ニューヨーク港を離れた車は、マンハッタンへ向かって走っていた。ジョージは窓の向こうを流れていく街並みを眺めていた。初めて見るニューヨークは、ロンドンとは何もかもが違っていた。

そして、その街の中を兄が当たり前のように車を走らせていることにも、まだ不思議な感覚があった。

港で再会してから、まだそれほど時間は経っていない。十年以上ぶりに会った兄、もちろん、ひと目で分かった。少年だった頃の面影は残っている。けれど、自分の記憶にある兄とは、どこか違って見えた。ジョージが前を向いたまま尋ねた。

「兄上。このままホテルへ行くのですか?」

テリィはハンドルを握ったまま答えた。

「いや。先に俺の住まいへ寄る」

後部座席からローレッタが顔を上げる。

「兄さまのお住まいへ?」

テリィの口元がわずかに緩んだ。

「新婦を紹介するよ。それからホテルへ送る」

「お会いできるのを楽しみにしておりました」

そう答えたローレッタに、テリィはバックミラー越しに目を向けた。

「彼女は驚くだろうけどね。ジョージが来ることしか知らないから」

ローレッタの表情が曇った。

「それは……申し訳ありません」

「気にしなくていいよ。驚く顔、見たいから」

テリィは何でもないことのように言った。

「え?それはどういう……」

「いや、こっちの話」

ローレッタが首を傾げていた。

やがて車は閑静な高級住宅街に入り、大きな建物の前に停まった。三人は車を降り、建物の中へ入る。

エレベーターで上階へ向かうテリィの後をついて行くジョージは黙って兄の横顔を見ていた。

兄がこの街でどんな暮らしをしているのか、自分はほとんど知らない。

やがてエレベーターが止まった。テリィは鍵を取り出して扉を開ける。そして――

「ただいま、キャンディ」

ごく自然な声だった。だが返事がない。テリィは少し奥を覗き込むようにして、もう一度呼んだ。

「キャンディ?」

すると奥から声がした。

その瞬間、ジョージの胸の奥に、ひどく古い記憶が蘇った。ロンドンの屋敷、重い扉、長い廊下。

父の低い声。そして――兄の声。

『俺のことは放っておいてください!』

まだ幼かった自分には、何が起きているのか分からなかった。ただ、兄と父がまた言い争っていることだけは分かった。

兄はいつも苛立っていた。父に何かを言われれば反発し、父が声を強めれば、兄も決して引かなかった。

『テリュース』

父が諌める。けれど兄は顔を背ける。何度、そんな場面を見ただろう。

ジョージは兄がなぜあれほど父に反抗していたのか、その理由を理解できる年齢ではなかったが、ただ覚えているのは、兄は屋敷にいても、いつも居心地が悪そうだった。

まるで、自分のいる場所はここではないとでも言うように。いつも何かに苛立ち、何かを拒み、誰にも近づかせないような顔をしていた。

そして母親も……『あの人に近寄ってはいけません』なぜそんなことをいつも母は言っていたのか、当時はわからなかった。

母の気持ちもわからなくはないが、だが、嫉妬する気持ちを兄にぶつけるのは筋違いではないかとジョージは思う。

「お帰りなさい、テリィ。ジョージさんは――」

足音とともに現れた女性の声で、ジョージは現実へ引き戻された。

女性はそこで言葉を止めた。テリィの後ろに二人いることに気づいたのだろう。驚いたように目を見開いている。

「キャンディ、紹介するよ」

テリィが言った。まずジョージを見る。

「弟のジョージ」

ジョージは一歩前へ出た。

「初めまして。ジョージ・グランチェスターです」

女性もすぐに姿勢を正した。

「初めまして。キャンディスです」

少し緊張しているようだったが、すぐに柔らかく微笑んだ。

「遠いところをお越しくださって……ありがとうございます」

ジョージは頭を下げた。

「こちらこそ。お会いできて光栄です」

そしてテリィがローレッタへ目を向ける。

「それから、妹のローレッタ」

キャンディの目が大きくなった。

「妹さん?」

ローレッタが静かに一歩前へ出る。

「初めまして。ローレッタ・グランチェスターと申します」

「初めまして」

「突然お伺いいたしましたことをお許しください」

「いえ、そんな……」

キャンディは慌てて首を振り、それからテリィを見た。

「俺もさっき港で初めて知った」

「えっ?」

また驚いたらしい。キャンディはしばらくローレッタを見ていたが、はっと我に返った。

「ご、ごめんなさい。どうぞ、中へ。長い船旅でお疲れでしょう?」

そう言って二人をリビングへ案内する。

「何か温かいものをお持ちしますね」

キャンディがキッチンへ向かと、テリィも、そのあとを追った。

「手伝うよ」

「大丈夫」

そのあと二人の声が小さくなり、何を話しているのかまでは聞こえなくなった。

ジョージは何となくキッチンの方を見た。やがて、キャンディの笑い声が聞こえた。続いて兄の声。ジョージは黙ったまま、その方向を見ていた。

不思議だった。兄の声が、記憶にあるものとはまるで違う。いや。声そのものが違うわけではない。そこに含まれているものが違うのだ。

棘がなく、誰かの言葉に身構えるような響きもなく、反発する準備をしているような硬さもない。

やがて二人が茶器を持って戻ってきた。四人でテーブルを囲む。最初の会話は、やはり少しぎこちなかった。

「ニューヨークは初めてですか?」

キャンディが尋ね、ローレッタが答える。

「ええ。ロンドンとはずいぶん違いますね」

「私も初めて来たときは驚きました」

「キャンディスさんはニューヨークのご出身ではないのですね」

「はい。ミシガン州の田舎町で育ちました」

少しずつ会話が続いていく。キャンディは無理に場を盛り上げようとはしなかった。沈黙すれば、紅茶を飲み、誰かが話せば、楽しそうに聞く。そして時折、テリィへ話を振り、そのたびに兄が答える。

ジョージはその様子を眺めていたが、自分も尋ねる。

「兄上。舞台のお仕事はずっとこちらで?」

「仕事はここが拠点だ」

「そうですか」

会話が途切れる。兄弟なのに。何を話せばいいのか分からない。それが少し可笑しくもあり、寂しくもあった。

兄がアメリカへ渡った頃、自分はまだ子どもだった。それから十年以上。その年月を、今さら数時間で埋められるはずもない。

ジョージは思った。兄がどんな人生を送ってきたのかを、少しずつでも知ることはできるのかもしれない。