そして当日の朝。身支度を整えたテリィは、玄関でコートを羽織った。
「じゃあ、先に行く」
「うん。あとでね」
キャンディはまだ普段着のままだった。
これからゆっくり支度をするつもりらしい。
「遅れたら先にランチ食べるから」
「えー!遅れないわよ!」
テリィが笑う。そしていつものように、キャンディへ顔を寄せた。
キャンディもごく自然に目を閉じかける。
けれど何も触れてこなかった。
目を開けると、すぐ近くにテリィの顔がある。
「……何?」
テリィは何かを考えている。
「やめた」
「え?」
「初めてのデートなら、まだキスしてない二人だから」
キャンディは固まった。
「……はい?」
「じゃあ、あとで」
「ちょっと待って」
テリィはもう扉を開けている。
「そんな設定、今初めて聞いたわ!」
「俺も今思いついた」
「今!?」
テリィは振り返り少し笑うと扉が閉まった。
キャンディはしばらく、その扉を見つめていた。
「……何なのよ、もう」
いつもなら当たり前に交わしている朝の口づけ。
たった一度なかっただけなのに、妙に物足りない。
それが悔しくて、唇を尖らせる。
けれど次の瞬間には笑っていた。
本当に変な人。初めてのデートだから、まだキスをしていない二人だなんて、そんなもの、今さらできるわけがない。
そう思いながら寝室へ戻り、数日前から決めていた服を取り出した。
鏡の前で合わせてみる。
一度決めたはずなのに、やっぱり別の服のほうがいいかもしれないと迷う。
髪も、いつもより少しだけ丁寧に整えた。
今日は、待ち合わせ場所にいるテリィに、少しでもきれいだと思ってもらいたかった。
キャンディは鏡の中の自分と目が合った。
その頬が少しだけ赤い。
「……本当に初めてみたい」
誰もいない部屋で呟いて、また笑った。
*
約束の時間が近づく頃、キャンディは待ち合わせ場所へ向かう人の流れの中にいた。
いつものニューヨークの街なのに、今日は少し違って見える。
テリィに会いに行く、その違いだけで、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
やがて、約束した時計が見えてきた。
人々が行き交い、その下には誰かを待つ人たちがいる。キャンディは足を緩めた。
探すまでもなかった。少し離れたところに、背の高い男が立っている。
眼鏡をかけ、いつもより目立たない格好をしているつもりなのだろう。けれど、まるで意味がない。
その近くを通った若い女性たちが振り返っている。
「見た?」
「すごく素敵」
「誰か待ってるのかしら」
聞こえてきた声に、キャンディは思わず口元を緩めた。
昔からそうだった。彼はどこにいても、人の目を引く。本人はまるで気にしていないのに。
そして今も、何人もの人が彼を見ている。なのに。
ふいにテリィが顔を上げた。人混みの向こうから、まっすぐキャンディを見る。
一瞬で見つけると、笑った。その笑顔を見た瞬間、キャンディの胸が大きく鳴った。
毎朝、隣にいる人なのに、数時間前まで同じ部屋にいた人なのに、どうしてこんなにうれしいのだろう。
テリィが時計の下から離れ、こちらへ歩いてくる。キャンディも自然に足を速めた。
そして今から――初めてのデートが始まる。
*
「待った?」
キャンディが尋ねると、テリィは腕時計へ目を落とした。
「いや、ちょうどだ。俺が早く来ただけだよ」
「良かった」
数時間前まで同じ家にいた人なのに、こうして街の中で待っているテリィに会うと、なぜか少し照れくさい。
それはテリィも同じなのだろうか。眼鏡の奥から自分を見ている目が、いつもより長く感じる。
「……何?」
「別に」
「何よ」
「何でもない」
そう言ってテリィは歩き出した。けれどテリィ、本当は少し驚いていた。
キャンディが思っていたよりずっときれいにしてきたからだ。
派手な装いではないが、昼のリサイタルに似合う、きちんとした服と帽子。いつも一緒に暮らしているときとは違う。
自分とのデートのために選んできたのだと思うと、それだけで妙にうれしかった。
もっとも、そんなことを言えば自分が恥ずかしくなるだけだから言わないが。
「ねえ」
後ろからキャンディが追いついた。
「どこのお店に行くの?」
「もうすぐ着くよ」
「なんか朝から緊張しちゃって。でも、テリィと無事に落ち合えてホッとしたらお腹空いちゃった!」
「はは。きみの好物もあるから、食べたいものを頼んだらいいさ」
「本当!じゃあ早く行きましょうよ!」
キャンディが先に歩き出した。テリィは笑いながら、その隣へ並んだ。
いつもなら、ごく自然に手を取るところだった。けれど今日は――。
テリィが手を伸ばしかけたとき、キャンディがそれに気づいた。
「何?」
「コンセプトは、初めてのデートなんでしょう?」
「そうだけど」
「だったら、まだ手もつないでないんじゃない?」
テリィの手が止まった。自分で決めたこととはいえ、そこまでは考えていなかったらしい。
「キスが駄目なら、手だって駄目じゃないの?」
「きみ、妙なところだけ律儀だね」
「あなたが始めたんでしょう?」
テリィは手をコートのポケットへ入れた。
「わかった。じゃあ、つながない」
「え?」
「きみが言ったんだろ」
「そうだけど……」
キャンディは自分から言い出したことを、早くも少し後悔した。
いつもなら隣を歩けば、どちらからともなく触れている手が、今日はない。
たったそれだけなのに、妙に距離がある。
それが初めてのデートらしいといえば、確かにそうなのかもしれない。
キャンディは横目でテリィを見た。
テリィは知らん顔で歩いている。
――何よ。
少しくらい残念そうにしたっていいのに。
そんなことを思った自分がおかしくて、キャンディは前を向いた。