「……ファンから逃げたときだよ」
「逃げたとき?」
「劇場を出たところで見つかってさ。やっと振り切って駐車場まで来たと思ったら、別の連中が向こうから来た。また見つかったら面倒だと思って、隠れる場所を探したんだけど――」
テリィは自分たちが座っている枝を軽く叩いた。
「ちょうどいい木があった」
キャンディは想像してしまった。ニューヨークの街で、大勢の女性たちから逃げ回り、最後には木の上へ避難しているテリィ。
「あはは……それおかしい!」
「俺は必死だったんだ」
「それで? 見つからなかった?」
「見つからなかった。木の下を通っていった。こんなとき、木に登れることが役に立った」
二人の視線が重なり、やがてどちらからともなく笑った。ひとしきり笑ったあと、キャンディがぽつりと言った。
「でも、なんだかうれしいな、こういう話」
キャンディは隣の枝に座るテリィを見る。
「私が知らなかった頃のテリィが、少し見えた気がするから」
テリィの表情が柔らかくなった。
「こんな話なら、いくらでもあるよ」
「本当?」
「ああ。十年近くあるんだぜ」
キャンディは小さく頷いた。
二人には、お互いの知らない時間がまだたくさんある。けれど、それはもう寂しいだけの空白ではなかった。これから少しずつ、話していけばいい。
キャンディは微笑んだ。
「じゃあ、少しずつ教えてね」
「ああ。きみもな」
二人は顔を見合わせて笑った。そして再び、同じ景色へ目を向けた。
しばらく二人とも黙っていた。風が枝葉を揺らす。
テリィが呟いた。
「ここが、本物のポニーの丘……」
キャンディは笑った。
「そう。本物よ」
「にせものより、ずっといいな」
「でしょう?」
「もっとも、あっちは俺の昼寝場所だったんだけどね」
二人は笑った。やがてテリィは、もう一度景色へ目を向けた。
「あれがポニーの家だな」
「うん」
「向こうは麦畑」
「その先をずっと行くと村の中心に出るの。昨日歩いたでしょう?」
「ああ」
「あっちの山はね、夕方になるともっと綺麗なのよ。空が赤くなると、山まで赤く見えるの」
キャンディは次々に指を差した。テリィはその一つひとつを目で追った。
これが、キャンディがずっと見てきた景色。幼い頃から何度もこの木へ登り、ここから世界を眺めていた。自分と出会うずっと前から。そして、自分と離れていた長い年月にも。
テリィはしばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言った。
「……なんか、ごめんな」
キャンディが振り向いた。
「え?なにが」
テリィは景色を見たままだった。
「きみ、ここが好きなんだよな」
「うん。大好きよ」
迷いのない返事だった。テリィは小さく笑った。
「昨日、村を歩いて分かったよ」
診療所、薬草畑。畑で会った村人たち。カートライトの牧場。
どこへ行っても、そこにはキャンディの暮らしがあった。
「きみは、ここにちゃんと根を張って生きてる」
キャンディは何も言わなかった。
「それなのに俺……きみが育ったこの場所から、俺が連れ出してしまうみたいで」
その横顔には、ほんの少し申し訳なさそうな色があった。
キャンディは驚いた。テリィがそんなふうに考えているとは思わなかった。
「テリィ。それは違うわ」
静かな声だった。
「あなたが私を連れていくんじゃない」
テリィが彼女を見る。
「私が行きたいの。あなたのそばに」
テリィの瞳がわずかに揺れた。キャンディは微笑んだ。
「ここを離れるのが寂しくないって言ったら、嘘になるわ」
ポニーの家を見る。
「先生たちも、子どもたちも、診療所も、この村も……全部大好きだもの」
風が金色の髪を揺らした。
「でもね、ここが大切なことと、あなたと一緒にいたいことは、別なの」
「キャンディ……」
「私は自分で決めたのよ」
少し照れくさそうに笑う。
「ニューヨークへ行って、テリィと暮らしたいって」
テリィは何も言わなかった。
ただ、彼女を見つめていた。
「それに」
キャンディは少し悪戯っぽく目を細める。
「ここを捨てるわけじゃないでしょう?」
「もちろん」
「だったら、また帰ってくればいいもの」
「そうだな。何度でも来よう」
その言葉に、キャンディはうれしそうに笑った。
「約束よ」
「ああ」
テリィはそっと手を伸ばし、キャンディの手を取った。
木の上で、二人の指が重なる。眼下にはポニーの家がある。遠くには麦畑、その向こうには山々。
キャンディがこれまで生きてきた世界が、朝の光の中に広がっていた。そして今、その景色をテリィも見ている。
キャンディはふと思った。昨日までと同じ景色なのに、少しだけ違って見えるのは、たぶん、この場所にテリィがいるから。
キャンディは繋いだ手に、そっと力を込めた。
ここを離れる寂しさはある。けれど、ここで過ごした時間まで置いていくわけではない。
そしてこれからは、ニューヨークにも自分の帰る場所ができる。
握った手に力が返ってくる。
キャンディは微笑み、もう一度いつもの景色を見渡した。
大切な場所を胸に抱いたまま、大切な人と新しい未来へ歩いていけばいい。
そう思うと、丘を渡る風が、いつもより優しく感じられた。