ふいに、キャンディが立ち上がった。

「あ、そうだ。お菓子があったの。持ってきますね」

「俺が取るよ」

テリィも立つ。

「場所分かる?」

「分かるよ」

「じゃあお願い」

何でもない会話だった。けれど、ジョージはまた兄を見た。テリィは棚を開け、迷うことなく菓子の箱を取り出している。

キャンディはそれを見ながら、「お皿もお願い」と言う。

「はいはい」

「返事は一回」

「分かったよ」

キャンディが笑い、兄も笑った。

その瞬間、ジョージの中で、もう一つの光景が蘇った。

ロンドンの屋敷の食堂、長いテーブル。父が何かを言った。内容までは覚えていない。けれど、兄の顔が険しくなったことだけは覚えている。

『その話はもう聞きました』

『ならば、なぜ――』

『父上の言う通りにするつもりはありません』

椅子を引く音。父が兄を呼び止める。兄は振り返らなかった。ジョージは幼いまま、その背中を見ていた。

兄はいつも何かに怒っているように見えた。けれど今になって思えば、怒っていたのではなく――苦しかったのかもしれない。あの家にいることが。

「ジョージ?」

兄の声に、はっとする。

「ぼんやりしてるけど大丈夫か?疲れてるんだな」

「ええ。少し船旅の疲れが出たのかもしれません」

そう答えると、テリィが少し眉を寄せた。

「なら、そろそろホテルへ行ったほうがいいな」

ほんの些細な言葉だった。けれどジョージはまた、胸のどこかに小さな違和感を覚えた。

昔の兄なら、自分の疲れに気づいただろうか。いや。気づかなかったのではない。

あの頃の兄には、周囲を見る余裕そのものがなかったのかもしれない。

それからもうしばらく四人で話した。だが急に距離が縮まるわけではない。十年以上という年月は、そんなに簡単に縮まるものではない。

けれど港で再会したときより、兄の隣にいることが少しだけ自然になっていた。

やがてテリィが時計を見る。

「そろそろホテルへ行こう」

ジョージも頷いた。

「そうですね」

ローレッタも立ち上がる。キャンディは二人を玄関まで見送った。

「今日は本当にお疲れでしょう。ゆっくり休んでください」

「ありがとうございます」

ジョージが頭を下げる。

「お茶をごちそうさまでした」

「いいえ。またいらしてくださいね」

キャンディが微笑む。その言葉に、ジョージは少し驚いた。その一言が妙に温かく聞こえた。

「ぜひ」

ローレッタもキャンディへ向き直る。

「突然お邪魔いたしました」

「いいえ。お会いできてよかったです」

ローレッタも微笑んだ。

「私もです」

テリィが扉を開ける。

「じゃあ、ホテルまで送ってくる」

キャンディが頷く。

「気をつけてね」

「ああ」

「じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい」

扉が閉まった。廊下を歩きながら、ジョージはしばらく何も言わなかった。

前を歩く兄の背中を見ながら、ジョージは不意に思った。昔も、こうして兄の背中を見ていた。けれど、あの頃とはまるで違う。

ロンドンの屋敷で見ていた兄の背中は、いつも遠ざかっていくようだった。

誰にも追いつかれたくない、誰にも触れられたくない、そんなふうに見えた。

けれど今の兄には――帰る場所がある。あの扉の向こうに、自分を待っている人がいる。

そして兄自身も、そこへ帰ることを当たり前のように思っている。

「兄上」

ジョージが呼んだ。テリィが振り返る。

「何?」

ジョージは一瞬迷った。言おうと思ったことを、どう言葉にすればいいのか分からない。

「……いえ」

「何だよ」

「少し、驚いています。兄上に」

ジョージは兄を見た。テリィが眉を上げる。

「俺に?」

「はい」

「何が?」

ジョージは少し笑った。

「ずいぶん穏やかになられたと思って」

テリィの表情が止まった。ローレッタも黙って二人を見る。

「俺、そんなに荒れてた?」

冗談めかして言う兄に、ジョージは思わず笑った。

「少なくとも、私が覚えている兄上は、父上と顔を合わせるたびに言い争っていました」

「ああ……」

テリィが苦笑する。否定はしなかった。

「父上に何か言われれば反発して。諌められれば、ますます機嫌を悪くされて」

「よく覚えてるな」

「覚えていますよ」

ジョージは静かに答えた。

「子どもながらに、兄上はどうしていつもあんなに怒っているのだろうと思っていました」

テリィは何も言わなかった。

「でも今は」

ジョージは先ほど閉じた扉へ、一度だけ目を向けた。

「全然違いました」

テリィもつられるように扉を見る。

「そうかな」

「はい」

ジョージは頷いた。

「先ほどの兄上は、とても……」

言葉を探す。穏やかで楽しそうで、幸せそうだった。どれも間違ってはいない。

けれど、一番近い言葉は別にあるような気がした。

「居心地がよさそうでした」

テリィがジョージを見る。

「キャンディスさんの前で」

少しの沈黙。そしてテリィは、ほんのわずかに笑った。

「ああ。そうだな」

短い返事だった。

兄がなぜこの国へ来たのか、この十年以上、何があったのか、なぜキャンディスという女性を愛したのか。自分はまだ何も知らない。

兄が少年だった頃に抱えていたものも、今なら少しは理解できるかもしれないが、それでもすべてを知っているわけではない。

昔、ロンドンの屋敷で見ていた兄は、父に反発し、家に馴染めず、誰にも自分の内側へ入らせずどこか遠くを見ていた。

その兄が今は――穏やかに生きている。

エレベーターの扉が開いた。三人が乗り込む。扉が閉まる直前、ジョージはもう一度だけ兄の住まいの扉を見た。

あの扉の向こうには、兄が選んだ暮らしがあり、兄が選んだ女性がいる。

そしておそらく、十年以上前、自分が子どもだった頃にはどこにも見つけられなかったものを、兄はここでようやく見つけたのだ。

ジョージには、それが何なのかを言葉にすることはできなかった。