前回のブログで言霊(ことだま)や形霊(かただま)が物質に変化を起こすことをご紹介しましたが、何故そんなことが起きるのかについて述べたいと思います。

霊は「れい」であり「たま」でもあるのですが、二次元的には円であり三次元的には球です。英語ならSpiritもしくはSoulなります。当院では、この円あるいは球を図で表したものが図1の太極円通図(一般には太極図)だと考えます。これは道教や儒教の象徴でもありますが、太極図の中に読み取れる陰陽の境界のS状の湾曲線はSpiritやSoulのSにも見えます。Sphere(球)、Space(宇宙)=Universe(一つに[Uni]回るもの[verse])のSでもあります。英語圏でも、これらSpiritやSoul等のSの付く単語の実体は太極円通図の形でイメージされていたのかもと思ってしまいます。

 

 

さて、この太極円通図は回転しているのですが、それは私見では「中心帰一の回転コマ運動」であると考えます。これは、古事記の国生み神話にヒントを得ました。

伊邪那美(いざなみ:女神)と伊邪那岐(いざなぎ:男神)の陰陽神が天の御柱の周りで互いに惹き合って回転しながら声掛けをしたのですが、最初は女神の方から「良い男ですね」、次いで男神が「良い女ですね」と声掛けをしたのですが蛭子(ひるこ)という不具の子が生まれました。そこで上位の神にお伺いを立てたところ、声掛けの順序が逆だったと。それで今度は男神の方から声掛けをしたら国生みが成ったのです。

この声掛けやり直しが回転の”対称性の破れ”につながり、揺らぎにつながり、回転“コマ”運動を生み出したと考えました。それは渦巻き状の回転とも言えます。鳴門の渦潮のようにです。

このやり直しは失敗のようで実はそうではなく、揺らぎを生み出すためには必要不可欠なものです。それが証拠に、不具の子である蛭子は、えびす=恵比寿であり西宮神社の御祭神になって崇拝されています。

ところで、量子力学では“粒子と波動の二重性”ということが言われますが、粒子に関して、「陰陽が引(惹)き合う心帰一の回転コマ運動をする」という発想は見当たりません。なので、“粒子と波動の二重性”と言われてもなかなか理解が難しいわけです。

でも、粒子に太極円通図のように回転するという発想があれば、これを横軸に伸ばせば波の動きつまり波動となり、図2の波動図になるのです。つまり、太極円通図のような形での粒子であれば、それは同時に波動でもあることになるのです。

そして仮に、粒子を物質とし波動を心・氣・霊とします。するとある人と接したときに物質としての身体を観ると同時にその人の心・氣・霊なるものを感じ取ることができます。つまり、物質=波動(心・氣・霊)であり、同時に相互に転換するという意味で物質⇔波動(心・氣・霊)であることも了解できるのではないでしょうか。そもそも物質と言ってもミクロの世界では素粒子から原子・分子などすべて動的に回転コマ運動をしているわけで、物質が固定的な存在ではないことは常識レベルのことなのです。人間関係をこのような視点で観ると、相互に影響し合うことなども理解しやすくなると思います。

ただ、物質と波動の何れが主かと言えば、波動が主です。昔から「念(今の心)ずれば花開く」とか、「霊主体従」とか言われてきた所以です。物質は三次元的な存在ですが、波動はそれ以上の存在なのです。これは日常診療で患者さんにも体験・体感していただいてます。

このようなことを押さえておくと、前回のブログのような言霊や形霊が物質を形成することも理解できるのではないかと思います。だから、ことば、つまり言霊の使い方というのはとても大事なことですよ、心して使いましょうとなるのです。

因みに、聖書では神のことを「我(神)は初め(アルファ)であり終わり(オメガ)である」、「初めにことばありき、ことばは神と共にあり、ことばは神なりき」という神の定義ともいうべき記述が二カ所(厳密には三カ所ですが)あります。これについての明確な解説には出会ったことがありませんが、私見では以下のように考えます。

前者は円のことで、厳密には中心帰一の回転コマ運動をする円で、図1の太極円通図で表されると考えます。円はどの点を取っても初めであり終わりであるからです。聖アウグスティヌスは「神の本質とはどこにも中心があって円周のない円である」といっています。無限絶対無始無終なる宇宙は神であるとも言えますが、それはUni(一つに)verse(回るもの)と表現されています。

後者は波動のことで、図2の波動図で表されます。日本語はシンプルなのでとても分かりやすいのですが、五十音を発音するとどの音もバイブレーションつまり波動を感じることがわかります。

この波動、これはことばであり心であり氣であり霊でもありますが、これらが物質を形成すると共に、形成された物質からいろんなものを感じ取れるという関係です。

以上、前回のブログの補足と致します。「言霊の幸わふ国」の日本人は、ほぼ忘れてしまったことば(言の葉)の大切さを再認識すべきだと思います。