あの日、どうしてテリィが帰ってきた途端、あんなに強く抱きつきたくなったのか。
どうして突然、
――私のこと、好き?
などと尋ねてしまったのか。今なら、自分でもよく分かる。テリィの気持ちを疑っていたわけではない。
ただ、確かめたかったのだ。自分が今、この人のそばにいていいことを。
エヴリンはしばらくキャンディを見つめていた。
「……キャンディスさん」
「はい?」
エヴリンはゆっくり首を横に振った。
「何も持っていないなんて言わないで」
キャンディが目を瞬く。
「あなたには、私にないものがたくさんあるわ」
「私に?」
「ええ」
エヴリンの声は穏やかだった。
「私は、好きな人に振り向いてほしくて、その人の気持ちより自分の気持ちを優先してしまった」
写真のことを言っているのだと、キャンディには分かった。
「でも、あなたは違う」
エヴリンは、先ほどテラスで偶然聞いた話を思い出していた。
「さっきね、あなたの昔からのお友達が話しているのを聞いてしまったの」
「アニーたち?」
「ええ。聞くつもりはなかったのよ。同じテラスにいたから、どうしても聞こえてしまって」
キャンディは黙って続きを待った。
「スザナさんのことも聞いたわ」
キャンディの表情がわずかに変わる。
「スザナさんが彼を庇って怪我をして、彼を愛していることを知って、自分から離れたのね」
「……はい」
「私には、できなかったと思う」
エヴリンは正直に言った。
「好きな人の幸せを、自分の望みより先に考えるなんて」
キャンディは何か言おうとしたが、エヴリンは小さく首を振った。
「それだけじゃないわ。あなたはきっと、いつもそうなのね。誰かが傷ついていると、自分のことを後にしてしまう」
キャンディが目を瞬く。
「人の気持ちを先に考えて、その人にとって何がいいのかを考える。好きな人に対しても、自分がどうしたいかだけじゃなくて、その人がどう生きたいのか、その人にとって何が幸せなのかまで考える」
エヴリンは少し笑った。
「そういうところ、私にはないもの」
「でも……」
「あなたが自分で気づいていないだけ」
その言葉に、キャンディは何も返せなかった。
エヴリンはしばらくキャンディを見つめたあと、少しだけ表情をやわらげた。
「それにね、私にはないものが、もうひとつある」
「何ですか?」
「テリュースの心」
キャンディの目がわずかに大きくなった。
エヴリンは穏やかに笑っていた。そこにはもう、負け惜しみのようなものさえなかった。
「それだけは、どんなにきれいなドレスを着ても、同じ舞台に立っても、私には手に入らなかった」
「エヴリンさん……」
「でも、それでいいの」
エヴリンははっきりと言った。
「だって、あの人の心は一度も私の方を向いていなかったもの」
自分を卑下しているのではない。ただ、今ならその事実をそのまま受け止めることができた。
「テリュースが好きなのは、キャンディスさん。あなただけよ」
キャンディはエヴリンを見つめた。
あの日、この人の話す言葉に、自分の知っているテリィの姿を重ねた。自分が好きになった彼を、この人も知っている。そう思うほど、怖くなった。
けれど、エヴリンが彼の何を知り、どんな思いで好きになったのか、そのすべてを聞いたわけではなかった。
たとえ同じところに惹かれたのだとしても、それでテリィまでエヴリンを好きになると決まったわけではない。
それなのに自分は、彼女の美しさも、同じ舞台に立てることも、すべてをその心配へ結びつけていたのだ。
テリィは、キャンディ自身に何度も気持ちを伝えてくれていた。
キャンディはそっと、左手の指輪へ触れた。
「ありがとう」
今度は、先ほどよりも素直に、その言葉が出た。
エヴリンは少しだけ息を吐いた。
「それに、もう大丈夫なの。私、吹っ切れたの」
キャンディはエヴリンを見る。
「テリュースを好きになったことは後悔してない」
エヴリンの声が少しだけ静かになる。
「こんなに誰かを好きになったのは、初めてだったから」
キャンディは何も言わず聞いていた。
「苦しかったし、みっともないこともした。あなたにも迷惑をかけた。でも、それでも好きにならなければよかったとは思わない。こんなに深く誰かを好きになれたんだもの。次に誰かを好きになったときは、今度はもう少し、その人のことを大切に考えられる気がする」
「きっとできます」
キャンディは迷わず答えた。エヴリンが少し笑う。
あの日、街角で泣いていた女性とは違う。もう、涙はなかった。
「私は、新しい出会いを待つわ。いつかまた誰かを好きになれたらいいなって思う」
キャンディの表情がやわらかくなる。
「きっと出会えます」
「ありがとう。あなたにそう言われるとそうなるような気がする」
エヴリンはそう言って笑った。
そして少し間を置いてから、キャンディの前へ右手を差し出した。
「お幸せに、キャンディスさん」
キャンディはその手を見て、差し出された手を、しっかりと握った。
「ありがとう、エヴリンさん」
二人はしばらくそのまま見つめ合い、やがてどちらからともなく笑った。
もう、二人の間に気まずさはなかった。
そのときだった。少し離れたところから、男の声が聞こえた。
「テリュース君、今日は本当におめでとう」
キャンディとエヴリンが、ほとんど同時に声のした方を見る。
数人の招待客の向こうに、テリィがいた。
年配の後援者らしい男と握手を交わしている。
「ありがとうございます」
テリィはそう答えた。そして――こちらを見た。
キャンディと目が合う。
一瞬だった。けれどキャンディは、なぜかその視線から目を逸らせなかった。
いつから、そこにいたのだろう。
隣でエヴリンも、わずかに息を呑んだ。
テリィは祝福の言葉に答えながら、ただ、キャンディを見ていた。