ペントハウスでは、仕立て屋が帰る支度を終え、テリィはコートを手に取った。
そろそろ出る時間だった。エレノアがそれを見ている。
「忘れ物は?」
「ないよ」
「よかった」
「母さん。俺を何歳だと思ってるんだ」
「何歳になっても息子は息子よ」
当然のように言われ、テリィは笑った。
コートを羽織り、玄関へ向かう。エレノアも後をついてきた。
扉の前でテリィが振り返る。ほんの一瞬、何か言おうとした。けれどやめた。
今日ここへ来てくれて、支度を見届けてくれた。
それで十分だった。
「じゃあ、行ってくる」
エレノアは息子を見た。
白いタキシードの上にコートを羽織った姿。
もう少年ではない。
自分の人生を歩き、自分で愛する人を選び、その人と家庭を作ろうとしている男だった。
エレノアは微笑んだ。
「ええ、行ってらっしゃい」
テリィが扉を開け、一度だけ振り返り、笑った。
そして出ていった。扉が静かに閉まった。
*
ホテルでは、もう一度ノックの音がした。
今度はアニーが扉を開ける。
そこにアルバートが立っていた。
「支度は――」
言いながら部屋へ入ってきたアルバートが、途中で言葉を止めた。
キャンディが振り返る。
「アルバートさん?」
アルバートはしばらく何も言わなかった。
「どうしたの?」
「いや……」
ようやく笑う。
「驚いた」
「何に?」
「きれいだよ、キャンディ」
キャンディの頬が赤くなった。
「ありがとう」
アルバートは少し近づき、改めてキャンディを見た。
ポニーの丘で初めて出会った少女、アードレー家へ迎えた少女、何度転んでも立ち上がり、自分の道を選んできた少女。
そのキャンディが今、自分の前で花嫁になっている。
「テリィには、もったいないくらいだ」
「もう、アルバートさん!」
部屋に笑い声が広がった。
「本人には言わないでよ」
「どうしようかな」
「絶対だめ!」
アルバートが笑う。けれど、その目はどこか優しかった。
やがて時計を見る。
「そろそろだね」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
キャンディも時計を見る。胸が高鳴る。
テリィはもう教会へ向かっているだろうか。
もしかすると、着いているかもしれない。
アルバートが手を差し出した。
「行こうか、キャンディ」
キャンディはその手を見て、そして顔を上げる。
「はい」
手を重ねた。
アニーとパティも続く。
廊下へ出ると、ホテルの中にも朝の光が差し込んでいた。
エルロイ大叔母さまやアーチーたちは、一足先に教会へ向かっている。
これからキャンディも行く。
エレベーターを待ちながら、キャンディはブーケを両手で持ち直した。
昨日まで何度も想像してきたはずなのに、今になって心臓が早く打ち始める。
「緊張してきた?」
アルバートが聞いた。キャンディは笑った。
「うん。ちょっとだけ」
扉が開く。やがてホテルの正面玄関へ。
外には車が待っていた。
三月のニューヨークは、よく晴れて、冷たい風が吹いていた。けれど陽射しには、ほんの少しだけ春の気配があった。
キャンディは車へ乗り込む前に、空を見上げた。
今日、この空の下でテリィと結婚する。
もう不思議でも夢のようでもなく、はっきりと胸に届いた。
――テリィのところへ行くんだ。
キャンディは車に乗った。
*
その少し前。
ペントハウスを出たテリィを乗せた車も、ニューヨークの街を走っていた。
窓の外を流れていく景色を、テリィは黙って見ていた。
いつもの街、何度も通った道、何度も歩いたニューヨーク。けれど今日は、どこか違って見える。
やがて前方に、小さな教会の尖塔が見えてきた。
テリィはそれを見つめた。
そして、少し遅れてキャンディもここへ来る。
車がゆっくりと速度を落とす。テリィは小さく息を吐いた。
車は、聖ルカ教会の前へ静かに止まった。