊を言われた本人の筋肉が無意識にウェルカムしてリラックスするために筋力が増強するというメカニズムだと考えられます。

 

また、白紙にAさんの名前と生年月日を書いて、その紙にBさんが「ありがとう」を唱えてもやはりAさんに同様の反応が距離に関係なく現れます。この場合は紙に書いたAさんの名前は形霊になります。これはお札・お守りや護摩木の原理にも通じます。お札やお守りや護摩木に祝詞や祈り・呪文等の言霊が染み込んでプラス効果を発揮するようになるのです。

 

また、Aさんに対する薬の処方を書いた紙〔形霊〕にAさんが左指をさすとその処方が適合する場合は右指に筋力増強の反応が見られます。しかし、同じく指をさして違う日付けを発音してもらうと合わない場合は筋力増強の反応は現れません。再度、合う日付けを発音してもらうと筋力増強反応がやはり現れます。言霊は時間も超えるのです。

こうして言霊が時空を越えるのも、AさんもBさんもテストをしている私も、もともと底辺では大霊として一つだからだと考えられます。

 

臨床応用では次のようなことも可能です。

生年月日〔数霊〕で体質や性格や飲食の傾向やバイオリズムがわかります。医学の父たるヒポクラテスや精神分析の大家ユング、最近では日本でも少数の医師が占星術を活用しています。中国でも10年以上前になりますが、国際学会で占星術を使った臨床例の発表がありました。生まれた日〔星〕の裏〔=心=うら〕を縄を綯(な)うように裏綯(うらな)うのです。舌診や腹診や脈診等(いずれも形霊)で全身の状況が判断できます。部分即全体なので舌や腹や脈といった部分が全身状態を現しているのです。その方の服装の色〔色霊〕等もその方の診断に役立ちます。

 

このようなことを繰り返し体験しているうちに、表面の自我意識では不思議に思われるのですが、そのうちにやはり皆んなが大霊であり神であることの理解へのきっかけになっていきます。白隠さんの「衆生本来仏なり」が理解できるようになります。医療とは本当は天と地が、そして自我の自分と分け御霊なる真我が一つであることを表す巫を土台にした毉療ですが、その毉療と宇宙〔ウ〕を示す〔=宗〕教えである宗教が一如であることもわかってきます。ヒポクラテスの誓いが神に対しての誓いであることも納得できてきます。

 

また、表面自我の世界では様々な人間模様があって、たとえ善悪や好き嫌い・貧富・上下・性別その他社会的レッテルの違いがあっても、実は皆んなが本当は神であることがわかってくるので、自分はもとよりどんな人も大切だし軽んじてはいけないことがわかってくるのです。

特に巫については巫女ということばがあるように女性は神に近い存在であることもわかってきます。そもそも神社の形は女性器を象ったものであり、道教〔タオ〕では「玄牝の門」といって崇敬の対象です。理趣経の意味もわかってきます。このあたりは『太極円通図から理解する般若心経と理趣経』をご覧ください。

 

要するに、自分も他人も軽んじてはいけないことが徐々にわかってくると思いますが、仏教では法華経の常不軽菩薩品〔じょうふぎょうぼさつぼん〕の章に説かれています。常に人を軽んじない菩薩〔お釈迦さんの前世の姿〕の行(ぎょう)です。性別や身分とかの社会的レッテルを超えてすべてが元は自分と同じ大霊であるというのが根幹になるのです。

 

さて、「私たちは天地〔神〕の分身・化身」という今回のお話は如何だったでしょうか。さらに私たち人間だけではなくて「万物万象が天地〔神〕の分身・化身」なのであり、私たちは万物万象と対話できるのですが、長くなるのでこのあたりで今回は終わります。興味のある方は『太極円通図から理解する般若心経と理趣経』をご覧ください。