「テリュース君、今日は本当におめでとう」
声をかけられたのは、少し前のことだった。
テリィは年配の後援者と握手を交わしながら礼を言い、その向こうにいるキャンディを見ていた。なぜか隣にはエヴリンがいる。
二人が話していることには、その少し前から気づいていた。聞こうとして聞いたわけではなかった。
披露宴も後半になり、招待客たちは席を離れ、会場のあちらこちらで話をしている。
テリィも何人かの招待客に挨拶をしながら、お色直しが終わったキャンディを迎えようと移動しているうちに、たまたまキャンディの声が耳に入った。
「……エヴリンさんが、とてもきれいだったから」
足が止まった。何の話だろうと思った。
そして聞こえてきたのは、自分の名前だった。
キャンディは、エヴリンはテリィと同じ華やかな舞台の世界にいて、同じ芝居の話ができること。
毎日のようにジュリエットとしてロミオと向き合い、その腕に抱かれ、愛を告げられること。
そして、何より美しいこと。
そんな女性が、自分と同じようにテリィの外見や名声ではなく、その内側にあるものを知って、そこを好きになっていた。だから怖くなった。
いつかテリィの気持ちが、自分ではなくエヴリンへ向くのではないか。
自分には、エヴリンのようにテリィと同じ舞台に立つこともできない。
同じ世界の話をすることもできない。
そして――。
『私なんて、本当に何も持っていない、ただの人だから……』
その言葉を聞いたとき、テリィはしばらく動けなかった。
キャンディがそんなことを考えていたとは知らなかった。
エヴリンの美しさと自分を比べていたことも。
まして、自分を失うかもしれないと怖がっていたことなど。
そして、あの日、どうして自分が帰宅した途端、キャンディがあんなに強く抱きついてきたのか。
どうして突然、――私のこと、好き?と尋ねたのか。
それが分かった気がした。あれは、自分の気持ちを疑っていたからではなかったのだ。
キャンディは、自分自身を疑っていた。
自分がテリィのそばにいるに足る人間なのか。
あの美しい女優ではなく、自分でいいのか。
そんなことを、考えていたのだ。
テリィは何とも言えない気持ちになった。
あのときは、突然何を言い出すのかと思った。
きちんと気持ちを答えた。それで安心したように笑ったキャンディを覚えている。
まさか、その言葉の裏側にこんな思いがあったとは知らなかった。
やがてエヴリンの声が聞こえた。
『何も持っていないなんて言わないで』
エヴリンはキャンディに、彼女自身が気づいていないものを一つずつ話していた。
人の痛みを自分のことのように感じること。
自分より先に、誰かの幸せを考えてしまうこと。
好きな人に対してさえ、自分がどうしたいかではなく、その人がどう生きたいのかを考えること。
テリィはそこまで聞いていたが、そのあとは周囲の声で聞こえなくなった。
もう一歩近くに寄ろうと思ったそのとき、後援者に声をかけられた。
「テリュース君、今日は本当におめでとう」
隠れていたわけではない。
それでも、二人が同時にこちらを向いたとき、テリィは少しばつが悪かった。
「ありがとうございます」
後援者へ答えながら、キャンディを見る。
目が合うとキャンディの顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かぶ。
後援者と二、三言交わし、握手をして別れる。
そして二人のところへ向かった。
「テリュース……」
エヴリンは少しだけ困ったような顔をした。
どこまで聞かれていたのか、おそらく彼女にも分からない。
「改めて、おめでとう」
「ああ。ありがとう」
エヴリンはキャンディへ向き直った。
「それじゃ、キャンディスさん。またあとで」
「はい」
エヴリンが離れていく。
二人きりになると、キャンディは何か言いたそうにテリィを見た。
「何だ?」
「……ううん。何でもない」
たぶん、聞きたいのだろう。
どこから聞いていたの、と。
けれどキャンディは聞かなかった。
テリィも言わなかった。
ただ、目の前のキャンディを見ていた。
先に口を開いたのはテリィだった。
「……彼女と知り合いだったのか?」
「え?」
キャンディが目を丸くする。
その反応に、今度はテリィの方が眉を上げた。
「だって、さっき話してただろ。初めて会ったようには見えなかった」
「あ……」
キャンディはすぐには答えられなかった。
「し、知り合いっていうほどじゃないのよ」
「そうなのか?」
「うん。前に一度だけ……街で会ったことがあって」
「街で?」
「うん、ちょっとね」
ずいぶん曖昧な答えだった。
テリィが黙って見ていると、キャンディは困ったように笑った。
「そのときは、お互いに誰なのか知らなかったの。今日ここで会って、それで……」
それだけ言って、口を閉じる。
「そうか……」
テリィはしばらくキャンディを見た。
聞こうと思えば、いくらでも聞けた。
どこで会ったのか。そのとき何を話したのか。
自分の名前が出ていたのだから、少なくとも自分にも関係してるはずだ。
けれど、キャンディの顔を見れば、今ここで詳しく話したくないことくらい分かる。
それに、さっき聞こえてきた会話から、おおよそのことは想像ができた。
それ以上、聞かれなかったことにキャンディも、ほっとしたような、それでいてまだ少し気まずそうな顔をしている。
だからテリィはそれ以上言わなかった。
二人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
周囲では相変わらず人々の話し声が行き交い、笑い声が上がっている。
やがて会場に流れ始めたのは、それまでの歓談を邪魔しない穏やかな曲とは少し違う、ゆったりとしたダンスの曲だった。