学院のオリエンテーリング。地図を手に、いくつかのチェックポイントを回ってゴールを目指すだけのはずだった。
最初のうちは順調だったのだ。ところが途中で分かれ道を一本間違え、それに気づいて戻ったつもりが、今度は自分がどこにいるのか分からなくなった。
一方、学年上のテリィはとっくにゴールしていた。
キャンディがまだ戻っていないと知った彼は、
「ちょっとその辺見てくる」
まるで散歩にでも行くような顔で、教師が止めるより先に山道へ戻っていったのだ。そして――
「おーい!キャンディ!ターザンそばかすー!」
聞き慣れた声が木々の向こうからしたとき、キャンディがどれほどほっとしたか。もちろん、本人には絶対に言わないけれど。
「ねえ、テリィ。あと、どのくらいで集合場所?」
「もうそんなにかからないよ」
そう答えながら、テリィが空を見上げた。さっきまで木々の間から差し込んでいた陽射しが、いつの間にかずいぶん弱くなっている。
山の夕暮れは早い。明るいうちは何でもなかった木々も、陽が傾くにつれて黒い影を落とし始め、鳥の声も少なくなった。
風が吹くたび、ざわざわと枝葉が揺れる。その音を聞いているうちに、キャンディは急に心細くなった。
「……今、何時ころかしら?さっきより暗くなってきたから」
テリィは左手首を上げ、スマートウォッチの画面を確認する。ところが、テリィは画面を何度か操作したが。
「電波が圏外になってる」
「じゃあ、時間分からないの?」
「いや。別の方法で大体ならわかるかな」
そう言って、テリィは立ち止まった。そして木々の間から見える西の空へ目を向ける。
「キャンディ、ちょっと待って」
テリィは太陽の位置を確かめると、腕を伸ばした。
指を揃え、太陽と山の稜線との間に手を重ねていく。一つ、二つ。
キャンディは不思議そうに、その横顔を見ていた。
「……何してるの?」
「日没までどれくらいあるか見てる」
「そんなこと分かるの?」
「大体な」
テリィはもう一度指の幅を確認した。
「指一本分が15分くらい。手のひら一枚で大体一時間」
「へえ……」
キャンディも真似をして腕を伸ばした。
テリィは空を見上げる。
「あと一時間半で日没かな」
「そんなことまで分かるなんて……」
キャンディは感心したように彼を見た。
「テリィって、なんでもできるんだね」
一瞬テリィの動きが止まった。
「……何だよ、急に」
「だって、そうでしょう? 山の中で時間まで分かるなんて」
「別に。何かの記事で読んだだけだよ」
「でも覚えてたんでしょう?」
「たまたまだよ」
テリィはさっさと歩き始める。その耳がほんの少し赤くなったように見えて、キャンディは笑った。
しばらく行くと、道が急に険しくなった。大きな岩が重なるように露出し、ところどころ濡れた苔がついている。
「ここ、滑るから気をつけろよ」
「大丈夫よ、これくらい」
そう言った直後だった。
「きゃっ!」
足元の石がぐらりと動いた。その瞬間――ぐい、と腕を引かれた。
「危ない!」
テリィがキャンディの身体を引き寄せ、そのまま支える。
「だから言っただろ」
「……びっくりした」
「俺の台詞だよ」
テリィは足元を確認すると、キャンディへ手を差し出した。
「ほら」
キャンディはその手を見る。
「……大丈夫よ」
「また滑ったら面倒だから」
「面倒って何よ」
「いいから」
仕方なく、キャンディは手を重ねた。ぎゅっと握られる。思ったより大きな手だった。
学年上とはいっても、学院ではいつも憎まれ口ばかり叩いてくるテリィ。廊下ですれ違えばからかわれ、言い返せば面白そうに笑う。なのに今は――
「ここ、段差あるぞ」
キャンディの手を引きながら、一歩先を歩いている。岩場が終わっても、しばらくキャンディもテリィもその手を離さなかった。やがて木々の向こうが明るくなった。
「……あ、着いた……!」
キャンディが声を上げる。
見覚えのある広場。オリエンテーリングの集合場所だった。
キャンディの顔がぱっと明るくなる。けれど、広場は驚くほど静かだった。先ほどまで大勢の生徒で賑わっていたのに、今いるのは数人の教師だけ。生徒たちはすでに班ごとに山を下り始めたらしい。
二人の姿を見つけた教師が、大きく手を振った。
「グランチェスター!キャンディス!」
「先生!」
キャンディも手を振り返す。
「よかった! 本当に……!」
駆け寄ってきた教師の顔には、安堵と叱りたい気持ちが半分ずつ浮かんでいた。
「キャンディス、怪我は?」
「ありません!」
「道に迷ったと聞いて、本当に心配したんですよ」
「ごめんなさい……」
しゅんとするキャンディの横で、テリィは何も言わなかった。
「グランチェスターもありがとう。君まで戻ってこないと聞いたときには肝が冷えましたけどね」
「すみません」
「でも、キャンディスを見つけてくれて助かりました」
テリィは少し肩をすくめただけだった。
「たまたま見つけただけです」
キャンディが横からテリィを見る。
――嘘。自分を探しに来てくれたくせに。
先生たちが下山の準備を始める。キャンディもその後について歩き出そうとして、ふと自分の右手を見た。さっきまでテリィが握っていた手、まだ少しだけ、温かい気がする。
前から声がした。顔を上げると、テリィが振り返っていた。
「置いてくぞ、ターザンそばかす」
「もう! その呼び方やめてって言ってるでしょう!」
キャンディは走って追いかけた。その姿を見て、テリィが笑う。
いつものテリィだった。けれどキャンディには、ほんの少しだけ違って見えた。
山の中で、何でもないように自分を探しに来てくれた少年。暗くなり始めた山道で、当たり前のように差し出された手。
その手の温もりを、キャンディは山を下りても、しばらく忘れることができなかった。