三月十三日の夕暮れ。ペントハウスの窓から見えるニューヨークの街は、少しずつ夜の色へ変わり始めていた。

明日の朝に必要なものは、ほとんどホテルへ届けられている。ウェディングドレスも、靴も、ベールも、身支度に必要なものも、すでに手配されていた。

玄関のベルが鳴った。キャンディとテリィが同時にそちらを見る。

「来たみたい」

キャンディが言った。テリィは時計へ目をやった。

扉を開けると、そこにはアニーとパティがいた。

「こんばんは」

「迎えに来ました!」

パティの声がいつもより弾んでいる。

「わざわざありがとう。入って」

「でも、あまりゆっくりしていたら遅くなっちゃうわ」

アニーが言いながら中へ入ってくると、いつものように軽く抱き合う。テリィはその様子を少し離れたところから見ていた。

アニーがキャンディの鞄を見つける。

「鞄はそれね」

パティが鞄へ手を伸ばした。

「持つわ」

「いいわよ、自分で持てるわ」

「花嫁に持たせられません」

「まだ花嫁でないわ」

「あら、そうだった」

三人が笑う。テリィも笑ったが、ふと窓の外へ目を向けた。

「じゃあ、行きましょうか」

アニーの言葉に、キャンディが頷いた。

コートを羽織ると、テリィが自然に手を伸ばし、キャンディの襟元を整えた。

「今夜は寒いぞ」

「わかってる」

「明日、風邪ひいたなんて言うなよ」

「一晩で風邪なんてひかないわよ」

キャンディはふっと笑った。テリィも笑う。

けれど、どちらもすぐには動かなかった。

アニーがそれに気づいたらしい。

「パティ。先に廊下で待ってましょうか」

「あ……そうね」

二人は何も言わずに扉の外へ出ていった。

扉が静かに閉まる。二人きりになる。

さっきまで何でもなかった部屋が、急に静かになった。キャンディはテリィを見る。

「……じゃあ、行ってくるわ」

ほんの少しだけの沈黙、テリィがキャンディを見つめ、キャンディも見つめ返す。

これまで、二人は何度こんなふうに別れただろう。

次にいつ会えるのかわからない別れもあった。手紙だけを頼りに、それぞれの街へ戻ったこともある。

離れたくないのに、離れなければならなかった夜もある。けれど今夜は違う。

「じゃ、明日な」

テリィが言った。キャンディの胸の奥に、その短い言葉が静かに落ちた。

そんな約束を、これほど安心して聞ける日が来るなんて、昔の自分は知らなかった。

「うん。明日。教会で」

テリィの手がキャンディの頬に触れた。

顔が近づく、キャンディは目を閉じた。

唇が重なる。離れたあとも、テリィの手は頬に残っていた。キャンディが目を開ける。

「じゃあ……」

「ああ」

もう一度、互いに笑った。

キャンディが扉を開けると廊下ではアニーとパティが少し離れたところで待っていた。

「お待たせ」

「大丈夫?」

アニーが聞く。その顔が少し笑っている。キャンディが頬を赤くする。

パティは何も言わないようにしているらしいが、口元が明らかに笑っていた。

キャンディは振り返った。テリィが玄関に立っている。

「おやすみ、テリィ」

「おやすみ」

そして扉が閉まった。

         *

ホテルに着くと、アードレー家が手配した部屋にはすでに明日の準備が整っていた。

キャンディが泊まるホテルのセミスイートで今夜はここにアニーとパティが集まり、三人で過ごすことになっている。けれど二人は自分たちの部屋で少し用事を済ませてから来るらしく、先ほど「もう少し待っていて」と言われたばかりだった。

ベッドルームには、明日のために用意されたウェディングドレスが掛けられている。

キャンディは何度目か分からないほど、その白いドレスを眺めた。そのとき、扉を叩く音がした。

「はーい」

アニーたちだと思って扉を開けると、そこに立っていたのはアーチーだった。

「あら、アーチー」

「まだ一人?」

「うん。アニーとパティはもう少しかかるって」

「そうか。僕だけ先に来ちゃったな」

アーチーは少し笑った。

今夜はアーチーもここへ顔を出すことになっていた。明日になれば朝から慌ただしくなる。こうしてゆっくり話せるのも今夜くらいだろうと、皆で少し集まることにしたのだ。

「入って。もうすぐ来ると思うわ」

「ああ、ありがとう」

アーチーが部屋へ入る。

「明日の準備は?」

「たぶん大丈夫。忘れてるものがあったとしても、もう知らない」

「あはは、とりあえずドレスがあればなんとかなるよ」

「そうね、花嫁っぽく見えれば成立するもの」

二人は笑った。

アーチーは何気なく室内を見回し、ベッドルームの向こうに掛けられた白いドレスに気づいた。

一瞬だけ、目を止める。

「……いよいよだね」

キャンディもドレスを振り返った。

「うん」

その返事が、思いのほか小さかった。アーチーは少し笑った。

「もしかして、緊張してる?」

「少しだけ」

「キャンディでも緊張するんだな」

「するわよ!」

昔と変わらないやり取りに、二人はまた笑った。けれど、その笑顔を見たときだった。

アーチーの中に、ふいに昔の光景が蘇った。学院の廊下、数人の生徒、笑い声。

そして――テリィ。

ずっと昔のことだ。今までキャンディに話したことはない。話す必要もないと思っていた。

けれど明日、キャンディはテリィと結婚する。

アーチーは少し考えてから口を開いた。

「そういえば、キャンディ。僕、君にずっと話してなかったことがあるんだ」

「え?何?」

「学院にいた頃のこと」

キャンディが不思議そうな顔をした。

「……今さらなんだけどね」