礼拝堂の入口側、その上階にある小さなギャラリー。大きなオルガンの陰になる場所で、エレノアはひとり、階下を見下ろしていた。
テリィを玄関先で見送ったあと、気付かれないように到着し、司祭との約束どおり、誰にも見つからないよう奥まった場所に座った。
ここは祭壇がよく見えた。長く並んだ長椅子も、その間をまっすぐ祭壇へ伸びる通路も。
そして、その先には――。
エレノアの視線が止まった。テリュースが、祭壇の前に立っている。その姿を見た途端、エレノアの胸の奥が熱くなった。
エレノアは目を細めた。
そのとき、オルガンの音が変わった。
礼拝堂の空気が静かに動く。参列者たちが入口へ顔を向ける。エレノアもそちらを見た。
扉が開いて、アニーとパティが新婦を先導するように入場し、やがてキャンディがアルバートの腕に手を添え、純白のドレスに身を包んでいる。
エレノアは思わず息を呑んだ。
何度も見たドレス。裾を直し、ベールを選び、細かなところまで一緒に確かめた。
それなのに、そのドレスを着て祭壇へ向かうキャンディは、まるで別人のように見えた。
キャンディが一歩を踏み出した。
長いベールが、歩みに合わせて床を滑っていく。
エレノアは、その姿を見つめていると、ふいに遠い日の記憶が蘇った。
スコットランドで初めて会った、まだ少女だったキャンディ。
自分はあの日、テリュースに会うために海を渡った。けれど、テリュースは自分を拒んだ。
当然だった。幼い頃に引き離された母親を求め、たった一人で大西洋を渡ってきた息子を、自分は拒んでしまったのだから。
その二人の間に入ってくれたのが、キャンディだった。
自分には会いに来てくれる母親はいない。だから、会いに来てくれるお母さんがいるなら、素直になって。そうテリュースへ言ってくれた。
あの日、エレノアは初めてキャンディを見た。そしてすぐに気づいた。
この少女は、息子にとって特別な人なのだと。その少女が今、花嫁になって、息子のもとへ歩いている。
エレノアの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
テリィが結婚すると聞いたとき、うれしかったけれど、その相手がキャンディだと知ったとき、胸の奥から、言葉にできないほどの安堵が込み上げた。
テリィが心から望んだ人。そして、自分が知っている限り、誰よりもテリィの心に寄り添ってきた人。
その人が、これから息子の隣にいてくれる。
キャンディが祭壇へ近づいていく。
エレノアは今度はテリュースを見た。その表情に胸がいっぱいになった。
なぜなら、ただ、うれしそうだったから。
エレノアは目元をそっと押さえた。
キャンディが祭壇へ辿り着く。アルバートの歩みが止まり、やがて二人が向かい合った。
あれほど長い間、離れていた二人が、今は手を伸ばせば届くところにいる。
やがて司祭の声が礼拝堂へ響いた。
エレノアは静かに聞いていた。
その言葉を聞いたときだけ、ほんの一瞬、遠い昔の記憶が胸をよぎった。
まだ若かった頃、テリィの父と出会い、愛し合い、それでも共に生きることは叶わなかった日々。
エレノアの視線はすぐに、祭壇の前にいる息子へ戻った。
司祭が息子の名を呼ぶ。
エレノアは無意識に背筋を伸ばした。
「あなたはキャンディスを妻とし、生涯を通して愛し、敬い、支え続けることを誓いますか」
テリィの迷い声が礼拝堂へ響いた。
エレノアは小さく息を吐き、微笑んだ。
そして、涙が一筋、頬を伝った。
続いてキャンディが答える。
――ありがとう、キャンディ。
心の中で、そう呟いた。
あの子を選んでくれて、ありがとう。
もう一度戻ってきてくれて、ありがとう。
二人が別れたあとのテリィを、エレノアは知っている。
劇団から姿を消し、どこにいるのか分からず、必死で探し、ようやく見つけた街には、キャンディもいた。
あのとき二人が再び結ばれることはなかった。
キャンディはテリュースのもとを離れ、テリュースもまた、自分の人生を歩き始めた。
『ハムレット』で舞台へ戻ったとき、エレノアはキャンディへ招待券を送った。
見てほしかった。あなたが愛した人は、もう一度立ち上がったのよ、と。
けれど、キャンディは来なかった。
それから長い年月が流れ、もう二人が同じ道を歩く日は来ないのだろうと思ったこともあった。
それなのに今、二人はここにいる。
エレノアには、それだけで十分だった。
やがて司祭が、二人が書いてきた言葉を読むよう促した。
テリュースが封筒を開く。そしてキャンディだけを見つめて、読み始めた。
エレノアは、涙の残る目で息子を見つめた。
「だからこそ、こうしてきみの隣に立てることを、誰よりも幸せに思っています」
その言葉に、エレノアは静かに微笑んだ。
幸せなのね。今、あなたは幸せなのね。
それが分かったことが、何よりうれしかった。
母親として願うことは、ただ一つ。
苦しいときには、今日ここで隣に立った人のことを思い出してほしい。
一人で抱え込まず、互いを頼ってほしい。
そして、どちらかが立ち止まったなら、もう一人が待ってあげられる二人でいてほしい。
「きみが笑う日も、涙を流す日も、どんな日でも、きみが安心して帰ってこられる場所であり続けられるよう、精一杯生きていきます」
エレノアの胸が熱くなった。
幼い頃、テリィは、安心して甘えられる場所を持てなかったのかもしれない。
父の屋敷で厳しく育てられ、母親である自分にも、甘えることができず。寂しい思いを、たくさんさせた。
けれど今、その息子が、自分から誰かの帰る場所になりたいと言っている。
エレノアは目を伏せ、祈るように両手を重ねる。
どうか。どうか、あの子の願いが叶いますように。
二人が何十年も先まで、こうして隣にいられますように。
今日のように笑い合える日が、一日でも多くありますように。
喧嘩をすることがあっても、すれ違うことがあっても、互いを見失うことだけはありませんように。
そして、いつか髪が白くなる頃にも、今日のことを思い出して、あの頃はずいぶん遠回りしたねと、二人で笑えますように。
エレノアは、もう一度そっと目元を拭った。
今日ここへ来てよかった。
息子が幸せになる瞬間を見ることができて、心からうれしく思った。
「ずっと、幸せでいてね」
その声は、オルガンのそばの小さな場所から外へ出ることはなかった。
届かなくていい。
母の願いとは、きっとそういうものなのだ。
何十年先も、二人が今日と同じように互いを見つめ、同じ場所へ帰り、同じ人生を歩いていること。
ただ、それだけを願いながら。
エレノアは誰にも知られない上階から、いつまでも二人を見つめていた。