2、個々人の観点から
 
①私たちは本来仏〔神〕である
白隠禪師は「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 喩えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず・・」と坐禪和讃で説いています。
 
北極圏で水〔海〕の上に浮かぶ様々な大きさや形の氷を想像しましょう。水が私たちの真我〔仏〕で個々の多様な氷が自我〔衆生〕です。個別の氷も本来みな同じ水です。氷は一見固定した存在に見えますが、時事刻々に形を変えるしやがて水に戻る一方で新たに生まれる氷もあります。
 
私たちの自我〔体〕の表面意識では個々別々だし体も生滅が見られますが、真我〔霊〕の深層意識では皆一つで且つ霊は不生不滅で不死です。
 
私たちの体は地上で生きるための霊の衣で有限です。霊こそが真実の我すなわち真我であり時空を超えた無限絶対無始無終の存在つまり仏であり神なのです。
 
このような真我なる自分に気付けた時、不安から必ず解放されるようになるでしょう。自我としての我も他人も真我では一つなので、「我も他人も共に幸せに生きるにはどうすれば良いか」の視点で生きていくことが大切であることが自ずと分かってきます。
 
そして、真我と自我の関係は親子関係であり、自我と自我の関係は兄弟姉妹の関係になります。真我は親なので子供たち皆んなの幸せを願うものです。これが親心です。
 
この親心に叶うように、個々の自我の天命〔全体の幸せのための役割分担〕が全うできますようにと日々祈り行動することを心がけるならば、いつ体が死のうが本望だと思えるようになる筈です。
 
敬天愛人の遺訓で有名な西郷隆盛はある屋敷の門を通った時、隣に雷が落ちました。でも西郷さんには特に驚く様子もありませんでした。これに驚いた門番が「なぜ驚かないのですか?」と尋ねたところ、「死ぬ時は死ぬ、死ぬも生きるも天の采配」というようなことを言ったそうです。
 
天の親心に叶うように自分なりに精一杯生きようとする限り、有限なる体の生死も天の采配と受容できると個人的には解釈します。そうすると①の「衆生本来仏なり」の認識に加えてさらに不安はなくなると思います。