前回ご説明した持ち挙げテストですが、テストをしたいご本人がご高齢であったり、リューマチ等の関節炎があったりする場合には、付き添いの方(あるいは当院のスタッフ)が代わりに持ち挙げテスト(スタッフの場合はOリングテスト)をすることもできます。

 

付き添いの方が左手でテストをしたいご本人の腕か肩に触れていただき、ご本人の代わりに右手で脈診台を使って持ち挙げテストをしていただきます。チェックをしたいご本人が発する言葉や、飲食物や薬の名を有声でも無声でも口にしてもらったり、実物に触れたり指差してもらっても、ご本人の反応が付き添いの方を通してチェックできます。

 

さらに、ご本人の反応はこのチェックをしている私にも現れます。ご本人にとってプラスの薬をご本人に触れていただく前に私が手にすると、微妙にその薬が温かく感じられるのです。私もリラックスして血管拡張が起きてくるのだと思われます。

 

つまり、ご本人も付き添いの方も私も同じ反応を呈しているわけで、見掛けは個々別々なのですが、集合的無意識というか全体意識ではチェック対象のご本人と付き添いの方と私は一体になっていると考えられるのです。このような反応は、三人が診察室に居る時に見られるだけでなく、電話を介して患者さんと薬や飲食をチェックする時にも起こります。この場合は患者さんのカルテをスタッフに持たせると、カルテを介して電話の向こうの患者さんと話をしながらチェックができるのです。カルテは患者さんの分身なのです。

 

さらに言うと、カルテがなくても患者さんの名前を言って「〇〇さんにとって□□は適合か」と問うても答えが出ます。要するに、患者さん、付き添いさん(またはスタッフ)、私の間には三次元的には空間的な隔たりがあるように見えますが、実のところは無いということです。 

 

ついでに、時間もないことも分かります。たとえば当日〇月〇日の処方が前回処方と変わったとします。この場合、カルテに書いた新処方を金属棒で指していただくと脈診台はもちろんスッと持ち挙がります。そして、前回の処方を金属棒で指すと当然持ち挙がりません。ところが、前回処方日の□月□日と言って前回処方を金属棒で指すとスッと持ち挙がるのです。逆に、新処方を金属棒で指して前回処方日の□月□日と言うと持ち挙がらないのです。こういう場合、通常は簡便性からOリングテストを使いますが、持ち挙げテストでもOリングテストでも時空を超えて反応します。

 

練習すると誰にでも出来るようになりますが、このようなことはなぜ起きるのでしょう? 白隠禪師の坐禪和讃に「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近くを知らずして 渇を叫ぶが如くなり・・」とありますが、2をご覧ください。

 

さまざまな形・大きさの氷が浮かんでいますが、それが私たち個々人です。そしてそれらを浮かべている海水が仏だと考えていただければ良いかと思います。見かけは別々に見えますが、すべては時々刻々に遷り変る海水の現われなのです。海水という仏の世界では一体なのです。海水は仏であり真我であり、氷は個々人の自我の姿です。真我の世界は仏の世界でもありすべての情報が存在しているので、言葉(言霊)に対して基本的に何でも答えてくれるのです。皆さん、自分を含めて誰もが衆生本来仏なのです。神なのです。

このような体験を積み重ねているうちに、自分に真の自信がつき、表面上の自我の現われは現われとして受容しながら、自分だけでなく他人も敬えるようになります。これを説いていたのが、法華経の常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつぼん)です。常不軽菩薩は変人とか奇人とか馬鹿にされながらも出会う人出会う人に「あなたは仏様なのですよ」と説いてまわるのです。この常不軽菩薩はお釈迦様の前世の姿です。宮沢賢治はこの常不軽菩薩のように生きたいと願っていたようで、「雨にも負けず」のなかでデクノボーと表現しています。(つづく)

2 水と氷