次なる方法は、法華三部経です。
ホ・オポノポノやいろは歌、

五井さんの歌等は簡単に活用できて

それで十分とも言えるのですが、

興味のある方は法華三部経もお勧めです。

こだわりを外すのに、

より深い処からの納得のうえで外せるからです。

法華三部経は仏教の集大成とも位置付けられるものですが、

そのうち開経である「無量義経」の十功徳品(じゅうくどくぼん)、

本経である「妙法蓮華経」の普門品(ふもんぼん=観音経)、

結経である「仏説観普賢菩薩行法経」を基本として

大学生の頃に学び今日に至ります。
あくまで自分なりの解釈ですが、

そのキーポイントを取り上げてみたいと思います。

先ず、「無量義経」ですが、

数限りない無量の意味を持つ教え、

即ち無量義の教えは無相あるいは実相と言う真理から

出ているのだと言うことを説いています。


無相・実相については本経に詳しく説かれるわけですが、

この無相・実相を説くお経を読誦していると

どんな功徳があるのか。

その第一の功徳が以下の通りです。



「善男子、第一にこの経は、

よく菩薩の未だ発心せざる者をして

菩提心(悟りを求める心・求道心)を発(おこ)さしめ、

慈仁なき者には慈心を起こさしめ、

殺戮を好む者には大悲の心を起こさしめ、

嫉妬を生ずる者には随喜の心を起こさしめ、

愛着ある者には能捨(のうしゃ: よく捨てる)の心を起こさしめ、

諸(もろもろ)の慳貪(けんどん:物惜しみや貪り)の者には

布施の心を起こさしめ、

驕慢(驕は立心偏でおごり高ぶる心)多き者には

持戒の心を起こさしめ、

瞋恚(しんい:怒り恨み憎しみ)盛んなる者には

忍辱(にんにく:忍受して恨まない)の心を起こさしめ、

懈怠(けたい:怠け怠る心)を生ずる者には精進の心を起こさしめ、

諸の散乱の者には禪定の心を起こさしめ、

愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ、

未だ彼(ひと:他人)を度する(救う)こと能(あた)わざる者には

彼を度する心を起こさしめ、

十悪を行ずる者には十善の心を起こさしめ、

有為(うい:無為の反対語で自然体でなくて作為的)を

楽(ねが)う者には無為の心を志さしめ、

退心ある者には不退の心を作(な)さしめ、

有漏(うろ:あれこれ不平不満を漏らす)を為す者には

無漏(むろ:不平不満を漏らさない)の心を起こさしめ、

煩悩多き者には除滅の心を起こさしむ。

善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名づく。



法華経を読誦して実相が「なるほどなるほど」と納得し

理解出来るようになるに従い、

第一の功徳が不思議に自ずと現れると言うことです。

当然、こだわりの心も薄らいでくるはずです。

次に、本経の「妙法蓮華経」です。

ある意味、膨大な量で読誦するのも

理解して身に付けるのも大変でしょう。


そこで、私なりの強引な纏め方をすると、

普門品(ふもんぼん)第二十五、

所謂「観音経」の『念彼観音力(ねんぴかんのんりき)』が

キーワードになると考えます。

観音つまり観世音菩薩の別名に

観自在菩薩があることから容易に分かると思いますが、

観音力は観自在力でもあるのです。


つまり観自在によれば、ピンチはチャンスであり、

苦難は幸福の門であり、最も苦手な人が観音である、

世の中に絶対的な善であるとか悪であるとかはない、

吉凶は糾(あざな)える縄の如しである、

「すべては空相であり無相であり、それが実相である」、

と言う自在な物の観方が大切だということです。


仏教のエッセンスたる般若心経の冒頭に

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時

照見五蘊皆空 度一切苦厄」とある通りです。

観自在力によれば、

一切が皆空つまり無相・実相であることが分かり、

一切の苦厄から救われるのです。


専門家はいろいろ仰るでしょうが、これが私なりの解釈です。

何時でもどんな場面でも念彼観音力に没入すれば、

こだわりは自ずと外れてきます。



最後に、結経である「観普賢菩薩行法経」です。

私がポイントと考える偈の部分は以下のようになります。



若(も)し眼根(がんこん)の悪あって業障の眼(まなこ)不浄ならば、

但(ただ)当(まさ)に大乗を誦(じゅ)し、

第一義(空:くう)を思念すべし。

是を眼(まなこ)を懺悔して諸々の不善行を尽くすと名(なづ)く。
耳根(じこん)は乱声(らんしょう)を聞いて和合の義を壊乱(えらん)す。

是によって狂心を起こすこと猶(な)お癡(おろ)かなる

猿猴(えんこう)の如(ごと)し。

但当に大乗を誦し、法の空無相(くうむそう)を観ずべし。

永く一切の悪を尽くして天耳をもって十方を聞かん。
鼻根(びこん)は諸香に著(ちゃく)して

染(せん)に随(したが)って諸(もろもろ)の触(しょく)を起こす。

此(かく)の如き狂惑の鼻、染に随って諸塵を生ず。

若し大乗を誦し法の如実際を観ぜば、

永く諸(もろもろ)の悪業を離れて後世に復(また)生(しょう)ぜじ。
舌根は五種の悪口(あっく)の不善業を起こす。

若し自ら調順せんと欲せば勤めて慈悲を修し、

法の真寂(しんじゃく)の義を思うて諸の分別の想(おもい)なかるべし。
心根は猿猴の如くにして暫しも停(とど)まる時あることなし。

若し折伏(しゃくぶく)せんと欲せば、

当に勤めて大乗を誦し

仏の大覚身力・無畏の所成(しょじょう)を念じたてまつるべし。
身は機関の主と為し

(心を含めたわが身と言うのは様々なはたらき機能の主人公であり)、

塵が風に随って転ずるが如し。
六賊(眼耳鼻舌身意[心]の六根)中に遊戯(ゆげ)して

自在にして罣礙(けいげ:さわり・こだわり)なし。
若しこの悪を滅して永く諸の塵労(じんろう:煩悩のわずらい)を離れ、

常に涅槃の城に処し安楽にして

心澹泊(こころたんぱく)ならんと欲せば、

当に大乗を誦し諸の菩薩の母を念ずべし。
無量の勝方便は実相を思うに随って得る。

此の如き等の六法を名づけて六情根とす。
一切の業障海は皆妄想より生ず。

若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え、

衆罪は霜露の如し慧日

(えにち:日光にたとえた広大無辺な仏の智慧)

能(よ)く消除す。
是の故に至心に六情根を懺悔すべし。



以上、私なりの法華三部経のまとめです。

昭和43年でしたが、大学に入学するや否や

全国的な学園紛争の嵐の中に放り込まれ、

入学後まもなく半年程が休校になりました。
お蔭でその間にお師匠さんから法華三部経の基本骨格を教わり、

立正佼成会の庭野日敬さんの

「新釈・法華三部経」を参考書にして勉強して以来今日に至るまで、

上記の経文を読誦し味わうことが超高性能の心の掃除機の役割を果たしています。