カフェを出てから、キャンディは少し足を速めていた。思っていた以上に遅くなってしまっていたからだ。

紙袋を抱え直しながら、人通りの増えた通りを急ぐ。夕食の支度もまだ何もしていない。

テリィはもう帰っているだろうか。それとも、今日は稽古が長引いているだろうか。そんなことを考えながら歩いていたときだった。

ふいに、さっき聞いた名前が頭の中に戻ってきた。

――エヴリン。

キャンディの足が、わずかに緩んだ。どこかで聞いたことがある。

別れ際に彼女が名乗ったときにも、そんな気がした。けれど、話し込んでいたこともあって、それ以上考えなかった。

それが今になって、胸の奥で何かに引っかかった。

「エヴリン……」

小さく口にしてみる。そして、次の瞬間、キャンディは立ち止まった。

――エヴリン・ハート。

少し前まで、テリィと噂になっていた女優。新聞で何度も見た名前だった。

『ロミオとジュリエット』でジュリエットを演じた、テリィの相手役。

「……まさか」

思わず振り返った。けれど、もちろんそこに彼女の姿はない。人々が行き交う夜の街があるだけだった。

同じ名前の人なんて、いくらでもいる。そう思おうとした。

けれどキャンディの頭の中に、カフェで聞いた話が次々と蘇ってきた。

――私だけじゃない。周りにも、あの人みたいになりたいって思っている人はたくさんいた。

――ずっと先を歩いている人だったから。

――あんなにたくさんの人に囲まれているのに、ときどき、とても一人に見えることがあった。

そして何より、話を聞きながら、何度自分はテリィを思い浮かべただろう。

誰にも気に入られようとしないところ、相手によって態度を変えないところ、自分にも人にも厳しいところ、けれど、人が誰にも見られないところで重ねた努力を、ちゃんと見ているところ。

あのときは、ただ似ていると思った。世の中にはテリィみたいな人もいるのね、と。

けれどもし、あのエヴリンが本当にエヴリン・ハートなのだとしたら。

「……テリィのことなの?」

思わず名前がこぼれた。エヴリンが話していた人は――テリィだったの?

胸の奥が、ざわりとした。キャンディはしばらくその場に立っていた。

噂については、もう何も疑っていない。テリィから聞いているし、劇団内にも正式に否定されたと。

それに、テリィとエヴリンの間に何かあったのではないかと思ったことはない。

今、キャンディの胸をざわつかせているのは、そこではなかった。

――エヴリンは、本当にテリィが好きだったということ。

噂が本当だったのではなく、彼女の気持ちが、本物だったのだ。

キャンディは再び歩き始めた。けれど先ほどまでより、足取りは少し遅くなっていた。

カフェで向かいに座っていた彼女の顔が浮かぶ。好きになった人には、すでに大切な人がいた。忘れようとしているけれど、それでも、まだ好きだと。

あのときは名前も知らない人の恋として聞いていた。だから素直に言えた。好きになることは止められない、と。

今すぐ忘れなくてもいい。今日まで好きだった気持ちまで、なかったことにしなくていい、と。

けれど、その相手がテリィだったと知った途端、自分の言った言葉が妙に胸へ返ってくる。

――だったら、今日はまだ好きでもいいんじゃない?

「私ったら……」

思わず額へ手を当てた。何を言っているのよ。よりによって、自分の結婚相手を好きな女性に。

けれど、すぐに別の思いが浮かんだ。もし最初から知っていたとしても、好きになることそのものを悪いとは、言えない。

テリィを好きになるな、なんて。そんなことを自分が言えるはずがない。

だって自分自身、忘れようとしても忘れられなかったのだから。それでも。

自分でも、それ以上うまく言葉にできなかった。

そして、もう一つの迷いが生まれた。

――テリィに聞いてもいいのかしら。

今日、エヴリンという女性に会ったこと、彼女から失恋の話を聞いたこと、そして、その相手がテリィではないかと思ったこと。

聞けば、テリィは答えるだろう。きっと隠したりはしない。けれど、エヴリンは自分がテリィの婚約者だとは知らずに話したのだ。

知らない相手だったからこそ、あれほど素直に胸の内を明かせたのかもしれない。

それをそのままテリィへ話してしまっていいのだろうか。

考えながら歩いていたキャンディが、不意に顔を上げた。そして――別のことを思い出した。

エヴリンの顔。

「……」

きれいな人だった、とても。

泣いたあとだったから目元は少し赤かったし、最初に見つけたときなど、口元を押さえて道端にしゃがみ込んでいた。

それなのに、カフェで落ち着いてから改めて見ると、驚くほど整った顔をしていた。

ニューヨークへ来てから、華やかな女性はたくさん見た。街を歩けば、洗練された服を着た女性もいる。それでもエヴリンは、違った。

同じ女性が見ても、思わず目で追ってしまいそうな美しさだった。

――あの人が、ジュリエット? テリィと、毎晩舞台に立っていた人?

そこまで考えたところで、キャンディはなぜか自分の姿を見下ろした。

コートのその下はいつものワンピースに歩きやすい靴。買い物へ出るには何もおかしくない。

きちんとはしている。けれど。

「……」

さっきまで向かいに座っていたエヴリンの姿が、もう一度浮かんだ。それから自分を見る。もう一度、エヴリンを思い出す。また自分を見る。

「……比べるんじゃなかった」

誰にともなく呟いた。途端に、自分の服がひどく地味に見えてきた。

別にお洒落をして買い物へ出る必要なんてない。夕食の材料を買いに来ただけなのだから。

分かっている。分かっているけれど――。

キャンディは自分の髪にも触れてみた。朝、ちゃんと整えた。たぶん、まだ大丈夫。

でもエヴリンは、泣いたあとでさえきれいだった。

「……女優さんだものね」

自分に言い聞かせる。

そうよ、比べるほうがおかしい。相手は舞台に立つ女優なのだから。

ところが、もう一人のキャンディが心の中で囁いた。

――その女優さんが、テリィを好きなのよ。

「……」

なんだろう、この気持ち。

テリィを疑っているわけではない。エヴリンという人に対して嫌悪感があらわれたわけでもない。

むしろ、話してみればとても素直な人だった。好きになった理由を聞けば、気持ちまで分かってしまった。

それなのに、彼女がテリィを好きなのだと気づいた途端、さっきまで気にも留めなかった自分の服や髪まで気になり始めるなんて。

「……もう」

キャンディは紙袋を抱え直した。そして今度こそ、家へ向かって足を速めた。

テリィに聞こうか。聞かないでおこうか。まだ答えは出ない。

けれど一つだけ確かなことがあった。

さっきまでただの夕食の買い物帰りだったはずなのに。

今は無性に家に帰って、テリィの顔が見たかった。