『ロミオとジュリエット』の千穐楽から一週間後。
ストラスフォード劇団では、新しい公演へ向けた準備が始まろうとしていた。
そんな中、劇団員たちへ一つの通達が出された。
制作部からの正式なものだった。
そこには、先日の新聞報道について、簡潔に事実だけが記されていた。
――テリュース・グレアムとエヴリン・ハートについて。
一部新聞で交際を示唆する記事が掲載されているが、そのような事実はない。
二人は『ロミオとジュリエット』で共演した俳優同士であり、劇団内では先輩と後輩という関係にある。
そして、もう一つ。
――テリュース・グレアムには現在、正式に婚約している女性がいる。
相手は芸能活動に関わりのない一般人であり、本人の生活を守るため、氏名その他の個人情報については公表しない。
通達の最後には、劇団員への注意も添えられていた。
今後、新聞記者などから今回の報道について質問を受けた場合、個人的な推測や憶測による発言は控えること。
取材への対応は、すべて劇団の制作部を通すこと。
それは、団員たちを黙らせるためのものではなかった。
『ロミオとジュリエット』の公演中から、楽屋口や稽古場の周辺には記者たちが姿を見せていた。
テリィ本人だけではない。
マイケルやケビン、若い団員たちにまで、
――二人は本当に付き合っているのか。
――稽古場でも親しかったのか。
――エヴリンがテリィの楽屋へ出入りしていたことはないか。
そんな質問が向けられるようになっていた。
何気なく答えた一言が、翌日にはまったく違う意味の記事になることもある。
だからこそ劇団は、事実を団員全員へ周知することにしたのだった。
通達を読んだ団員たちの反応はさまざまだった。
「婚約してたのか……」
驚く者もいれば、
「だから、あの記事に何も反応しなかったのか」
と納得する者もいる。
けれど、相手が誰なのかを知る者は、ほとんどいなかった。
テリィ自身、詳しいことを話してはいなかったからだ。
ただ一つ、はっきりしたことがある。
新聞が描いた“舞台の外のロミオとジュリエット”は、存在しなかった。
舞台の幕が下りれば、二人はただの俳優仲間だった。
そして数日後。
新しい公演の読み合わせを前に、劇団には再び俳優たちが集まっていた。
テリィが楽屋へ向かって廊下を歩いていると、向こうからエヴリンがやって来る。
二人は自然に足を止めた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
ほんの短い沈黙。
以前なら、その程度のやり取りでさえ、誰かに見られれば記事の材料にされたかもしれない。
けれど今は、もう違った。
エヴリンが穏やかに微笑んだ。
「少し遅くなりましたけど……ご婚約、おめでとうございます」
その笑顔は、もうジュリエットではなかった。
一人の女優、エヴリン・ハートのものだった。
テリィも静かに笑みを返す。
「ありがとう」
それだけで会話は終わるはずだった。
けれどエヴリンは小さく息を吸うと、真っすぐテリィを見つめた。
「一つだけ、お話ししておきたいことがあります。時間は取らせません」
テリィは黙って頷いた。
エヴリンは少しだけ視線を落とした。
「最初の写真……あれは、私が記者に渡しました」
テリィの表情がわずかに変わる。
「記者にも何度か会いました。恋人だとは言いませんでした。でも……否定もしませんでした」
少しだけ笑う。
その笑みは、自分自身を責めるようでもあった。
「私は……舞台の外でも、ジュリエットになりたかったんです」
静かな沈黙が落ちる。
「ロミオとジュリエットを演じているうちに、舞台が終わっても、その続きを夢見てしまいました。あなたが優しかったことも、新聞の記事も……全部、自分に都合よく受け取ってしまった」
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
テリィはしばらく何も言わなかった。
責めようと思えば、責めることはできた。
あの記事によって、キャンディが傷つかなかったわけではない。
自分自身も腹が立たなかったわけではない。
けれど、今こうして自分から真実を話しているエヴリンを、それ以上追いつめようとは思わなかった。
「……ありがとう。話してくれて」
エヴリンが顔を上げる。
「ただ、もう二度としないでくれ」
静かな声だった。
けれど、その言葉にははっきりとした線が引かれていた。
「俺だけの問題じゃない。傷つく人がいるから」
エヴリンは、その言葉の意味をすぐに理解した。
婚約者。
名前さえ明かされなかった、その女性。
テリィが守ろうとしている人。
「……はい」
エヴリンは小さく頷いた。
そして少しだけ表情を和らげる。
「次の舞台では、変な噂じゃなく、お芝居で話題になりたいです」
その一言に、テリィもようやく小さく笑った。
「ああ。その方がずっといい」
二人は軽く会釈を交わし、それぞれの楽屋へ歩き出した。
もう、ロミオでもジュリエットでもない。
舞台の上で恋人を演じた時間は、幕とともに終わった。
これからはただ、同じ劇団で芝居をする、一人の俳優と一人の女優として。
そしてテリィには、舞台の外に帰る場所がある。
新聞には名前さえ載らない。
けれど彼にとっては、誰よりも大切な人のもとへ。